第十七話
ペングイン大陸の闇に呑まれた壁がありありと見えるオルカァイで、陽気な声を出すものはほとんどいなかった。
実際に壁という表現は正しくはなく、どういう形で闇が広がっているのかは誰にもわからない。
あまりに黒すぎる黒という色は凹凸さえもわからなくなり、絵画の一部に墨を落としたかのような不調和な光景が目の前に広がっているせいで、少なからず精神がすり減る状況が続いているからだ。
精神を保つ防衛本能なのか、どの場所でも焚き火を絶やすことはない。夜中でも、島のあちこちで不安定な焚き火の明かりが揺らめいている。
そのせいで、煙は上空の雲を乗っ取る勢いでもうもうと上がっていた。
そのうちの一つの焚き火に当たりながら、リットは「調査隊なんてものに入ってなけりゃ、今頃ここでランプを売って大儲けだな」と呟いた。
「調査隊に入ってないと、こんなところまで運んでくれる船なんてないっスよ。旦那は船の掃除をサボってブラブラしてたから見てないでしょうけど、ムーン・ロード号だけですぜェ。ペングイン大陸に向かった船は」
ノーラが薪を一つ焚き火の中に投げ入れると、ドラゴンの吐く炎のように高く火柱が上がった。
周りの兵士は驚きに短い悲鳴を上げたり、火柱が消えるまで視線が釘付けになったりしていたが、リットはもう見慣れているので、いまさら反応することもなかった。
「他の船に乗ってた奴らは、今頃うまい酒を誰の目を気にすることもなく飲んでんだろうな……」
「それに美味しいごはんもっス……」
ノーラはリットがかき混ぜている鍋に視線を向けていった。
得も知れぬ臭いの湯気が沸き立つ鍋の中では、黒に近い緑色の草がオタマに引っかかってグルグルと不気味な渦を描いていた。
「いつもの食べ慣れたスープじゃねぇか」
「食べさせられてるだけで、いつまで経っても食べ慣れませんよ。前にも言いましたが、お腹を膨らませるだけのものは料理とは言わないんスよ」
「なら、自分で作るか?」
「私が作ったら、まっ黒もまっ黒の焦げ焦げで、アレと見分けがつかないものが出来上がりますけど。……いいんスか?」
ノーラがペングイン大陸の方角に向かって指をさすと、リットもその方角に視線を向けた。
「同じ真っ黒なら、いっそアレを食ってくれりゃあ、問題は一気に解決すんだけどな」
「闇に呑まれるって呼ばれてるんスよ。呑むなら、旦那のほうが得意じゃないっスか。バシャッとどうぞってなもんです」
「まず真っ黒にしない努力をしろよ」リットはノーラが薪を持ったのを見て鍋をどけた。先ほどと同じように火柱が上がり、同じような反応が周りから聞こえる。「その力、おふくろさんは制御できただろ」
火柱が収まるとリットは鍋を焚き火に戻した。
「本来は男のドワーフの鍛冶の腕が上がるのと一緒に、女のドワーフは火の制御ができるようになるらしんスけどねェ……。なんせ切磋琢磨の時期はアレから逃げて、あちこちと彷徨ってた頃なもんスからねェ」
ノーラは再びペングイン大陸の方角を指さした。
その間延びした声には以前のような恐怖心はなく、隣の家の夫婦喧嘩の理由を興味半分、無関心半分で話す世間話のような口ぶりだった。
「脳天気に短い腕を伸ばしてるけどよ。今度は逃げるんじゃなくて、アレに向かってくんだぞ」
「それもまた人生ってもんスよ。一人で行くっていうなら別ですけど、今は旦那が作ったランプもありますしねェ。私だって、なにも考えずに能天気ってわけじゃないいんスよ。安心と信頼のパートナーってなもんス」
「金貸し屋がニコニコと貼り付けた笑顔をですり寄って来た時も、そんなこと言ってたな」
「旦那ァ……借金は身を滅ぼしますよォ」
「滅ぼしてねぇから、こうして生きてんだ。だいたい借りてねぇしな。金がない時は酒場でたかるのが一番だ。酔っぱらいに話しかければ、一人、二人と奢ってくれる」
「その酔っぱらいの中に旦那も入ってるから、うちはお金がたまんないんスよォ。お金があれば、こんなのを食べなくて済むってことをわかってほしいもんですよ」
ノーラは沸騰する鍋を見て、ガクリと肩を落とした。リットが作るスープは沸騰したら完成の合図だからだ。
「オマエもしつこいな……。オレはエミリアに言われた通りのものをぶち込んでるだけだ。文句があるならエミリアに言え。保存がきいて、出汁も取れる。東の国で取れる海藻で、最近気に入ってるらしいぞ」
「私はこの匂いを嗅いで、てっきり旦那が横着して海水で煮込んでるのかと思いましたよ。味付けの手間が省けるって」
「んなもんで煮込んだスープを飲んでも、省けるのは残りの人生くらいだ。次の文句が出る前に教えといてやるけど、残りの食材はハスキーが薪と一緒に持ってくる」
「いやー安心しましたよ。スープの具が、こんな名前のわからない緑の草一つだと思うと、不満で夜も眠れず、昼にふて寝するところでしたよ」
「そりゃよかったな。ちょうどハスキーが戻ってきた……。言っとくけど、あっちの黒いのは食材じゃねぇぞ」
リットは薪に使う流木とスープに使う野菜を持ったハスキーを見つけると、その隣を手ぶらで歩くグリザベルに怪訝な視線を向けた。妙に機嫌の良い笑みを口元に浮かべていたからだ。
「楽しそうっすね、グリザベル。友達でもできたんスかねェ」
「友達なんかできてみろ。今頃裸で走り回って、我に返った瞬間に後悔で海に飛び込んで死んでる。ありゃ、話したいことを見付けて、うずうずしてるって顔だ。いいか? 無視したらしつけぇから、話題を逸らせ。語りだしたら長えからな」
「それは無理な話ってなもんですよ。かまって欲しい子供の目で見てくるんスもん」
「なら、死んだふりでもしろ。いくら寂しい女っていっても、まだ死体に話しかけるほどじゃねぇだろ」
グリザベルの存在には気付いていないフリで鍋をかき回しているリットに、「なにを話していたのだ?」とグリザベルが声をかけた。
「他愛もない世間話だ。野良犬の餌をやるといつまでも後をついてくるとか、そんなんだ」
「やはり愚にも付かぬ話をしておったか。その不毛な会話に、我が発見という花を添えようではないか。よいか?」
「鍋の中身が蒸発して消える前に、まずハスキーから食材を受け取ってくれ」
リットは顎をしゃくってハスキーを指すと、ハスキーはグリザベルに向かって頭を下げた。
「申し訳ないのですが、お願いできますか? 薪を下に置くのに腰をかがめると、食材が落ちてしまいそうなので」
「かまわぬ。ハスキーばかりに荷物を持たせていることに気付かなかった我も悪いからな」グリザベルはハスキーの腕から抜き取るように野菜を取る。「なぜ、気付かなかったかと言うとだ。我はある発見を――」
「いいから、まず野菜を渡してくれ。手に持ってるイモが喋りかけてきたってんなら別だけどよ」
「イモは喋らぬ……。しょうがない。ほれ、落とでないぞ」
グリザベルは手早く野菜をリットに渡すと、一息ついてから手近な岩に座り、これでゆっくり話ができると、いつものように脚を組んだ。
しかし、リットはハスキーに声を掛けて野菜を切るのを手伝わせるのと同時に、共通の友人で、ここにはいないパッチワークの話を始めた。
自分の知らない人の話題で盛り上がると、居心地が悪く離れていくだろうと思い、リットはパッチワークの名前を口に出した。
すると思惑通り、グリザベルはつまらなさそうに口をすぼめた。
リットに話しかけるのを諦めたグリザベルは無言で立ち上がると、ノーラの隣に腰を下ろして、わざとらしく大きくて長いため息をついた。
ノーラは話しかける前に、さっさと話題を変えようと、まだ切っていないイモを一つ取って、それをグリザベルに見せた。
「このイモはリゼーネのですかねェ」
「イモはリゼーネの特産品であったな」
「そうっスよ。リゼーネのイモは甘いんスよねェ。旦那は傷んだイモでも平気で食べますけど、私はやっぱり美味しいものは美味しいうちに食べるってのが食事だと思うんスよ」
「うむ、些細なことに気付くのは大事なことだ。そうして知識を増やし、知恵に変えることが発見へと繋がるのだ。例えばこの――」
グリザベルは座ったまま背中を丸めて足元に落ちているものを拾おうとするが、それより先にノーラが「グリザベルの故郷ではなにが有名だったんスか?」と話題を逸らした。
「我の郷里か? 難しいな……。我の故郷は二つあるようなものだ。一つは生を受け、ディスカルとして児戯に勤しんだ地。もう一つは我が魔女サーカスとして生を受けた地だ。先の故郷は魔女薬に使うハーブが有名であった。ドゥルドゥという町でな、二つの地方から流れてくる川に挟まれ、異なる土地から二つの川が運んでくる豊かな土壌で育つハーブは、大陸外の魔女も買いに来るほどだ。感慨深いのは十年前のあの日のことだ。春風が芽吹きという生命に満ちた匂いを――」
すっかり昔話を始めるグリザベルを見て、ノーラは話を上手いこと逸らしたと安心して相槌を打っていた。それどころか、楽しそうに話を続けるグリザベルの顔を見て、より楽しく話せるように質問までしていた。
「故に、我は薬草学ではなく、魔力の流れというものに注目したわけだ。他の魔力を知るということは、発見へと繋がると知ったからな」
ノーラは「それでヨルムウトルのお城にいたんスねェ」と返すが、その時はグリザベルが先程から固執する『発見』という言葉を聞き逃したことに気付いていなかった。
すぐにそのことに気付いたのだが、その時には既にグリザベルはようやく本題に話を戻せると、目も口も、顔全体を使って笑みを浮かべていた。
「ノーラよ。このどこが不自然かわかるか?」
グリザベルが流木を一本手に取り、その先をノーラに向けた。
すると、ノーラは槍で心臓でも貫かれたように「うっ!」という苦しみの声を上げ、胸を抑えて地面に倒れ込んだ。
その時、怪我をしないようにゆっくりと倒れたせいで、グリザベルは心配も驚くこともせず、怪訝な視線を送った。
「……なにをしておる?」
「見ての通り死んでるんスよ」
「なぜ死ぬのか意味がわからぬわ」
「なぜってそりゃあ……そういえばなんでっスかねェ」
ノーラは起き上がると、焚き火のススと砂埃で汚れた服を乱暴に手で払い、その場に座った。
「おい、なに生き返ってんだよ。死んだふりでやり過ごせって言っただろ」
リットはグリザベルと普通に会話するノーラに文句をつけるが、ノーラは小さな肩をすくめた。
「よく考えたら、私は別にグリザベルの話嫌いじゃないんですよ。旦那が死んだフリをしないと意味がないっスよ」
「しょうがねぇな……」とリットはオタマをハスキーに預けると、その場に仰向けに倒れた。
グリザベルが黙ったまま冷たい視線を浴びせていると、リットは居心地悪そうにゆっくり体を起こしてため息をついた。
その一連の動作を見てから、グリザベルはおもむろに口を開いた。
「今の話を聞いていたんだぞ。我が死んだふりで納得すると思うたか?」
「してほしいもんだ。つーかよ……なんでもオレに話に来るなよ。エミリアにも言われてただろ、気付いたことがあれば、言いに来いって」
「無論、エミリアにも話すつもりだ。闇に呑まれるという現象に、大なり小なり関係することだからな。だがこれはエミリアより、お主のほうが関わりが深いと思うてな。わざわざ話に来てやったというわけだ」
グリザベルは流木をリットに投げ渡すが、届かず足元に落ちた。リットはそれを拾い上げると、軽く手元で振ってみたり、曲げてみたりするが、ただの木の枝ということしかわからなかった。
変わったところといえば、打ち上げられてしばらく経つのか、乾燥していて焚べるとよく燃えそうだということくらいだ。
「どうすんだ? これで尻でも引っ叩きゃいいのか? 悪いけどよ、それなら別の奴に頼んでくれ」
「お主は前に似たようなものを探しに行ったではないか。ヨルムウトルのことを覚えておらんのか」
「ヒッティング・ウッドのことか? これがそうだとでも言うのか?」
グリザベルはため息を一つ。心底がっかりしたように吐いた。
「たしかに今のは我の言い方も悪かったが……もう少し察することができぬのか。その流木には魔力が籠もっておるということだ。魔力の源は言わずもがなだ」
「闇に呑まれた現象が、ディアドレの魔力の暴走なんだろ。いまさら魔力がなんだってんだよ」
「よいか、ヒッティング・ウッドという木は特別なのだ。オークにしか魔力を留めておくことができぬ。できるのなら、魔女がとうの昔に利用しておる。しかし、木の利用は杖に限られた。そう、杖というのは魔女三大発明のうちの一つだ。ウィッチーズカーズの影響を、自らではなく木に移す技術だ。木というものは流れるのみで、留めておくことはできぬ。魔力を留める技術は魔宝石だ」
「なら、魔法石の上に種でも落ちて育った木なんだろ」
リットは答えを出し渋るグリザベルに飽き飽きして適当に言ったのだが、グリザベルは感心するように目を少し見開いた。
「魔力を吸って成長する植物は数存在する。その殆どが、影響のない程度の微力の魔力を必要とするものだ。だが、四精霊と縁の深い地には、直接的に魔力と関係する植物も存在しておる。我もウィッチーズ・マーケットで初めて実物を見たのだが……ウンディーネがお茶会を開く、泣き虫ジョンの滝にしか生えない水草がある。この水草は魔力を吸い、結晶を作るという植物だ」
「その植物は魔力の量が多いほどよく育つのか?」
「いいや、多ければいいというものではない。普通の植物も水をやりすぎると枯れてしまうものだ。それと同じことだ。つまり、安定した魔力が必要ということになる。この流木が闇に呑まれたペングイン大陸から流れ着いたものならば、暴走だけではなく、安定している地もあるということだ」
結論を話し終えたグリザベルは、鼻から熱い息を漏らして得意気に口元をほころばせた。
「オレは魔力のことなんか知らねぇから聞くけどよ。魔力が安定してる地があったとして、そこはどうなってんだ?」
グリザベルは「どう?」とこぼしてから首をかしげた。「どう……どうか……。あの魔法陣は魔力の逆走による衝突。制御できなくなり、こぼれた魔力が術式から外れたところで融合してできたもの……つまり……安定とは――」しばらくぶつぶつと自分と会話するようにこぼしていたが、急に顔をあげると「わからぬ……」と声のトーンを落とした。
「なら、ここで得意気に語ってるだけじゃなくて、報告だけでもエミリアにしておいたほうがいいんじゃねぇのか?」
リットに言われ、グリザベルは「うむ……」と元気なく立ち上がった。
「ついでに、もう飯の準備が終わるって連絡しといてくれ」
「うむ……」と肩を落として歩くグリザベルの後ろ姿に、リットはからかうように声を掛けた。
「たらたら歩くなよ。いくら落ち込んでも、オレは相談にはのらねぇぞ」
「お主は本当に意地悪だな……」




