第十六話
ドリーの帰還は、リットが想像していたよりもかなり早いものだった。
話を聞くと、一番時間がかかったのは一度にいくつも制作ができないグリザベルの魔宝石で、行きの道は難所である砂漠を行商人のラクダのおかげですんなりと超えられ、帰りは軍の馬車に移送され寄り道することなく最短の道を通ってきたのだという。
「そりゃまた……エミリアも遠回しな嫌味を覚えたもんだ」
リットは背中に重しが乗せられたかのように、疲れたため息を吐いた。
「嫌味じゃなくて親切ですよ。お土産も持たせてくれましたし」
ドリーは背負っていた鞄から、丁寧に一つずつ荷物を出し、その中にある酒を一瓶持ち上げてリットに見せた。
開けられていない新品の瓶の中では、まだ浅い年月の薄い琥珀色の液体が日差しに透けて光っている。
リットがよく飲む安酒だった。
リットは思わず栓を抜いて匂いを嗅いだ。久しぶりの酒は匂いだけで酔いそうなほど香るが、リットはそのまま飲まずに栓を戻した。
「それはな、暗に急かされてんだよ。立場を利用したくない奴が、国の馬車を使って送ってんだ」
「僕たちに馬車を貸したから、そうせざるを得なかったんじゃないですかね?」
ドリーは伸びてボサボサになった馬のたてがみを見ていった。
ドリーが居たときは、寒さも暑さも強くのない朝方か夕方のどちらかで馬を走らせていたのだが、リットがブラッシングも馬乗りもするわけだなく、馬は機嫌が悪そうに鼻息を鳴らしていた。
つい今しがたまでも同じだったが、ドリーの姿を見つけるとヒーンと甲高く短いいななきを上げると、リットの体を乱暴で首で押しやってドリーにすり寄った。
「鳴き声なんて久々に聞いたぞ。いつもは鼻水と一緒に鼻息を出すか、歯のないじいさんみたいに唇をぶるぶるさせてただけだからな」
「世話をしないからじゃないですか?」
「周りをよく見ろ。草ははげてないし、糞だって落ちてねぇだろ。これが世話じゃなくてなんだってんだ」
「まずはじっくり撫でてあげるんですよ。首のあたりから優しく、そして徐々に体を撫でてあげるんです。そうすると相手の気持ちいいところがわかってきますから。わかりづらいときは、目を見てあげるのもいいですよ。呼吸の荒さでもわかると思います。がっついてベタベタ触ると嫌われちゃいますよ」
ドリーは自分で言ったとおり撫でると、馬はもっとしてほしそうに顔を近付けた。
「誰がベッドの上での女の扱い方を聞いたんだよ」
「そんなこと言ってませんよ……」
「こっちこそ、そんなことだ。そんなことより他にも渡すものがあるだろ」
リットは催促をするために手を伸ばした。
「そうでした」とドリーが馬から手を離すが、馬はすり寄ったままだった。ドリーはよろけながら、箱と筒をリットに渡した。「こっちが魔宝石。あと、もう一つ絶対に開けるなと言われた筒ですね」
「それも大事だな。もう一つあるだろう、頼んでた大事なものが」
リットは魔宝石が入った箱を地面に置くと、筒は大事に脇に抱えた。
ドリーはなんのことかとしばし頭を悩ませた後、納得のいった顔で手を叩いた。
「先に渡しましたよ。お酒のことですよね?」
「まさかこれ一瓶か? あんなに金を持たせたのにか」
「言っておきますけど、そんなには入ってなかったですよ。エミリアさんに馬車を出してもらえなければ、帰ってこられないところでした」
「賭けで稼いだってのに、もうないのか……」
「……リットさんは賭場で負けてましたよ。勝ったのは僕です。まぁ、勝ったというより、リットさんの服を取り返しただけですけど」
「詳しいことはどうでもいいんだよ。グリザベルに借りるとか、パッチをゆするとかいろいろあっただろってことだ」
「さっきも言ったように、エミリアさんからのお土産ですから、買わずにすんだんです。調べ物に没頭してれば、お酒は一瓶で足りるはずだと」
ドリーは鞄を逆さまにして揺らが、もう中から埃しか落ちてこなかった。
「まさかとは思うが、エミリアにバカ正直に話したのか?」
「暗礁に乗り上げるとか、指針を確認とか、わけがわからないと言われたので。報告はわかりやすく正確にと言われましたから。報告には要点と順序が大事だそうです」
「いいか? 要点ってのは話のすり替え先で、順序ってのはごちゃまぜにして煙に巻くために使うもんだぞ」
帰ったらまたなにか言われそうだと、諦めのため息をついたリットに鼻で笑う声が聞こえてきた。
少し顔をあげて前を見ると、脇に抱えた筒の先端にチルカが立っていた。
「どうせエミリアには気付かれてるわよ。この体たらくぶりを。気付かれてなくても私が言うもの」
「いきなり来て言うことはそれか?」
「まだあるわよ。面白そうなものは私のもの。そうじゃなくても、確かめるまでは私のものよ」
チルカはリットの脇から筒を引っこ抜くと、蓋を開けようと手を伸ばした。
「それを開けたら死ぬぞ。少なくともオマエは。グリザベルからの届けもんだからな」
チルカは手を止めて悩ましげにため息をつくと、蓋の上に肘をついて手に顔を乗せ、余裕のある笑みを浮かべた。
「脅しなら、もっと怖い言葉を使いなさいよ」
「一応一番怖い言葉を使ったつもりなんだが……。死ぬ可能性があるのは、オレとドリーじゃなくて、オマエだけってことなんだけどよ。なんならわかりやすく言おうか?」
チルカは考えを巡らせたが、答えを見つけるのは自分で思うより早かった。
思わず投げつける体勢に入っていたのを慌ててやめ、筒をどこに置いていいのか空中で右往左往した後、突然リットに抱きつくように飛んできて、筒を押し付けると慌てて距離を取った。
「なんで、そんな危ないものを持ってるのよ! わかった! 私が可愛いからって、殺して標本にするつもりでしょう!」
「察しが良い割には、まだ混乱してるな。オマエは可愛くないし、標本にする価値もないぞ」
「そんなことは、どーだっていいのよ! アンタはランプ屋なんでしょ! 光るもの以外持ち歩くんじゃないわよ!」
チルカはリットに蹴りを入れたい気分だったが、リットが筒を持っているのでどうすることもできず、空気を叩くように両手を振り下ろした。
中身がなにかがわかっていないドリーは、用心を重ねるチルカとは違い、近付いてまじまじと筒を眺めた。
隙間がないように正確に作られた筒という以外に、変わった箇所は見つけられない。
「僕に渡すときに、グリザベルさんも気を付けるようにとかなり念を押して渡してきたんですけど、なんなんですか? それは」
「オレがこんな砂漠まで来た理由がこれだ」
「ここに来た目的と言えば……闇の中でも光るランプを作るための材料集めですよね? なにか他の材料が入ってるんですか? それか道具とか」
「道具といえば道具だ。これを使えば――闇に呑まれた中でも光るかどうかがわかる」
「へー!」とドリーは声を高くした。「そんな凄いものがあるんですね」
「そこの頭の足りてないゴブリン……お気楽な声を上げてるけど……。その筒を開けたら、ここは闇に呑まれるってことよ」
チルカの説明にドリーはまた「へー」と声を高くしたが、その声はすぐに尻すぼみしていった。そして、しばらく沈黙が続いてから「え!?」と短く声を上げた。
ドリーが文字をなにかの言葉にする前に、リットは「オレだってこんな危険なものを手元に置いときたくねぇよ……。でも、試してみなけりゃ、闇に呑まれた中で光るかどうかわかんねぇだろ」と、また脇に抱こうとしたとき、ドリーの声に驚いた馬が、その筒をしゃくりあげて上に飛ばしてしまった。
真っ先に反応したのはチルカだ。リットが手を伸ばすより早く飛び上がり、筒を抱き込んで掴んだ。
それを見て、ほっと胸をなでおろしたリットの頭にチルカの両かかとが落ちてきた。
「ちゃんと持ってなさいよバカぁ! 万が一があっても、ここは砂漠だから逃げられないのよ! 暗闇で寝かして、高温で焼いて、私をパンにでもする気なの!?」
リットは素直に「悪かった……」と謝ると、ドリーに馬を奥に連れて行くように言った。
そして、深呼吸してから「グリザベルがこれをドリーに持たせたってことは、闇に呑れる原因の魔法陣だけじゃなく、原因を解決するための魔法陣も一緒に入ってるってことだ。だから、万が一のことがあっても安心ということだ」と、自分にも言い聞かせるように言った。
この魔方陣が入った筒が送られて来たということは、グリザベルがディアドレの作った魔法陣の解読に成功したことを意味している。あと必要なのは、その魔法陣がある場所まで行くための手段だけになった。
グリザベルをその場所まで安全に連れて行くには、リットが作る光が最も大事だということだ。
「どう安心したらいいのよ。それが絶対に解読できてるって証拠はあるの? アンタは魔法陣のことなんてわからないでしょ」
「だから、自信ができるものを作るまで開けるつもりはねぇよ。開けようとしてたのはそっちだろ」
「最初に言っておいてくれれば、触りもしなかったわよ! ……ちょっと待ちなさいよ。グリザベルがそれ作ったのよね……。それもリゼーネで……。もし、失敗したらテスカガンドと一緒で、リゼーネも闇に呑まれたままの可能性があったってことよね」
「そうだな」
「そうだな。じゃないわよ! この蛹にもなれない青虫! あの近郊には迷いの森もあるのよ! 私の生まれ故郷! つまり妖精がいっぱい! 太陽の光が一切入らない場所で、妖精が生きていけると思ってるの!?」
「だから、なにも言わなかったんだよ。言っとくけどな、一応優しさからだぞ。無駄に不安にさせないために。人生で最初で最後だ。オマエに気を使うのは」
「気を使うなら、その研究をやめるよう言うくらいしなさいよ」
チルカは羽明かりを強くして、怒りとも驚きともつかない激情をあらわにする。
「グリザベルがその研究をしねぇんだったら、オレがここに来る意味がねぇよ。それにな、計画を立てたのはエミリアだぞ。だから文句があるならそっちに言え」
「エミリアがそんなこと決めるわけないでしょ。私と同じ体質なのに」
「オマエになくて、エミリアだけが持ってるものがあるだろ。責任感と正義感だ。なんで城じゃなくて、自分の屋敷で研究させてると思ってんだよ。なにかあった時に、自分が一番被害を被る場所だからだ。オレには理解できない考え方だけどな」
チルカはリットに筒を渡すと、煙に燻された蚊のようにフラフラと地面に落ちた。そして倒れたまま顔だけ上げて、馬にブラッシングをしているドリーを見た。
「ドリーが何事もなくリゼーネから帰ってきたのを見ると大丈夫だと思うけど、ここにいる間はアンタに命を預けなくちゃいけないわけね……。まだ隠してることないでしょうね……」
チルカはもう睨みつける気力もなく、力のない瞳をリットに向けた。
「あるぞ」
「なによ」
「実はオマエのことは結構気に入ってる」
「そりゃそうでしょ。こんな可愛い妖精を嫌うほうがどうかしてるわよ」
チルカはため息で草の根本を揺らすと、すべてがどうでもいいといった感じで、草の上をゴロゴロし始めた。
「そういう意味じゃねぇよ。皆子供の頃は欲しがるもんだろ。壊れないおもちゃが」
「言っておくけど、もう既に壊れかけよ……。少なくとも、アンタがオイルを完成させるまではね。だから、迅速に、確実に、焦らず焦って完成させなさいよ」
「そりゃ無理だ」
リットは筒と宝石箱を馬にいじられないように、馬車の幌の中に入れに行った。
その背中にチルカが声を大きくした。
「アンタねぇ……この期に及んで喧嘩売る気? 私を見なさいよ。今のたった短い時間の心労で、立てないほど憔悴してるのよ」
リットは幌の中に置いてあったコップを取ると、酒瓶と一緒にドリーに見せた。飲まないと断られると、湧き水から水を汲んでチルカの元へと戻った。
「キルオが外に出てんだよ。アイツがいねぇと、ヨルアカリグサの場所まで行けねぇんだ。だからひとまず飲む」
リットは水の入ったコップにウイスキーを入れて薄めると、一気に半分ほど飲んだ。
喉を落ちる冷たい液体は、熱い息となって喉から出ていく、剥いだばかりの木の皮のような匂いが、鼻の奥で懐かしさを香らせた。
もう一口と口をつけるリットに、チルカは今日何度目かわからないため息をぶつけた。
「アンタも気楽ねぇ……。余計なお世話を焼くけど、お気楽同士だって、言葉にしないと伝わらないわよ」
「なにを言ってんだ。お気楽どころか、苦みばしった人生の味だぞ。酒ってのはな」
「私を気に入ってるとかいうさっきのジョークとは別よ。ノーラと家族ごっこを続けたいなら、たまには正直に言ったほうがいいわよ。じゃないと、アンタの元恋人みたいに離れて誰かのとこに行っちゃうわよ」
「誰からなにを聞いたんだよ」
「ローレンがペラペラ喋ってたわよ。アンタはしばらくドラセナを置いてきたことを引きずってたって。言っておくけど、一応優しさからよ。今まで気を使って黙ってたのは」
「他にも余計なこと聞いてんじゃねぇだろうな……。なんか隠してたら、ケツの穴を開いてでも聞き出すぞ」
「あるわよ」
「なんだよ」
「これでもアンタのこと少しは信頼してるのよ」
「そりゃそうだろ。これから妖精の噂の元になるようなことをしようってんだからな」
それきり二人に会話はなく、ドリーが馬の毛並みを揃える音だけが静かに響いた。




