第十三話
出港してから五日目。甲板では朝からデッキブラシを床にこすりつける音がせっせと響いていた。
たまたま上空を通過したカモメが大量のお土産を落としていったせいで、白い染剤が乾かないうちに布を振り回したように、甲板では点々とフンの跡が残っている。
潮風に乾かされたフンは厄介で、しっかり板の間に流れ込んで固まっているせいで、ブラシを何回も往復させなければならないので、腰に来る負担は相当なものだった。
デッキブラシにしても、ただのブラシにしても、腰を曲げることには代わりなく、甲板にいる皆、時折背筋を伸ばしては、ずれた背骨を腰骨にはめるかのように、拳でポンポンっと叩いていた。
エミリアもたまらず腰を反らせると、太陽の光を思いきり顔に浴びた。
掃除と日差しで汗ばんだ顔を、潮風が肌に纏わりつくように抜けていく。
気持ちの良い風とは言えないが、帆が孕み順調に船が進むのならいいだろうと、エミリアは視線を床へと戻した。
その時、ノーラの横側が目に入った。
エミリアの位置からは、甲板を掃除する者の背中が見えているはずだが、ノーラの体は横から見えていた。
「ノーラ、ブラシのかけかたが違うぞ。木目にそってこするんだ。ゴミを掻き出すように、甲板を傷めないような強さで」
エミリアは手本を見せるためにも、自分の言ったとおりにデッキブラシで床をこすった。
「そうしたいんスけど、なかなか頑固なお土産でしてねェ。もうちょっとお話したいぞォ! って言う時のグリザベルくらい粘るんスよ」
「そういう時は水を足してやるんだ。固まった鳥のフンも砕けて流れていく」
「なるほどっス。長話には水を差してやると、心が砕けて涙が流れていくということっスね」
「私は掃除の話をしているのだが……」
「時間がかかるって意味では、長話も掃除も同じってなもんですよ――っと」
ノーラはロープの付いたバケツを海に投げ入れるが、海水の入ったバケツは重く持ち上げられずにいると、見かねたエミリアが手を貸して引き上げた。
ノーラは甲板に乱暴にバケツの海水をぶちまけると、シャッシャと音を立てて楽しげにブラシを走らせた。
「ノーラはいつも楽しそうだな」
エミリアは口元に優しい笑みを浮かべながら言った。
「そりゃもう。人生というのは楽しく生きることですからね。人生が楽しいからこそ、御飯も美味しいってなもんですよ。エミリアは違うんスかァ?」
「私か? そうだな……」とエミリアは難しい顔になって少し考えた。「楽しいとは少し違うが、充実しているとは思っている」
「エミリアは堅いっスねェ……。楽しいだけの毎日も悪くないもんですよ」
「最近リットにも似たようなことを言われたな。だが、性分なんだ。苦難があるからこそ、楽しいとも言えるな」
「そういうもんですかねェ……。旦那なんて、お酒を飲んで、酒場でバカ話をしてれば満足なんですけどね」
「リットと比べられてもな……」とエミリアは急に辺りを見回した。見えるのはリゼーネの兵士と、ディアナの船乗りだけで、リットの後ろ姿は影も形もなかった。「そのリットはどこにいるんだ?」
「あらァ?」とノーラも同じように辺りを見回した。「最初はいたんスけどねェ。ぶつくさ文句を言いながら」
皆が一心に掃除をする光景に似つかわしくない男は、当然とでも言うように姿を消していた。だが、それで作業が滞るわけでもなく、むしろ順調に掃除が進んでいた。
順調というのは邪魔が入らないという意味で、掃除の時間が短縮されたわけではない。むしろ予定よりも長引いていた。
エミリアは甲板にいる人数が減っていることに気付いた。
「一部……リットにそそのかされた者達がいるらしいな」
「あらら、探しに行きます?」
「いや、今抜けては掃除の時間が長引くだけだ。手早く終わらせてから、探しに行くことにする。船の上だ。リットも逃げ切れまい」
「モシャっと早く終わらせば、いい具合にお腹も減りますしねェ」
ノーラは吹けない口笛を吹こうと唇をとがらせると、リズミカルにデッキブラシを甲板にこすりつけた。
「ノーラはそんなに働き者だったか?」
「そりゃもう、普段はただただだらだら、まだまだだらだらと過ごすのに大賛成ですけどね。でも、動いてお腹を減らすというのが、美味しくない船の上の料理を美味しく食べるコツですぜェ」
「怠け者に聞かせてやりたい言葉だな……」
「旦那に言わせれば、労働なんかしなくても、人の不幸を聞いてればお酒が美味しくなるらしいですよォ。時には自分の不幸で、誰かに美味しくお酒を飲まれる。それが酒場ってもんらしいです」
「働き者には聞かせたくない言葉だな……」
ノーラとエミリアが甲板掃除をしている頃。リットはそのずっと後ろの船尾楼甲板にいた。
当然掃除をしているわけではなく、船室から持ち出した椅子に腰掛けていた。
「まだ悩んでるのかよ……悩むだけムダだぞ」
リットはコマの少なくなったチェス盤を見ながら言った。対面にはグリザベルが座っており、うんうんと頭を悩ませている。
「我は思案に思案を重ね、道を考えておるのだ。少し黙っておれ」
グリザベルは鋭く目を細めて盤上を睨むと、唇をきつく結んだ。
「言っとくけどな……負けてるのはオレだぞ。いつになったら、荒野を一人寂しく彷徨う王様の首を取ってくれんだ?」
「我も言うておきたいのだが、やすやすと駒を取られすぎだろう……。どうやったら、そうやすやすと駒を取られるのだ?」
「取ったのはそっちだろ。なんだったら返してくれ、ゴーストとして復活させて、そっちに攻めるからよ」
「勝手にするがよい。駒数が増えたとて、リットが我にやすやすと勝てるとは思えないが」
「さっきからやすやすうるせぇな……。なんだそれは、鳴き声か?」
「手も足も出ずに負けておるからか、とうとう口まで出して気おったな。これが負け犬の遠吠えという奴か」
グリザベルはフハハと高笑いを空へと響かせた。
「じゃあ、遠慮なくチェックメイトだ」
リットはなにも手に持たないまま、グリザベルのキングの横のマス目を人差し指で叩いた。
グリザベルは「どういうことだ? だいたい我はまだ駒を動かしてはおらぬぞ」と、リットの不可思議な行為に眉を寄せた。
「勝手にしろって言ったろ? だからゴーストでチェックメイトだ」
「それはただの煽り文句であろう。本気に取る奴がおるか。だいたい、どういう動きをしてチェックメイトなのだ」
「そりゃ、ゴーストなんて駒はねぇからな。だから動きかたも今決めた。好きな時にキングの隣に移動して呪い殺す」
「お主にはプライドというものがないのか……」
「プライドを捨てて勝てるなら、それに越したことねぇよ」
「まぁ……よい」とグリザベルは口元に不敵な笑みを浮かべる。「たかがゲームだ。我の負けでよいぞ。たまには譲ろう。お主の勝ちだ」
「おっ、負け犬の遠吠えか?」
「だれが負け犬か! どう考えてもお主の負けであろう!」
グリザベルが机代わりに使っていた積荷の箱を拳で叩くと、チェスの駒がこぼれ落ちて甲板を転がっていった。
「今、自分で言ったじゃねぇか。我の負け、お主の勝ちって。なんなら、さっきの言葉を取り消す権利でもやろうか?」
リットが意地悪く笑うと、グリザベル頬を膨らませてそっぽを向いた。
「……言葉は取り消さぬ」
「ほれ、見ろ。プライドが高くても良いことねぇじゃねぇか。まぁ、誰かが鼻くそと一緒に丸めて捨てた勝ちを拾っても、勝ちは勝ちってことだな」
「鼻くそなんぞ、飛ばしておらぬ……。お主は、相手を言いくるめる以外の方法で勝つことはできんのか」
「イカサマでも勝てるぞ。だいたいだな……こんな言葉でやりこめられる奴はそうそういねぇぞ。嫁さんに逃げられて泥酔してるおっさんだって納得しねぇ」
「それだと、我があほうみたいではないか」
「そうは言ってねぇよ。マヌケだって言ってるだけだ」
グリザベルはむくれ顔のまますっくと椅子から立ち上がると、深く息を吐き、手すりにつかまり海を眺めた。
「それにしても……海とは大きなものよ」
景色は空の青と雲の白。海の青と波の白。同じ名前の違う色で色付けられていて、単調の色彩はただ形だけを変えるばかりだ。
「小さけりゃただの水たまりだからな。それなら小便したあとにもできる」
「空とは広きものよ……。蒼き空に雲が色を与え、風が形を与える。そして、太陽の光は我らの瞳に風景を灯す。焦がれた思いが消えぬように、目に焼き付いた風景というのも消えぬものだ。故に、我はこの広き空の風景を瞳に焼き付ける」
「詩的なこって。で、現実逃避はすんだか?」
「……まだだ」
「なら、現実逃避をしながらでもいいから、駒を集めるのを手伝えよ。船が揺れるせいであっちへころころ、こっちへころころ。拾うのも一苦労だ。奥の甲板に転がっていったら、鳥のフンで黒い駒も白い駒になっちまうぞ」
グリザベルは自分の足元にあるボーンの駒を拾うと、椅子へと戻った。
「そう言えば、なぜリットはここでチェスなんぞしているのだ? たしかお主はエミリアに掃除をしろと言われておっただろう」
「掃除をしたくねぇからに決まってんだろ。なにが悲しくて、鳥のフンをデッキブラシでこすんなけりゃいけねぇんだ。ただでさえ、このバカでかい船の掃除が大変だってのに。毎日毎日やってられっか」
「また、エミリアに怒られるぞ」
「そうだな。でも、今回の小言は短くて済む。甘い言葉と、貯蔵室からくすねた酒でリゼーネの兵士を誘惑したからな。今頃あっちこっちで酔って寝てるだろうよ。エミリアの性格からすると、まず身内の兵士を探して小言を言う。オレまでたどり着く頃には、疲れて小言を言う元気もねぇだろ」
「お主は労るという言葉を知らんのか……エミリアは連日の会議で疲れておるのだぞ」
言いながらも、グリザベルは拾い終えたチェスの駒を、新たに盤上に並べ始めた。
「知ってる。だから、オレにしてはわかりやすく気を使ってやってんだよ。じっと休んでろなんて言っても聞かねぇし、仮に休んだとしても、そのあいだにあれこれ考えて疲れるに決まってる。だから、小鳥のさえずりのようにペラペラ出てくる小言で発散させてやってんだ。そうすりゃ、余計なことを考えてる暇なんてねぇからな」
「我には、ただの掃除をしたくない理由付けに思えるが」
「男の優しさには下心があるってやつだ。優しさの見返りが、掃除の回避ってだけだ」
「ややこしい男だ……。そこそこ長い付き合いになるが、お主の言葉は、本音なのか建前なのかわからなくなる時がある」
「グリザベルの魔法の説明ほどややこしくはねぇよ」
「我は簡単に説明しておるだろう。例えるなら……そうだな……魔法というものは文字に似ている。例えば『火』を表すのならば、その一文字で事足りる。それがより強い火を表現するとなると複雑になっていく。燃えるさまをあらわすならば『炎』に変わり、それがさらに燃え盛ることを『火炎』と呼ぶ。ただの『業火』よりも『地獄の業火』。文字が重なり続けることによって、魔法はより深みを増していく。その複雑に絡み合っている長い文章を簡略させたものが術式であり、それが魔法陣に使われておるのだ。したがって魔法陣の解読というのは、書いた者との対話なのだ」
「ほれ、ややこしいだろ。なんだ? ディアドレの魔法陣を解読した自分はすごいってか?」
リットも自分の駒を並べるが、持ち駒が一つ足りないことに気付いた。
「なんだ、わかっておるではないか。そう我は凄いのだ。言うておくが、他人の魔法陣とは独自言語のようなものなのだぞ。少数種族の古語を解読するに等しいことだ。お主にわかるか?」
「わかるぞ。会話の基礎が魔法陣の解読と一緒だから、初対面の相手に煙たがられんだ。簡略化された魔法陣を難解な文字に戻したみてぇに、冗長だからな」
「誰が我のことを解読しろと言った……。会話の途切れが怖いのだからしょうがなかろう……。なら、聞くが。挨拶をされて、挨拶を返す。そのあとに流れる無言の間はどうすればいいのだ」
「その場で服でも脱ぎゃ、なんかか言われるだろ。男の前で脱げば、指笛のサービス付きだぞ。そのあと兵士にたっぷり事情聴取をされるから、無言の時間なんて訪れる暇もねぇ」
「話しかけて来る者もいなくなるわ!」
「なら、いっそ会話を無視してみりゃどうだ。自分のことばっかり喋るから、向こうが入ってこれねぇんだよ」
「そういうものか?」
「さぁな、知りたけりゃ試してみろ。そんなことより。オレの駒が足りねぇぞ。キングがなけりゃ最初から負けじゃねぇか」
リットが机代わりにしている箱の影を覗いた時、「下まで落ちてきていたぞ」というエミリアの声とともに、キングの駒が盤上に置かれた。
「……オレまでたどり着くのが早くねぇか?」
「最初に来たからな」
「まず身内を正すんじゃねぇのか?」
「リットは調査隊の一員で、私は調査隊の隊長だ。充分すぎるほど身内だと思うが?」
思っていた展開とは違い、リットは迷いを見せたが、すぐに手をパンっと打って嘘で固めた身の潔白の証明を始めた。
「グリザベルも身内だろ」
「そうだな。だが、グリザベルには掃除をしろとは言っていないぞ。慣れない船で、無理をして倒れられては困るからな」
「それだ。その船に慣れてねぇグリザベルから誘われたんだ。船酔いで気分が悪いから、気を紛らわせるためにチェスに付き合ってくれって」
リットは「な?」と同意を求めたが、グリザベルはリットの顔を見るでもなく、ただただ無視を決め込んでいた。
「おい、聞いてるか?」とリットがグリザベルの顔を覗き込もうとすると、グリザベルは黙ったまま顔を背けた。
その動作は、エミリアから見ると否定に首を振っているように見えた。
「グリザベルは違うと言っているようだが」
リットはつま先でグリザベルのすねを軽く蹴り、口添えしろと合図を送るが、グリザベルは無視したままだ。
「こんな時に、さっきの助言を実行しなくていいんだよ。どうせ実行するなら、服を脱ぐほうを実行しろよ」
エミリアが聞いても構わないと、声を大きくしたリットだが、グリザベルは一点を見つめたまま無視を決め込んでいる。
「なにをわけのわからないこと言っている。ちょうどいい。今日はまだ酒を飲んでいないようだし、まだ日も高い。リットとはペングイン大陸に上陸する前に、今一度じっくり話しておきたかったところだ」
エミリアはリットを立ち上がらせると、他の者の邪魔にならない場所へ引っ張っていこうとする。
「まぁ、待て。他の兵士もサボってただろ。なのにオレだけ特別扱いを受けたら悪い。全員揃うまで待ってるぞ」
「安心しろ。調査隊としては私が一番上の立場だが、この船には私より上の立場の人間がいる。他の者への説教は私がするまでもない。いいか? 調査隊はこちらから頼んだことだが、一度了承したからにはだな――」
エミリアは時間が惜しいと、リットを連れながら説教を始めた。
二人の姿が消えると、グリザベルは「なんだこんなことか。造作無い」とつぶやき、満足げに笑みを浮かべた。




