第十五話
獲物を静かに待つアリジゴクのように、ボーン・ドレス号は海の真ん中でポツンと停船していた。
くすぶり気味の空は太陽を隠したり出したり、風の気まぐれに合わせて表情を変えている。
「乳房雲ってのはあるのに、尻雲ってのがないのはおかしな話だと思わねぇか?」
リットが後ろ手に甲板の手すりに肘を付き、空を見上げながら言った。
セイリンはため息と望遠鏡を縮める音を重ねると、コートの内側に望遠鏡をしまった。
「妄想を膨らませる暇があったら、少しは働いたらどうだ」
そう言ったセイリンの声には少し苛立ちが滲んでいた。
「停船中にやることがあるかよ。そっちこそ、ほっぺたを膨らませる暇があったら、早く船を見つけたらどうだ」
「船を見たかったら、海に飛び込め。ボーン・ドレス号がよく見えるぞ」
リットとセイリンの皮肉の他には、アリスが船室や甲板を落ち着きなく歩きまわる、濡れ雑巾のような触手を引きずる音がよく響いていた。
「こんなボロ船をいくら見たところで暇つぶしにもなんねぇよ。金でも張り付いてるなら別だけどな。せいぜい付いてるのは貝と藻くらいのもんだ」
「あれはあれで役に立っている。ヒビに同化して埋めてくれているからな」
「修理しろよ」
「定期的にしている。自然に任せたほうがいいこともあるんだ。貝や藻を目当てに集まってきた魚のおかげで、食糧不足にはならないからな」
「前から思ってたけどよ。それ、共食いじゃねぇのか?」
「魚だって魚を食べるだろ。――人間だって人間を食べる。リットはとんとご無沙汰みたいだがな」
セイリンが意地の悪い笑みを浮かべ、リットはそれを鼻を鳴らして返した。
「人魚の相手なんかしてたら、余計錆びつく。海水まみれだからな。そっちこそ女ばかりの海賊の船長をやって、子供を作るのは諦めたのか?」
「いや、いずれは私も子供を作るだろう。名前は男だったら、シーブルー。幾つもの海を股にかける偉大な男になるはずだ」
「それじゃ、オレの子供の名前はキックス。将来はシーブルーのケツを蹴る仕事をしてる」
リットとセイリンが嫌味を言い合っていると、聞き慣れた“靴音”が聞こえてきた。
「アリスの次はセイリンか……。すこしは仲良くできないのか」
一人いつもと変わらない様子のエミリアが、足取り凛々しく、リット達のいる甲板後部に歩いてきた。
「誰のせいで、皮肉を言い合って暇をつぶしてると思ってんだよ」
「私のせいではないだろう」
「一から十までエミリアのせいだっつーの」
アリスとリットから始まった禁酒は、いつの間にかイサリビィ海賊団全体に広がっていた。かといって、海の上でいつでも真水が手に入るわけはないので、完全禁酒というわけではない。
酒が飲めるのは食事時と、喉を潤す時に限られていた。
イサリビィ海賊団は普段、片手に酒瓶というのが当たり前になっているが、今は片手に酒瓶をぶら下げてるものは誰一人いない。
自由に生活していたイサリビィ海賊団は、説教や小言に慣れていないので、エミリアに流されるままになっていた。
「セイリン、オマエこの船の船長だろ。この酒の楽しみ方も知らねぇ小娘になんとか言ってやれよ」
「口を出して、エミリアに何時間も小言を言われるのはもう嫌だ」
「二人は私が話している最中に口をはさむから、余計長くなるんだ。何度も言うが、お酒ばかりを飲んでも何もいいことはないぞ」
「闇に呑まれたペングイン大陸にとっての北の大灯台、エミリアにとっての妖精の白ユリ、オレにとっての酒だ。酒は心に火をつけるオイルなんだよ」
「……わかった。都合の良い言葉を適当に並べて、私を誤魔化そうとしていることはな」
エミリアに低い声でどやされて、リットは思わす背筋が伸びた。
「ところでだ。妖精の白ユリのオイルは大丈夫なのか?」
「わかりやすい話題のすり替えだな。……まぁ、オイルは大丈夫だ。大瓶で持ってきたおかげで、充分足りている。冬までこの調子ならなくなってしまうがな」
「冬になるならオレは帰るけどな。真冬の海を船の上で過ごすほど、オレはお人好しじゃねぇ」
「それは困るな。私一人が残ってもどうもできない」
エミリアは腕を組んで甲板の床板をじっと眺めた。眼力で床板の間に挟まった錆を剥がそうとしているんじゃないかと思うほど、鋭く睨んでいる。
「小銭でも見付けたのか?」
エミリアの思案とため息が混ざった重苦しい呼吸の隙間をぬうようにして、セイリンがからかい気味の言葉をかける。
「すまない、小銭は見かけていない。どの辺りで落としたかがわかれば一緒に探すぞ」
エミリアの間の抜けた返しに、セイリンはおかしそうに鼻を鳴らして笑った。
「オレはエミリアのポケットの中に金を落としたんだか知らねぇか?」
リットの言葉に、エミリアは反射的にポケットをまさぐった。
中にはリットがフナノリ島で拾ってきた貝が入っている。船の上で食べてポイ捨てする度に拾った貝殻だ。
「そうだな。返すぞ。ゴミはしっかり然るべきところに捨てておけ」
エミリアはリットの手を握るようにして貝殻を渡した。
「貝殻なんてその辺に捨てりゃいいだろ。周りは海だぞ、そこら中に落ちてるようなもんだ」
「倫理観の問題だ。町中で食べ終えたゴミを捨てたりはしないだろ」
「さぁ、どうだろうな。倫理は昔に捨てたけどな」
「ならば、すぐに拾って来い。必要なものだ」
「帰ったらな。ハスキーに匂いでも追わせて探させる」
「私の部下を犬のように使うな」
「……犬だろアイツは。超犬だ」
「そういうことではなくてだな――」
エミリアがお決まりの小言を言う声のトーンになった時、待ちわびていた一声が海面から響いた。
「セイリン船長! 西南西の方向に船の気配。速度はノロマな深海魚程度です」
「そうか。なら、風で充分追いつけるな。よし、帆を張れ!」
セイリンは身を翻し、風向きを確かめるようにコートをはためかせると、急かすような声で人魚達を煽り始めた。
人魚達は待ってましたと言わんばかりに歓声を上げ、慣れた足取りで甲板を移動する。
特にアリスは破裂寸前の泡のような状態だったので、声が聞こえた瞬間からマストのてっぺんまで触手を絡ませて一気に駆け登っていた。早く船を走らせたくてしょうがないが見て取れる。
リットがボーッと甲板の様子を眺めていると、セイリンがリットの肩を小突いた。
口では何も言わないが、目は「さっさと働け」と細められている。
リットは片手を上げてひらひらと振ると、手近なロープを引いた。
遠目からでも確認できる大きな船体は、ただ浮かんでいるだけでも気圧されるのだが、風を喰らい尽くしたかのように丸々と帆を孕ませた姿は、山が海を泳いでるようだ。
ボーン・ドレス号よりも一回り以上大きな商船は、軍艦のような迫力があった。
セイリンが望遠鏡を覗き、ムーン・ロード号の様子を確認していた。
砲台はない。護衛船団もいない。望遠鏡に拡大されるのは、イサリビィ海賊団に気付いてうろたえている船員達の姿だ。
ただ大きいだけで武装をしていないのを確認すると、セイリンはいつものように船を近づけさせた。
大型船を実際に目の前で見たことがないノーラは、圧倒されるように呆然と口を開けて船を見上げている。
ムーン・ロード号に近づき、船の全体が見えなくなっていくに連れて、ノーラの口は大きく開いていた。
「おい、そんなに大きな口を開けたって、あの船は食えねぇぞ」
「海っていうのはなんでも浮かせるんスねェ……」
ノーラは半ば口を開いたまま、リットに言葉を返した。
「何言ってる。殆どのもんは海の中だ。海に浮いてるのは、木か藻。それに頭が空っぽの奴だ」
「それじゃあ、私達は溺れる心配ありませんねェ」
「……浮かぶのはオマエ一人だ。オレはその空っぽで沈むことのない頭に掴まって生き延びる」
「なるほど。旦那の生き死には私にかかってるわけですね。感謝してくださいよォ。頭が空っぽの私に」
ノーラが屈託なく笑った瞬間、ボーン・ドレス号が激しく揺れた。
ボーン・ドレス号がいつものように乱暴に横付けしたのだが、ムーン・ロード号の方が大きいため、返ってくる波の方が大きかったのだ。
ムーン・ロード号は面舵いっぱいで逃げようとしているが、突然操縦手の動きが止まった。両耳を手で押さえてうずくまっている。
理由はボーン・ドレス号から立ち上る白い煙だ。何発も続けざまに響く空砲の音で、ムーン・ロード号の船員はすっかり怯んでしまった。
本来ならムーン・ロード号の横にピッタリと停船しているハズだが、向こうの操縦手が恐怖に任せてぐるぐると舵輪を回したため、船首がボーン・ドレス号に向いていた。
女神を象った船首像も、波に濡れ、心なしか恐怖に怯えているようにも見える。それでなくとも、空模様と同じような曇った表情をしていた。
「見た目だけ立派で、中身は腰抜け。ブホホみてぇな船だな」
リットはイトウ・サンとスズキ・サンが、ボーン・ドレス号とムーン・ロード号の間に架けた板の橋を渡りながら言った。
橋はムーン・ロード号に向かって斜めに上がっていて、二つの船の大きさの違いをより明らかにしていた。
「ブホホって、こないだのオークさんっスか?」
ノーラは先日会ったばかりのオークのことを思い出しながら言った。
「ありゃブヒヒだ」
「紛らわしい名前っスね……。フルネームはなんていうんスか?」
「なんだっけか……」リットは思い出そうとするが、一向に名前が浮かんでこない。数秒思い出そうとしたところで諦めた。「ブヒヒはブヒヒで、ブホホはブホホだ」
「ブヒヒ・ワ・ブヒヒに、ブホホ・ワ・ブホホっスね。なんか、かえって覚えにくいっス」
「説明が面倒くせえからそれでいい」
リットがムーン・ロード号に降りると、既にアリスが物色を始めようと甲板にある階段を下りていくところだった。
「なんだ、もういいのか?」
リットは、興味深そうにムーン・ロード号の甲板を見渡しているセイリンに話し掛けた。
アリスまで仰々しくはないが、いつもは前口上を述べてから取引を始める。それなのに今日はいきなり積み荷を物色することになっていた。
「あれを見ろ」
セイリンは顎をしゃくってムーン・ロード号の船員を指した。
何人かはこの海に慣れた船乗りを雇ったらしく、イサリビィ海賊団の蛮行に諦めの表情を浮かべているが、半数以上の船員は海賊と出会うのも初めてらしく奥歯を震わせていた。
「海上散歩でもするつもりだったのか? ドゥゴングから出港したなら、海賊が出ることくらい聞いてるだろ」
「私が知ったことか。ここまで情けない船乗りを見たのは初めてだ」
セイリンは冷たい瞳で船員を見下した。
「大方、平和な国から来たんだろうな」
リットは顔を上げて、メインマストの上でなびいている国旗を見た。
満月に見立てた白い円。その後ろには虹色の十字架があった。
この趣味の悪い国旗はディアナ国のものだ。
どこの国の船がわかったリットは、ムーン・ロード号の船員をくまなく見渡した。
一人一人の顔を舐めるように見る。最後の一人の顔を確認したところで、リットはまばたきを忘れていたことに気付いた。
まばたきをする度に、痛みと乾いた瞳を潤す為の涙が同時に襲ってきた。
「どうした?」
話の途中で急に黙り、睨みを効かせ始めたリットに、セイリンが顔に疑問を滲ませている。
「マヌケ面の確認をしただけだ。オレは行くけどいいのか?」
「あぁ、行け。私は、もうしばらく船を眺めてから行くことにする」
再び船を見始めたセイリンを置いて、リットは階段を下りていく。船室は船というよりも、家の中のような広さがある。
何部屋もある貨物室を全て確認する頃には夜になっているだろう。
リットは遅れて降りてきたエミリアとノーラと手分けをして龍の鱗を探すことにした。
貨物室はとてつもなく広く、城の宝物庫でも歩いているような気になる。あるのは金銀財宝ではなく、織物や香辛料が中心だが。
他の船のようにギュウギュウに荷物が積まれているわけではなく、よく風が通る作りになっていた。これなら食料も腐りにくいだろうし、織物や木材も傷みにくいだろう。
リットは木箱を開けたり、麻袋の中身を確認するが、龍の鱗は見つからなかった。仕方なく、飲み慣れた安いウイスキーを見付けたので、それを持って貨物室を出ることにした。
甲板へと上がる階段の前では、西日が差し込んでやけに明るくなっていた。
すでにエミリアとノーラがリットを待っていたが、二人の手にも足元にも龍の鱗らしきものはない。
「その酒をどうするつもりだ」
リットが小脇に抱えた木箱を睨みながら、エミリアが言った。
「なにって取引だろ。イサリビィ海賊団の流儀を忘れたのか?」
「そうではない。酒を減らしている最中に、酒を取引してどうするんだと言っているんだ」
「それじゃ、宝石でも持ってくか? 酒の方が安上がりだぞ。フナノリ島があるおかげで、酒がなくても生きられる。命か金かなんて選択を迫ることなく、嗜好品だけを奪う。なんて良心的なんだオレは」
リットは抱えていたウイスキーの入った木箱を床に置くと、重労働をしてきたかのように自分の腰を拳で叩いた。
「よくそう、次々と口からでまかせが出るものだ」
「コツは勢いだな。自分でも何を言ってたか覚えてねぇよ」
「威張って言うことか」
「私にすごく美味しいものを食べさせるか、ものすごく美味しいものを食べさせるか、どうしようって言ってましたよ」
ノーラは瑞々しさがなくなってきたリンゴをかじりながら言った。傍らには食べ物を詰め込んだ木箱があった。
「そのおさげを引っこ抜いて鼻の穴に詰めるか、その二枚舌を引っこ抜いて一生味がわからなくしてやろうかとは言ったな。どっちがいい? オマエが選んでいいぞ」
「おとぼけてわからないふりをして、やり過ごす方を選ぶことにしますよ」
ノーラは焼けるような西日を見上げて、大きく口を開けてあくびをした。
リットもつられあくびをすると、階段を上がっていった。




