第十四話
湧き水の音、心地良く暖かい日差し。草むらのベッド。
その日は、いつもと同じ場所で目覚めるはずだった。
しかし、リットが目覚めたのは硬い砂の坂道の上だった。ズボンはお尻に食い込み、裾のちぎれた甘い匂いのするシャツはめくれ上がり、まさに今下へ向かってずり落ちているところだ。
リットがその異変に気付くのには時間が掛かった。目覚めた瞬間に、奥歯を無理やり抜かれたかのような激しい痛みが頬に走ったからだ。
動かすのが重く感じる手を頬まで持っていて確認すると、血も出ていないし頬の奥に歯もちゃんとある。
そして、尿意を催し立ち上がったところで、ここが坂道だということに気が付いた。しかし気が付いた時には、ふらつく足で体を支えることはできず、あっという間に背中から転げ落ちてしまった。
しこたま頭と体をぶつけ、坂道の途中で止まったところで、自分が二日酔いだということを理解した。
キルオから、肥料にするからトイレはここでするように。と言われた場所に行くのが面倒になったリットは、痛む体をどうにか持ち上げて手近な横穴に入り、壁に向かって水音とほっとしたため息をついたところで「あーっ!」というチルカの声が横から聞こえてきた。
リットが声のした方に向くと、チルカは慌てて飛び退いた。
「こっちに腐りかけのキノコ向けないでよ! かけたら五回くらい殺すわよ」
「声をかけたのはオマエじゃねぇか。用がねぇなら邪魔すんな」
「アンタのおしっこで植物を汚すんじゃないわよ! いいからはやく止めなさいよ! また殴るわよ!」
「無理だ。朝の小便は人生の不満と一緒だ。一度出したら止まんねぇもんなんだよ」
リットの右腕が小刻みに揺れ、しずくを切っているのがわかると、チルカは肩を落とした。
「あーもう……最悪。もう二度とここの木の実を食べられないじゃない……」
「植物にはかけてねぇよ。安心して食え」
リットはズボンを直しながら振り返った。
「食べられるわけないでしょ。ここから下の植物は全滅よ……。季節通り咲いてるまともな植物が生えてる場所だったっていうのに……」
「こっちは二日酔いなんだから、朝からキャンキャン吠えるなよ……。頭に響くだろ」
リットは横穴から出た。
見上げると、寝る場所に使ってる横穴が見える。かなり転げ落ちてきたはずだが、砂漠との入口付近で寝ていたらしい。
過ぎたことはどうでもいいと、横穴に戻ったリットは草むらに倒れ込んだ。
「アンタって学習能力がないわけ? 野生の動物だったらとっくに絶滅してるわよ」
チルカは哀れみと蔑みの二つを混ぜた視線をリットの背中へ送った。
「絶滅しねぇから人間なんだよ……」
リットが言葉と一緒に吐き出した気だるい息は、気分とは反対に細い草を楽しげに揺らした。
「頭の悪いカエルだって、食べられないとわかったら吐き出すわよ」
「オレだって吐き出しただろ……。不味すぎてオマエに吹きかけたのは覚えてるぞ……。一口飲んだだけで、翌朝にこれとは最悪の酒だ……」
リットは昨夜を思い出しながら言った。
蒸留水をつくるのがめんどくさかったので、水場の水で割って飲もうとした。一度は喉を鳴らして胃に入れたものの、勢い付くことなく二口目はチルカに向かって吐き出したはずだった。
「お酒じゃなくて、消毒用アルコールでしょ。だいたいなにが一口よ。一瓶空けてたじゃない」
「いくらオレでもな……あんな不味いもの一瓶も空けられねぇよ……」
「学習能力の次は、とうとう記憶力もなくなったわけ。一晩でどんだけ退化する気よ、アンタは。突然笑い出すし、脈絡のないことを言い出すし、目の焦点は合ってない。見事な酔っぱらいだったわよ」
チルカはリットの目の前に降り立つと、ふらふらと千鳥足で歩いてみたり、白目をむいてだらしなく口を開けたり、バカにしてかなり大げさに昨夜のリットのマネをした。
「たしかに……そりゃ酔っぱらいの行動だな。そこまで飲んだんなら、今の状態も頷ける……。でも――」
続けようとしたリットの鼻の頭に、チルカは植物の種を投げつけた。
「私が夕食用にもいできたニコの実の種よ。勝手に絞って消毒用アルコールと割って。「これで甘くて飲みやすくなった。甘い酒は苦手だけど、ないよりましか」なんて言って、ガバガバとアホみたいに飲んでたわよ。こっちが文句を言っても、一つも聞きやしないで笑ってるんだから」
チルカに言われてから、リットは奥歯の歯茎にそんな甘みが残っているような感じがしていた。しかし、昨夜の記憶では不味いと言ってチルカに酒を吹きかけたところで途絶えている。
種にはまだ甘い香りがこびりついている。リットにはこの匂いに嗅ぎ覚えがあった。
服についてる甘い匂いと同じ匂いだった。
「そうだ……酒を吹きかけたら、怒ってニコの実を投げつけてきたんだったな……」
「そうよ。顔面にぶつけてやったわよ。そしたら、甘くてちょうどいいな。もっと寄越せ。って私から全部奪っていったのよ」
「てことは、このちぎれた服の裾もオマエか?」
リットは起き上がると座り直して、服の裾を引っ張った。強い力で引きちぎったようにほつれている。
「私の力でどうやって引きちぎるのよ。私がやったのはこれよ」チルカは自分の頬を人差し指でつついた。「赤くなってるのは、私に消毒用アルコールを吹きかけた怒りの鉄拳よ」
「殴られたのか……痛むはずだ……。服の甘い匂いも、頬を殴ったのもチルカ。身に覚えがない、この服は誰がやったってんだよ」
リットはまた服の裾を引っ張ってチルカに見せた。
「知らないわよ。飲むだけ飲んでキルオと大騒ぎしたら、ニコの実がなくなったから。蒸留水を作るって言って、キルオと肩を組んで下に降りていったじゃない。酔っぱらいになにを言っても通じないんだから、こっちは不貞寝したわよ。だからそのあとのことは知らないわよ」
「なんも思い出せねぇ……。久しぶりの酒のせいか、酔いがすぐ回ったらしいな……。なんかやらかしたか? 知らねぇ間にアソコの毛が全部なくなってたり、手足が縛られてたり、川に片足突っ込んで寝たりとか」
「アンタ……そんな失敗してんのに、よくお酒やめないわね……。アホの国があったら、王様になれるわよ。さっきも言ったけど、私は寝たんだから知らないわ。心配ならキルオにでも聞きなさいよ。男二人。肩を抱き合いながら闇に消えてくなんて、あんまり想像したくないわね……」
チルカは軽蔑の視線をぶつけると、ため息を一つ残して出ていった。
リットはしばらくチルカの意味ありげな言葉のせいで考え込んでいたが、ない記憶を思い出そうにも思い出せないので、酔い覚ましになにか食べようと立ち上がった。
「おぉ! リットか。昨夜はすごかったな。あんなの久しぶりだったぞ!」
テンションの高いキルオが、ハサミを大きく振ってリットの名前を呼んだ。そのハサミの先に、リットのシャツの切れ端が引っかかっていた。
リットは自分のシャツと切れ端を見比べると、背中から冷や汗が吹き出るのを感じた。まるで真冬の海岸に裸でいるように、ゾクゾクとした寒気が昇ってくる。
笑顔で近付いてくるキルオを、リットは手で制した。
「待て……それ以上来るな。……今最悪なパターンが思い浮かんだからよ」
「どうした。昨日は仲良くやっただろう。まぁ、お互い酒を飲んで普通じゃなかったが。悪いことじゃないだろう」
キルオは意味がわからないと両手を上げて肩をすくめたが、リットにはそれが抱きついてこいと言わんばかりの仕草に見えていた。
「なんだよ、仲良くってのは。まさか、キスしてアンタを口説いたか?」
キルオは「なにを言ってる……」と眉をひそめたが、すぐに口の端を吊り上げた。「もっと凄いことだぞ!」
キルオはリットを抱きしめると、頬ずりするように胸に顔を埋めた。
「もっと凄いことか……。聞かなけりゃよかった……。わかった……今からどっちが死ぬか話し合おう。文字通り墓場まで秘密を持ってくんだ」
「なにを言ってる。あんなにマニア様と親しく喋るとはな。さすがヴィクター王の息子なだけはある」
「親しく喋るってのはベッドを共にした隠語で、さすがヴィクターの息子ってのは皮肉か?」
「本当になにを言ってるんだ……。昨日三人で仲良く酒を飲んで語っただろう」
「なんだよ……ビックリさせんなよ。男と寝たのと、頭がイっちゃってる女に手を出すのとどっちがましかを、頭で天秤にかけたじゃねぇか。二日酔いの頭をそんなことに使わせんな」
「なんでまたそんなことを……なにも覚えてないのか? だから言っただろう。こんなのを飲むと悪い酔い方をすると」
「覚えてたら、アンタと体を合わせたかもなんて奇妙な心配はしねぇよ」
リットはハサミに引っかかっているシャツの切れ端を取ると、それでキルオの頬を叩いた。
「あぁ、これか。足がフラフラのまま坂道を歩くから、リットがこけそうになったんだ。手を差し出したんだが、自分の手がハサミなのを思い出してな。危うく胴体を真っ二つにするところだった。すんでのところで、腕を引っ込めたんだ。結果服をちぎってしまったがな」
「……そりゃありがてぇ。それで、いつまで抱いてんだ?」
「おっと、そうだった。昨夜の酒が残ってるから、万が一にでも針が刺さったら危険だ。今のオレは毒を制御できていないからな」
「制御できてても抱きついてくんなよ。それで……なんだ、マニアと仲良く話したってか? 突然笑い出すし、脈絡のないことを言い出すし、目の焦点は合ってない女とどうやって――これどっかで聞いた言葉だな……」
「正直に言うと、オレも変なものを飲んだせいで記憶が曖昧なんだ。まぁ、飲まなくても曖昧なんだが……昨夜は浮遊大陸の植物の話で盛り上がったはずだ。アリアも二日酔いで寝込んでる。ここ数年なかったことだ」
「んなことどうでもいい。いいか、記憶を整理するぞ。チルカにアルコールを吹きかけて、頬を殴られて、アンタらが持ち帰ったニコの実で消毒用アルコールを割って飲む。その頃には既に出来上がってた。で、なくなったニコの実の代わりに、蒸留水を作りにアリアの研究室まで降りていった。ここまではあってるか?」
リットはチルカから聞いた情報と、少し思い出した記憶を合わせた。
「あってるぞ。部屋に入った時はまだアリアだった。そうだ……アリアが心配して止めていた」
リットは行商人が来る前に、作業途中の蒸留器をそのままに部屋から出ていったので、フラスコの中には水蒸気蒸留をしたヨルアカリグサの液体が溜まっていた。
地下水が蒸留されるまでの間、リットはそれで消毒用アルコールを割って飲んでいたのだが、この時からアリアの様子も変わっていった。
心配の声は徐々に尋問に変わり、ヨルアカリグサの蒸留水を飲んだリットの体の変化を問い質しはじめた。同時に研究心の強いマニアが顔を出したということだ。
話しながら、キルオは自分に言い聞かせるようにうなずいた。
「あれは危険だ。ヨルアカリグサの枯れ葉から取れる液体は、忘却薬になるのかもしれない。オレも少しだけ飲んだせいか、あとはぶちネコのようにまだらな記憶しかない」
「いつものことだろ。オレも思い出したぞ。なにか大事な話をしてたはずだ」
「それは思い出してないじゃないか」
「なにか話したことは思い出してんだよ。オレがなにか言ったら、アリアかマニアかわからねぇけど、なんか言ってたんだよ。オレはなにを話したか覚えてるか?」
「下品なジョークだったような……ここに来るまでの経緯だったような……ただの思い出話のような……」キルオはしばらく考え込むと、指を鳴らすようにハサミを鳴らした。「そうだ! ノーラという娘の話はしていたぞ。二度も体験する必要はないと言っていたな」
「それじゃねぇよ。……それは得意の健忘症で忘れてくれ。たぶんヨルアカリグサのことだと思うんだけどよ」
リットはいつもの二日酔いよりは痛まない頭で深く思い出そうとするが、記憶に穴をあけられたかのように、部分部分ですっぽりと記憶が抜け落ちてしまっている。とてもじゃないが、拾えるような深さではなかった。
「アリアかマニア様に聞けばわかると思うが……。ヨルアカリグサの液体は飲んでないからな。だが、体が弱い。二日酔いから話せるようになるまでは、しばらくかかるぞ。一週間は確実にベッドからは出られないな。まぁ、これで日頃の睡眠不足は少し良くなるだろう。いくら楽しくても飲みすぎるとろくなことがないな。酒はほどほどが一番だ」
キルオは自分に、そしてリットにも嗜めるように言った。
「医者みてぇなこと言うなよ……」
「オレは医者だぞ。医者の話はちゃんと聞いておくべきだ。不健康なやつは医者を信じないからな。そして、不思議と健康なやつほど、医者から病気の名前を聞きたがる。病気だと安心するのも考えものだ。寝てれば治るのに、薬を飲みたがるからな」
「それを安心させるのも医者の役目だろ。だから、なんでオレが坂道で寝てたか教えて安心させてくれ。あと一歩前に出てりゃ、砂漠で干物になってるところだった」
「オレもそこまで覚えてるわけではないが……なにかを確かめに行くと言っていたぞ。たぶんその途中で力尽きて寝たんだろう」
「美味い酒を飲んだんだったら、甘んじて受けいれるけどよ。ただの酒もどきを飲んで、記憶がパーだ。我ながらアホらしくてやってらんねぇな」
「たしかにアホらしいな。幾ばくかの時間を楽しみ、その倍以上の時間を後悔に充てる。まるで青春時代のようだ。オレは久しく忘れていた、友情の芽生えを思い出したよ。何年後かはわからないが、話に花を咲かせる大事な芽生えだ。恋の花は枯れれば終わりだが、友情という花は枯れるとまた種を落とす。まぁ、二日酔いに一番効くのはおとなしく寝ていることだな」
「わかったよ」
リットはわざとらしいあくびを一つすると、キルオに背を向けた。
「今日は素直なんだな」
「わかったってのは、アンタが親父と気が合った理由だ。とてもじゃねぇが、オレは酔っててもそんなセリフは口から出ねぇよ」
「なら、お互い学び合えるな」
「そうかもな」
リットは一度だけ振り返ると、また痛み始めた頬を押さえて歩き出した。




