第十八話
粘りつくような潮風と、商船により異国の文化が流れるカラクサ村。
普段は港町らしく活気のある声が響き渡っているのだが、数日前から見たこともない大きな船『ムーン・ロード号』が停泊していることによって、異様とも言えるざわめきが広がっていた。
コジュウロウはその喧騒から離れるように、町外れの道を歩いていた。
リットとの約束を忘れたわけではなく、先に腹ごしらえをしようと考えていたからだ。
時折振り返り、薄着の女性の肌を確認しながら歩いていると、町の声も聞こえなくなる場所まで歩いていた。
取り残されたようにぽつんと一つだけ建っている茅葺屋根の家。潮風に煽られ、しおだれてしなびた雰囲気が漂っている。
傍らには『赤鬼亭』と書かれた、木製のボロ看板が立て掛けられていた。
どうみても古びた民家にしか見えない店のドアをコジュウロウは勢い良く開け、「おひさぁで、ござる」と、ロウソクの明かりさえない薄暗い部屋に声を響かせた。
風で飛んだ茅の隙間から太陽が差し込み、埃を輝かせて光の道を作っていた。
開いた隙間は三箇所。入り口と、左右の壁の真ん中。今は昼間で薄暗く済んでいるが、少しでも陽が傾けば部屋の中は暗くなってしまう。
「赤鬼殿の店は、相も変わらずボロボロで安心したでござる」
コジュウロウは慣れた足取りで部屋の中を歩いて行くと、草履を脱ぎ、畳の上にある小さな卓袱台の前に腰掛けた。
「いらっしゃい。注文は聞かないよ。あるものしか出せないからな」
赤鬼が横になったままの体勢で言った。一度も手入れをしたことのないようなボサボサ頭を掻き、一向にコジュウロウの方を向く気配がない。
「飲んで食べられればなんでもいいでござる」
コジュウロウがチャリンチャリンと手の上でお金を遊ばせると、その音を聞いた赤鬼が重い腰を上げた。米一握りも買えないくらいのお金をコジュウロウから受け取ると、コジュウロウの顔程もある大きな杯になみなみと酒を注いだ。
「食い物はイカの一夜干ししかないよ。他は全部食っちまった」
赤鬼がそう言って卓袱台に置いたのは、どう見ても何ヶ月も干しっぱなしにしたようなカチカチのイカだった。
イカも臭いが、酒も臭い。そして、部屋の中はもっと臭い。
いつ仕入れたかわからない穴の空いたビール樽からは、子供のお漏らしのようにチロチロと中身が流れ床を汚している。
安さが東の国一なら、質の悪さも東の国一だった。
「変わらず法外な安さでござるな」
コジュウロウは行儀悪く頭を垂れて杯の端に口をつけると、これまた行儀悪く音を立てて酒をすすった。
「趣味でやってるような店だからな」
赤鬼はコジュウロウよりも一回り大きい杯を出すと、それに酒を注いで自分で飲み始め、息をつく事無く一気に飲み干し、誰に遠慮することなく強風のようなゲップを響かせた。
「こんなんで金儲けしたら、たたっ斬られるでござる」
コジュウロウはイカの一夜干しの腐ってる部分を食い千切ると床に吐き出した。
その様子を見た赤鬼は謝るでもなく、もったいなさそうに落ちたイカの一部を眺めていた。
「なんでも腐りかけが美味い」
「客はネズミばかりでござるか?」
もう隙間風とは言えない、壁に開いた穴から入ってくる風は店内の埃を引っ切りなしに舞わせている。
その穴からネズミが入ってきたかと思えば、それを追って猫まで店内に入ってきた。
猫とネズミがおいかけっこをする度に、床にずぼらに置いてある徳利や杯が割れる。
「うるさいでござる……。辛気臭いのがこの店の売りだというのに」
「どうせ、すぐアイツらと同じようになる」
赤鬼は顎をしゃくって部屋の隅を指した。
部屋の隅では、酔っ払ったネズミが、同じく酔っ払った猫の背中で泥酔して寝ていた。
「ところで、いつものしょぼくれた二人組はいないのでござるか?」
コジュウロウは薄暗い店内を見回して、常連の男達を探す。
朝昼晩、三六五日いつも居るのではないかというほど、コジュウロウがこの店に来る度に居る二人の姿はない。
「とうとう腹を壊したか……馬鹿でかい船を見に行ったか……。この店の床下に埋まってないことは確かだ」
「何を隠そう、拙者もその船を見に来たんでござる。極秘の調査でござる」
コジュウロウはイカを食い千切っては捨て、食い千切っては捨て、食べられる場所を探すが、結局食べられそうなのは足一本だけだった。
「あれだけ堂々と停まってる船だ。何をしても極秘にはならないよ」
「赤鬼殿は見に行かないでござるか?」
「オレがここから離れるのは、糞を捻り出す時と、小便を撒き散らしに行く時だけだ」
「さすがにここで尿を漏らしてたら引くでござる」
コジュウロウは顔をしかめた。赤鬼のズボラさに呆れただけではなく、イカの足が木の枝を噛んでるかのように固かったからだ。
店を出たコジュウロウは、あまり満たされなかった小腹をひとさすりすると港へと向かった。
人通りの少ない道だったのが、町の中心に近付くに連れて、ただ歩くだけで肩がぶつかるほど人がひしめきだした。
人だかりのおかげでムーン・ロード号が停泊している位置はすぐにわかったが、人だかりのせいで近付くことは出来ない。
話題になっているムーン・ロード号を、まずひと目見ようとしたのだが、コジュウロウの背丈ではいくら背伸びをしても見えるのは人の頭ばかりで、その場で何度も飛び跳ねてなんとか船の姿を拝もうとする。
一番高い位置まで跳ぶと船が見えるが、すぐに落ちてしまうせいでムーン・ロード号の全容は確認できず、コジュウロウは狂ったカエルのようにひたすら飛び跳ね続けていた。
「見ろ、バカがいるぜ」
汚らしい無精髭の男が、伸び放題の長い髪の男の肩を掴み、もう片方の手でコジュウロウを指差して笑った。
「わざわざシッポウ村からカラクサ村まで醜態を晒しに来るなんて……。ダメ人間の鏡だね」
長い髪の男もコジュウロウを指差してゲラゲラ笑う。
「……同じダメ人間の『イチノスケ』と『ランマル』にだけは言われたくないでござる」コジュウロウは飛び跳ねるのをやめて、無精髭のイチノスケと長髪のランマルの元へと駆け寄った。「赤鬼亭にいないと思ったら、こんなところにいたでござるか」
赤鬼の店にいなかった常連の二人が、揃って船を見に来ていたのがコジュウロウには不思議でしょうがなかった。二人共そんなことには興味がないハズだからだ。
「急に仕事が入ったからな。あのでかい船のせいでよ。片っ端から暇人を集めて荷物運びをさせるたぁ、金持ちのやることは豪快なもんだ」
イチノスケが無精髭を手のひらでなぞりながら言う。
「金無し仕事無しの誓いを破ったでござるな」
「先にもう一つの奥さん無しってのを破ったのはコジュウロウじゃないか。それに、結局こうしてサボってるしね」
ランマルが風に流される髪を押さえながら言った。
「渡りに船とはこのことにござる。拙者、あの船のことを調べに来たんでござる」
「それなら、赤鬼亭で飯でも食いながらじゃねぇとな」
イチノスケがコジュウロウの肩を抱き、奢れと催促するが、コジュウロウが腐ったイカしかないことを告げると、がっくりと肩を落とした。
イチノスケは賭け事が人生と言っていい程のめり込んでいるため、常に文無しの状態だ。安く食事と酒が飲める赤鬼亭は、ライフラインと言っても過言ではなかった。
ランマルも似たようなもので、趣味の骨董品集め優先で衣食住は後回しのため、赤鬼亭に入り浸っている。
同じニオイのするこの三人はとてもウマが合っていた。
「あの船のことを聞きたいと言われても、ディアナ国の船ということ、来る途中に海賊に襲われて積み荷を無理やり交換されたこと、漢方に精通した人物を連れて帰りたいことくらいしかわからないよ」
ランマルが指を折りながら答える。
「情報ならなんでもいいでござる。特に何とは言われてないゆえ」
「あとは、夜になっても暗礁を気にせずに、スイスイ船を走らせることが出来るらしいぜ」
イチノスケが信じていないといった風に眉に唾を付けた。
「空でも飛ぶでござるか?」
「女神様のご加護で、月明かりが船の行く道を照らしてくれるんだと」
「海賊に襲われたくせに、ご加護だって」
イチノスケとランマルが顔を見合わせて一斉に吹き出した。
「二人共ずるいでござる! 拙者も女神様とやらを見たいでござる!」
「あれだ」
背の高いイチノスケが、駄々をこねるコジュウロウを肩車してムーン・ロード号の方を向いた。
ムーン・ロードは横向きに停泊しており、船首は何もない海に向けられていた。
コジュウロウが目を凝らして船首像を確認するが、横向きのせいであまり見えなかった。かろうじて胸元の出っ張りが見えるくらいだ。
「顔が見えないでござる。しかし、むんむんまっは拙者の好みでござる」
「残念だったな。あれは胸じゃなくて、なんか抱いてんだよ」
「がっかりでござる……。大陸の人間は女体の素晴らしさがわからないのでござろうか」
「近くで見ると、海水で汚れて酷いもんよ。高い宝石でも使ってんのか、やたら攻撃的に太陽を反射しやがるし。あれは見た目に反して跳ねっ返り娘だぜ」
イチノスケはしゃがみこんで、肩からコジュウロウを降ろした。
「そうでござったか……。まっ、拙者にはどうでもいいこと。――さぁ! 世間様が働く時間は、拙者達にとっては遊ぶ時間にござる!」
コジュウロウはムーン・ロード号のことは早々に切り上げて、飲みに行こうと二人を誘った。
イチノスケとランマルの二人が断るはずもなく、コジュウロウは来たばかりの道を戻り、赤鬼亭へと向かった。
「――というわけにて、拙者の長く苦しい旅は終わりを告げるのでござった。――よおう! これにて――終幕」
シッポウ村に戻ってきたコジュウロウは、ムーン・ロード号のことだけではなく、カラクサ村についてからのことを一部始終話した。
「イチノスケとランマルって奴が、どうしようもねぇ人間ってことはわかったな」
リットはお土産のイカのキモの塩漬けを食べながら、コジュウロウのどうでもいい話を聞いていた。
その横ではエミリアが、人の家を自分の家にいるように寛いでるリットを見て呆れていた。
「どの口が言う……」
「オレは仕事もしてるし、金も生活できるくらいはあるぞ。まぁ、安酒を飲めるのは少し羨ましいな」
「仕事をしているのに、話に出てきた二人と同じような暮らしをしているのは、いったいどういうことだ」
「どうもなにも、それが普通の暮らしってことだろ」
「普通の暮らしとは、決まった時間に起きて、仕事に行き、人と出会い、様々な知識と見聞を広げる事を言うんだ」
「アホか。“普通”っていうのはな、多数決で決まんだよ。――世間の目は気にせずに、自分らしく自堕落に生きたい奴」リットが言いながら手を上げると、ノーラ、パッチワーク、コジュウロウ、セイリンの四人も手を上げた。「――エミリアの言ったとおり、世間のしがらみに囚われて、精神をすり減らして生きたい奴」
かなりの間があったが、エミリアとハスキーの二人がおずおずと手を上げた。
結果を見て、リットがどうだと言わんばかりの顔をしているが、エミリアは納得していなかった。
「いや、待て。質問の仕方がおかしい。私の意見が、かなりねじ曲げられているではないか」
「――それで、いらねぇ髭と髪の話をカットすると、ムーン・ロード号の船首像が怪しいってことだな」
リットはイカのキモの塩漬けを食べながら、コジュウロウの話を一つ一つ思い出していた。
「こら、リット。話の途中だぞ」
エミリアは急に話を変えたリットの目の前からイカのキモの塩漬けを取り上げて、話に集中させるようにした。
「それじゃ、お好きにどうぞ」
リットはどうせ無駄だと、エミリアを囃し立てる。
「土地と人に学び、感謝の心を持ち、心身を鍛え、より良い明日を手に入れたい者は挙手せよ!」
演説のようにエミリアが声を張り上げると、ハスキーが誇りに満ちた顔でまっすぐ天井に向かって手を伸ばした。
「……リットの言うとおり、世間から冷ややかな視線を浴び、己の為だけに生き、堕落へと向かう明日を望む者は挙手せよ……」
エミリアが力なく言い終えると、残りの五人がだらだらと手を挙げる。
「ハスキー……。私は自信がなくなってきたぞ……」
エミリアは床に手を付いて項垂れてしまった。
「自分はエミリア様の言葉に素晴らしく感動しました! エミリア様の道は、まさに正しき道。他の者もきっと後からついてきます!」
胸元で拳を握って力強く言うハスキーの横で、パッチワークが呆れ顔であくび後の口元の毛をつくろった。
「匂いを辿って歩くのは犬だけだニャ」
「飼い主のケツの臭いを覚えるとは、飼い犬の鏡だな」
「この顔ぶれで、この質問をしたのが間違いだった……」
エミリアには珍しく、もうどうでもいいといった風にため息を吐いた。
「そのとおりだ。人選が悪かったな。人には人の生き方があんだよ」
「私が間違ってるとでも言いたいのか?」
「いいや、エミリアはそれでいいだろ。オレはオレ。生きやすいように生きなけりゃ、早死にしちまうぞ。オレは痛む胃を押さえながら、血尿を垂れ流して、短い人生を苦しむのは嫌だね」
「確かに……あまり意見を押し付けるのもよくないかもしれないな。人には人に合った生活がある」
「ようやくわかったか。オレの人生論の講習料はタダにしといてやるよ」
「しかし、胃の痛みと血尿は、お酒を飲み過ぎてもなることだぞ」
エミリアが調子のいい言葉に釘を刺すと、リットは顔色を曇らせた。
「……善処する」




