第二十三話
晴天とは言えない空だった。霧がかったかのような雲が空一面に張り付き、分散された陽の光が焦れったく降り注いでいる。
風は吹いたり止んだり、子供の癇癪のように気まぐれだが、ボーン・ドレス号はマイペースに海を泳いでいた。
他の船にとって風の気まぐれは厄介だが、ボーン・ドレス号はたとえ嵐だろうが、無風だろうが関係ない。海さえ干上がらなければ、どんな状況でも進むことが出来る。
自由という言葉がこんなにも似合う船は他にはないだろう。
「海の馬車号に名前を変えりゃいいのに」
帆が畳まれたマストの下。僅かな日陰のスペースに寄りかかりながらリットが言った。
船が進んでいるのは、風の力ではなく人魚の力。船首前では、人魚達がロープを引っ張り泳いでいる。
「バシャバシャと泳ぐ海の馬車号ですね」
テレスがボタボタと重い水音を響かせながら言った。汗ではなく、首周りにかけている乾燥対策のために存分に濡らした昆布から水が垂れている。
「干からびるのが嫌なら、海に飛び込んで人魚達と一緒に引っ張ってきたらどうだ? 蒸してる時に濡れたもんを近付けんな。だいたい夏は終わったんじゃねぇのかよ。なんだこの蒸し暑さは」
「東の国は秋になっても、しばらくは蒸し暑さが残りますからね」
「嫌な国だな……」
ボーン・ドレス号は北の大灯台が薄っすら見える場所まで来ていた。
もう少しすれば、このイサリビィ海賊団ともお別れなのだが、誰一人として寂しさを感じている者はいない。
通りすがる人ほど気薄な関係ではないが、言うなれば酒場で隣の席になったくらいの関係だ。
夏の暑さと同じで、思い出も一季節も過ぎれば薄れてしまうだろう。
そんなことを思いながら、細くなったマストの影から出て行くテレスの背中を見ていると、その考えを見透かしたようにセイリンが言った。
「随分都合のいい頭をしているな……。これがある限り、私は忘れるようなことはない」
そう言って、セイリンが内ポケットから出したのは紙束。
それには『イサリビィ交響楽団船上演奏会』と大きく書かれ、セイリンのマーメイド・ハープのソロがある旨が書かれており、右下にリゼーネ王国の国印が押されていた。
つまり、リゼーネ王国主催の音楽会であることを意味し、各国から船が集まってくることになる。
ボーン・ドレス号ならば逃げることは可能だが、臆病者という不名誉がイサリビィ海賊団に付き纏うことになる。
額面通り演奏会で誤魔化そうとしても、セイリンのマーメイド・ハープの問題がある。陸の上では美しいマーメイド・ハープの音色を期待するが、海の上では水を造形する力にも期待が寄せられる。
ハーフだからか腕が未熟だからかはわからないが、まだ水を造形することができないセイリンは恥をかくことになる。
角笛岬の崖下でコソコソ演奏しているセイリンを脅したネタがこれだ。
「演奏会の誘いなら別の奴を誘え。オレは興味ないんでな」
「いいや、いずれ呼ばせてもらう。せっかく誰かさんが作ってくれたんだからな」
「……それを使われると、オレとっても困るんだけどな」
国印は当然偽物であり、これが使われると偽印を作ったパッチワーク。そして作らせたリットは罪に問われることになる。
「次に誰か脅す時は、ちゃんと後のことも考えておくことだ」
セイリンはギリギリ笑っているのがわかるくらい、口元に僅かなシワを寄せると、惜しげも無く海に紙束をばら撒いた。
ゆるくなった麻紐が空中で解け、浮かび沈み踊り、紙吹雪となって海面に落ちていく。
リットは最後の一枚が波に飲まれるのを見守ると、セイリンに向き直った。リットと目が合ったセイリンは、今度は大げさに口元をひん曲げてしっかり笑ってみせた。
「いい女ってのは、やることが違うな。顔がいい、スタイルがいい、料理が上手い、気配り上手、教養がある。そんなもんよりも、思い切りがいい奴のことを言うもんだ」
「裏を返せば、私にはそれらが備わってないってことか?」
「まぁ、気配り上手には見えねぇな」
「気を配る必要がないからな」
「気を配る海賊なんて笑い話にもなんねぇしな。なんにせよ、オレはようやく海賊をやめて一介のランプ屋に戻れるってわけだ。油売ってばかりで、久しくランプなんか売ってねぇや」
リットは徐々に大きくなっていく大灯台を見ながら言った。
「失業したらうちに来い。魚の餌くらいにはしてやる」
「セイリンがオレを食いたがってるとは知らなかった」
軽口を叩き終えると、どちらからともなく笑みをこぼした。
「さて、そろそろ小舟を降ろす。忘れ物はするなよ。わざわざ届けたりはしないからな」
リットが下の部屋に荷物を取りに行ってから甲板に上がると、海に降ろされた小舟には既にエミリアとノーラが乗っていた。
「遅いっスよ、旦那ァ」
小舟でノーラが、手持ち無沙汰に短い足をぶらつかせている。
「荷物を取りに行ってんだ」
リットの言葉にすぐさまエミリアが反応した。
「帰ることがわかっているのだから、手に届くところに荷物を置いておかないか」
「陽に当たると酒が不味くなんだよ」
縄梯子から小舟に降りたリットは、ボーン・ドレス号を見上げる。誰も顔を覗かせることなく、するすると縄梯子だけが引き上げられていた。
「この小舟、貰ってくことになるけどいいのか?」
リットが上に向かって叫ぶように言うと、セイリンが顔を出し、「構わない。必要になったら、適当な船から貰うからな」と、それだけ言うとすぐに顔を引っ込めた。
それが別れの言葉の代わりになり、小舟はボーン・ドレス号からゆっくりと離れていった。
シッポウ村の海岸には迎えの者はいなく、砂浜でコジュウロウが打ち上げられた死体のように眠っているだけだ。
顔が砂まみれになっているが起きることはなく、ちょうど寝息がいびきに変わるところだった。
リット達を待っていたわけではなく、暇をつぶしている間に寝てしまっただけだ。
「こうはなりたくねぇもんだ」
リットは昼間から惰眠をむさぼるコジュウロウに呆れ顔を見せた。
「昼間からお酒を飲んでる旦那といい勝負だと思うんスけどねェ。類は友を呼ぶってもんでさァ」
「オレとコジュウロウがか? 勝負になんねぇよ」
「そうっスねェ……。結婚して子供がいる分。コジュウロウの方が上っスかね」
「口うるせぇかみさんを貰って、言うことを聞かねぇ子供がいて……。人生に勝負があるなら、どう考えても負けだろ」
「結婚もしてないのに、アレコレいうのはよくないっスよ」
「今の状況を見てみろよ。口うるせぇエミリアに、なんにもできないノーラ。オレが幸せそうに見えるか?」
リットはエミリアとノーラの顔を見ると、大げさにため息をついてみせた。
「妻になった覚えはないが……私と結婚するつもりか?」
エミリアが怪訝そうに言う。
「してくれるのか?」
「そうだな……。まず酒を減らし、真面目に働く。それからだ。それからゆっくり考えてみる」
「世の女の理想の男がそれなら、オレは一生独身だな」
リットは足元の流木を蹴り上げる。流木は低い弧を描き、コジュウロウの顔面へと飛んでいった。
流木が顔に当たると、ワンテンポ遅れてコジュウロウが飛び起きた。
「敵襲にござる! 拙者の金作りの城には指一本触れさせないでござる!」
「ずいぶんご機嫌な夢を見てんな。ボロ家に嫌気がさしてきたか?」
「余計なお世話でござる。夢はいくら見ようとタダにござる」
コジュウロウは顔についた砂を払いながら言った。そして、ゆっくり辺りを見回すと、帰ってきたリット達を見て驚きに目を開いた。
「早い帰還でござるな。さては、拙者が苦労に苦労を重ねて手に入れた情報を上手く使えずに、失敗したでござるな。――あい、またれ。何も言わずともいい。拙者責めたりはしないでござる。失敗は男を大きくするもの、かく言う拙者も未だ大きくなっている最中にござる」
「それ以上でかくなれるのか? いくら見上げても顔が見えねぇってのによ」
リットはわざとらしく目を細めると空を見上げた。
「嫌味を言わせたら天下一でござるな……」
「天下一の男の荷物持ちをさせてやるよ。家族に自慢してもいいぞ」
「それで騙されるバカはいないでござる」
「これでもか? ついでの土産だ」
リットは酒瓶をコジュウロウに押し付けた。
予想外の出来事に、コジュウロウは顔を綻ばせる。
「おぉ! 気が利くでござるな! 中身は何でござるか?」
「なにか……そうだな……一瓶で世界中の酒が飲める……魔法の酒だ」
リットの歯切れの悪い言葉には気付かずに、コジュウロウは混ぜ酒を受け取った。
「なんとも摩訶不思議な……。こんな物が手に入るなら、拙者もリット殿について海賊をやればよかったでござる」
コジュウロウは瓶の中の酒を興味深そうに見ている。時折、意味もなく揺らしたりして、何が違うか確かめていた。
「まったくだ。ついて来りゃ、事故に見せかけて海の底に沈められたのによ」
「……拙者、なにかしたでござるか?」
「どうせ、そのうちなんかするだろ」
「とんだ言いがかりでござる。――っと、拙者の家はそっちじゃないでござるよ」
リット達が家とは違う方向に歩き出したので、コジュウロウは大きく手を降って自分の家を指した。
「先に灯台に行って、キスケに龍の鱗を渡してくる」
それだけ言うと、リットは再び歩き出した。後ろからは「見付けたなら、拙者にも見せて欲しいでござる」とコジュウロウの声が聞こえるが、コジュウロウに見せてもどうせろくな事にならないと決めつけたリットは無視して足を進めた。
しばらくコジュウロウの声は響いていたが、砂浜が草原に変わる頃には聞こえなくなった。
まだ夏と代わり映えしない天気が続いているが、重く青々とした緑は姿を消し始め、代わりに枯れ草が軽やかに風に揺らされている。
木々の葉もうっ血したかのように色を変え始め、落ち葉の道を作っている最中だ。
踏みしめると、耳に心地よく乾き砕ける音が響いた。
秋の夕焼けを吸い込んだような枯れ葉が目の前を通りすぎて、それにつられて見上げると、ほつれた綿のような雲が空に張り付いていた。
「アレは『うろこ雲』と言います。飛び立った龍が空に映っているように見えるので、地震の前触れとも言われていますね」
リットが声の元に振り返ると、キスケが空を見上げていた。
東の国の秋色に目を奪われていたリットは、気付かないうちに灯台の前まで来ていた。
「東の国ってのは、なんでも龍に例えんだな」
「そうですね。この角笛岬から始まって、北島には龍頭山。間に龍腕海峡。西島には龍腹というお寺が、カモン城がある東島には龍胴という地下深く要石のある部屋へと続く洞窟があり、南島には龍尾の滝もあります」
「全てを繋げると、龍の姿になるということだな」
エミリアは頭の中でキスケの言葉を一つ一つ繋げて龍を思い描いた。
「そういうことですね。他にも、龍湾海峡には龍爪と呼ばれる岩があったり、この北島にも龍髭川があったり、龍にあやかったものがいくつもあります」
キスケは自慢気に語りながら、龍髭川がある方向を指差した。
「お国自慢もいいけどよ。今は空想の龍よりも、本物の龍だろ」
リットは押し付けるようにキスケに龍の鱗が入った箱を渡す。
キスケは箱を地面に置いてゆっくり蓋を開けた。そしてまた、ゆっくりと包まれた布を剥がしていく。
キスケの手はこちらまで鼓動が伝わってくるのではないかと思うほど、昂ぶりに震えていた。
「これで……。これで、大灯台を復活させることができます!」
布を剥いだ瞬間、龍の鱗が強く太陽の光を反射するのを見て、キスケは涙混じりの声を上げた。
「二、三日中には用意できそうか?」
リットの問に、キスケは笑みを浮かべて首を横に振った。
「二、三時間で済みます。夕焼けの時刻ですね。ちょうど暗くなってくる頃に準備は終わります」
「そうか、ならその時間に灯台に来ればいいな」
「はい。鍵は開けておきますので、上がって来てください」
影が伸びる約束の夕方。
リット達は灯台の階段を上っているところだった。
キスケが灯台内の明かりを付け忘れたせいで中は薄暗い。
「灯台なのに暗いとは……嫌がらせか」
苛立たしげな口調とは反対に、リットの足取りは慎重だった。用心しないと踏み外してしまいそうだからだ。
「これが本当の灯台下暗しだニャ」
パッチワークが薄暗い中で、猫目を光らせながら言う。
「つまんねぇこと言ってんなよ」
「せめて場を明るくしようという、ニャーの気遣いニャ」
パッチワークは尻尾を立たせると、自慢気に振った
「そのご自慢の尻尾に火をつけた方が、よっぽど明るくなるってもんだ」
「ニャーで鬱憤を晴らすのはやめてほしいのニャ……」
「上官命令だ。エミリアの言うことは聞けよ」
「私がそんなことを言うか……」
リットのグチグチを聞きながら、一行はちっとも上った気がしない階段を上り、六階にある監視室まで来た。
そして、長年使い込んでツルツルになった揺り椅子の上でいびきをかくイッテツの横を通り過ぎ灯火室に上がると、キスケが龍の鱗の位置の最終調整をしているところだった。
「今それをしてるってことは、準備はほとんど終わったんだろうな」
リットが聞くと、キスケは笑顔で頷いた。
「はい、それはもうピカピカに磨きました」
キスケの言うとおり、龍の鱗は傍らに置いたロウソクの僅かな明かりを浴びて存分に輝いていた。
瑠璃色と濃い緑。龍の鱗は、一つの鱗に幾つもの鱗があるかのような曖昧な色をしている。
「いよいよというわけですね! 心臓が口から飛び出そうなほど緊張してきました!」
ハスキーが声高々に叫んだ。
「心臓は出してもいいけど、言葉は口から出すな。うるせぇったらありゃしねぇ」
リットは手で耳をふさぐが、すぐ隣りにハスキーがいるせいで、「わかりました!」という返事も、手を突き破るようにして耳に入ってきた。
「本当……バカは高いところが好きだな……」
リットはハスキーに向けていた視線を少し下に向けると、すぐに中央の燭台に視線を戻した。
「旦那ァ……今私を確認しましたね?」
ノーラが不満気な顔でリットのズボンを引っ張った。
「てっきり騒いでると思ったが、当てが外れた」
「前から思ってましたが、旦那は私のことを見くびりすぎですよ。どうせ間が抜けた奴くらいに思ってるんでしょ」
「それだけじゃねぇよ。抜け目ねぇとも思ってる」
「まぁまぁ、そんな事言わずに肩の力を抜いてくださいよォ」
ノーラはリットの肩を揉もうとするが、背が低すぎるため、リットの肩まで手が届かない。結局、肩を揉むような仕草を見せるだけになり、ノーラはにんまりと笑顔を浮かべてごまかした。
「……底抜けに明るい奴だな」
しばらく話してる間にキスケの準備が終わり、自然と燭台の周りに皆が集まった。
キスケはマッチをすると、皆に見えるように一度高く掲げると、ゆっくり腕を振り下ろす。
「それでは、火をつけます」
キスケの言葉とともに、閃光がリット達を襲った。
眩い光に一度目を伏せた時、埃を焦がすにおいがした。
まぶたの向こう側で、まばたきをしているかのように明るくなったり暗くなったりしている。明るくなっている時は、まるで真夏の太陽の下に晒されているように暑い。
光に慣れてリットが目を開けた時、ちょうど自分の体を光が通り過ぎていった時だった。
リットは回転する光に合わせて、灯台の外へと目を向けた。
人々は時に東の国を黄金の国と例え、また時には龍の国とも例える。
それはかつての大灯台の光と、東の国の独特な列島の形をなぞらえた呼び方だ。
その二つが合わさると、東の国はまさしく龍となる。
油の上を炎が走るような暴力的な光は、燃え盛る炎の中心部のような金色をしていた。
見ているだけで喉が渇きそうな光。海を干上がらせてしまうのではないかと思うほどだ。
海面に黄金の道ができると、角笛岬がけたたましく音を立てた。
大灯台の光によって急激に暖められた空気の塊が、秋の夜の冷たい海面の空気とぶつかり合い上昇気流を生み出した。それが角笛岬の崖下の岩肌の隙間に吹き込み、鳴き声を上げさせているのだ。
いや、これはもはや鳴き声ではない。
光と合わさり、龍の咆哮として響き渡る。
龍の咆哮は力を増したかのように光を強めると、ペングイン大陸の端の岬を、一瞬だが焦がすように照らした。
――そして、咆哮は闇を貫き。
――切り裂いた。




