第十三話
リットは珍しく朝早くに目を覚ました。
まだ太陽は低い位置でくすぶるように浮かんでおり、ぼやけたような光を木々や海に優しく当てていた。
朝焼けで紫に染まった海が、元の青色を取り戻し始めた。
まだ寝起きの良い気持ちのままで、廃船の甲板の手すりに肘をついて陶然としているリットの元に、濡れたままの洗濯物を引きずるような音が近づいてきた。
「また、珍しい船がドゥゴングに停船しているそうですよ」
リットが朝一番に聞いた声は挨拶ではなかった。テレスの淡々とした声が耳を通り抜ける。
「またガセネタじゃねぇだろうな」
リットは朝食代わりの水に、ライムを絞って飲み干すと、煙を吐くようにゆっくり一息吐いた。
呼吸をする度に、上がったばかりの雨の匂いが鼻孔に広がる。
黒い雲を消し去るように出てきた太陽を、雫に濡れた草木が反射し、あちこちで目が痛むほど輝いていた。
連日続いていた雨のおかげで、止まっていた滝は再び流れ出し、勢いを増して濁った水を海面に叩きつけている。
遠くから飛んで来る滝飛沫が冷涼となって、気持ちよく肌を撫でていた。
「船じゃなかったのは、最初の一回だけですよ」
「龍の鱗がなけりゃ、ガセネタと変わんねぇよ」
「ガセネタが嫌なら、自分で探せネタ」
テレスは表情を変えず、顔だけをずいっとリットに近づけた。
「……怒られたし、そうするか」
「いえいえ、怒ったわけじゃないですよ。今のはですね――」
テレスはこほんと一つ咳払いをする。いざ説明をしようとしたところで、リットが目尻を擦りながら、あくびに唸り声を混ぜて遮った。
「いいんだよ。怒ったことにした方が面倒臭くねぇんだから」
「楽しくさせようとしてるだけで、面倒臭いことにはならないですよ」
「まさに今、面倒臭く絡まれてるとこだ」
「まだ新しい船だそうですよ。四年程前に進水式を済ませてから、初めての航海に出るらしいです」
「艤装に四年もかけたのか。そりゃまた豪華な船になってそうだ」
船の大部分が完成すると進水式が行われ、初めて船が水に浮かぶ。
しかし、このままだと大きなボートが浮かんでいるだけのため、この後に船となるために装置の取り付けや、備品を積み込んでいったり、居住スペースの様々な工事をすることなる。
この作業が艤装であり、普通は二年ほどで終わるものだ。
四年もかかるということは、それだけ凝った作りをしているということになる。
「そうですね。今回の珍しさは大きさのことでしょう。情報元の人魚は、メスらしいですよ」
「そりゃ女だろうな。人魚の男なんて見たことねぇんだが、いるのか?」
「男の人魚は深海の底で、ひたすらマーメイドハープを作ってますから、まず見ないでしょうね。根暗で有名ですから」
「テレスより根暗なのか?」
「心外ですね。わたしはひょうきん者ですよ。いつどこでもダジャレで人をなごまそうとしてますから」
「無表情で、なに考えてるかわからねぇけどな」
「至高の思考ですから、リットには理解できないのかもしれませんね」
「それじゃ、同じアホにでも頼むか。――アリス頼むぞ」
リットは近くにいるはずのアリスに声を掛けるが、返事は返ってこない。
リットが首を動かしアリスを探し、目が合うとアリスは眉間にしわを寄せた。
「アタシが船を出すと思うか?」
「そりゃ、出すだろ。出してもらわないとオレが困んだから」
「いちいちアタシを困らす男に、「はい、そうですか」って気持ちよく返事が出来ると思うか?」
アリスは気だるそうな目で睨む。金色の瞳は朝日に輝き鋭さを増した。
「別に渋々でもかまわねぇよ」
「そういうことを言ってんじゃねぇぜ……」
「アホみてぇにウネウネしてる触手も、甲板に吸盤の痕をつけるくらいしかねぇんだから、一本くらい貸してくれてもいいだろ」
「喧嘩だな。喧嘩を売ってんだな。喧嘩なら買うぜ」
アリスはバカにされた触手を、威嚇するように振り上げた。
「なんだ喧嘩って。白馬の王子様を連れて来て、取り合いでもすればいいのか?」
「アタシの喧嘩を乙女チックにするなよ!」
振り上げた触手はリットではなく、甲板に叩きつけられ大きな音を立てた。
すると、驚いて巣穴から出てくる野ウサギのように、エミリアが早足で甲板に上がってきた。
「なんだ、朝から騒々しい」
エミリアは肩にタオルを掛けており、洗顔に行く途中のようだ。初めは騒音に煩わしそうな顔をしていたが、自分より早く起きているリットを見て驚きに目を丸くした。
「……なんだよ。顔にマヌケとでも書かれてるか?」
リットは奇跡の光景でも目の当たりにしたかのように、ジロジロと見てくるエミリアに無愛想に言った
「夜通し飲んでいたのか?」
「オレが朝早く起きるのがそんなに不思議か? 早起きしたからって世界が滅ぶわけでもねぇよ」
「でも、雨は止みましたね」
テレスは一度ボーン・ドレス号に目をやってから太陽を見上げた。
朝の日差しを浴びて朝露と雨に濡れたボーン・ドレス号は、洗いたてのように輝いていた。
「確かに気持ちのいい朝だ」エミリアは全身で太陽の光を浴びるように腕を伸ばすと、一度言葉を止めてあくびを噛み殺すように目をつぶった。「体も調子がいい」
「そう調子がいいなら、リットには明日も早朝に起きてもらいましょう」
テレスは自分の声が聞こえやすいようにと、いつの間にかエミリアの横に移動していた。
「いい考えだ。早く起きるとそれだけ有意義に時間を使える」
「遅く起きた方が、早く酒場が開く時間になっていいんだよ。そんなことより、アリスに船を出すように言ってくれよ」
「そんなことで片付けられるような問題じゃないと思うが」
「問題なんて大きく取るな。いいから、散らかしたままにしとけ。そのうち埃と一緒に海に掃いとくから」
「それでは、一旦は置いておくことにする。後でしっかり整理するからな」
リットの蹴散らすような仕草とは違い、エミリアは問題点を体の横に置くような仕草をとった。
「後で煙に巻くから、それでいいよ。早くアリスを説得してくれ」
「いつものことだが、リットは本当に一言二言多いな……」エミリアは細いため息をつくと、アリスの方を向いた。「アリス、船を出してくれないか?」
アリスは顔を歪ませて笑みを浮かべる。
「いやだ」
アリスが短い一言をゆっくり言うのを最後まで聞くと、エミリアはリットに向き直った。
「ダメだそうだ」
「もっと粘れよ……。どっちかというと、オレよりもエミリアが欲しいもんだろ。龍の鱗は」
「確かにそうなんだが……。どうもリットは龍の鱗よりも、異国の高価なお酒が目当てな気がしてきてな」
「別に目当ては一つじゃなくていいだろ。龍の鱗が見つかればそれでよし。見つからなかったら、自分を慰める為に酒を飲む。何も間違ってない」
リットの言葉にエミリアとテレスは呆れを見せているが、アリスだけが不機嫌な顔のまま頷いていた。
「龍の鱗が見つからないからといって、落ち込む度にお酒を飲むこともないだろう。むしろ前向きになるべきだ」
「英気を養うためにも酒は飲むんだよ」
「よく次々とお酒を飲む為の屁理屈が出てくるものだ……」
「その理由を説明するには、なぜ太陽は昇るかを説明しなけりゃいけねぇな」
「なぜだ?」
「知るか。どっかのアホに聞け。口説き文句たっぷり混ぜて説明してくれるだろうよ」
リットが絞りきったライムを海に投げようとすると、エミリアが手を掴んで止めた。
そして、それを後で捨てるためにポケットにしまう。服が残り汁で汚れることなんて全く気にした様子がない。
「なぜそんなに朝から機嫌が悪いんだ?」
「機嫌が悪いわけじゃねぇよ。ただ、わがまま言ってるだけだ。アリスは船を出さないって言うし、エミリアはくどくど酒のことを言ってくるしな。わがままの一つや二つ言いたくなるだろ」
「酒の話を広げたのは私じゃなくて、リットだと思うが」
「それも含めてわがまま言ってんだよ」
「……なるほど。理解した」
エミリアは理解はしたが納得は言ってないといった顔を浮かべる。太陽の光を浴びてきらめく金髪の下、その表情はやたらに強調された。
「それじゃ、アリス。三日後に頼むぞ」
リットはエミリアから逃げるように、歩きながらアリスに声を掛ける。
「おい! アタシは船を出すって言ってないぜ」
リットは甲板に足裏を強く叩きつけた。振動が伝わり下にあるセイリンの部屋の窓を揺らす。
四、五回叩きつけたところで、リットは手すりから身を乗り出して船横を確認した。
ちょうどカーテン代わりのマントが、窓から飛び出て翻っているところだった。そして、煩わしそうにマントを払う手が見えると、セイリンが眠そうな顔を出してリットを見上げた。
「その呼び方はどうにかならないのか……」
昨夜セイリンはリット達と酒盛りをした後、更に自室でも酒を飲んでいた為、二日酔いで頭痛に襲われていた。
セイリンは痛むこめかみを押さえながら、太陽に目を眩ませている。普段は前髪で隠している琥珀色の瞳が、風に前髪が流され見え隠れしていた。
「優しく起こしに行けってか?」
「そうだな……。水と軽めの朝食を持ってきて……うるさくないように、皆に注意してくれれば完璧だ」
「なんなら着替えも手伝ってやろうか?」
「それもいいな。ついでに……吐いた後の洗濯もしてもらおう」
「なんだ、吐いたのかよ」
「吐きそうなんだ。だから、用件があるなら早く言ってくれ……」
顔を上げて話すのも辛いのか。セイリンの語尾は消え入りそうなくらい小さくなっている。
「アリスが三日後に船を出すってよ」
「……わかった。だから、もう呼ぶな」
セイリンはそう言うと力なく項垂れて、頭を部屋の中に引っ込めた。
アリスが「頭ぁ!」と何度も大声で呼ぶが、セイリンが再び顔を出すことはなかった。
「諦めろ。船長命令だ」
「海賊の船長がこんな男に言いくるめられて、情けねぇぜ」
「セイリンのせいじゃねぇよ。これが頭の良い交渉術ってやつだ。二日酔いの時は、ついつい適当に口約束をしちまうからな」
リットはいやらしく口を曲げると、勝ち誇った笑い声を響かせた。
「ただの実体験じゃないのか?」
リットの笑いの隙間に、斬りこむようにエミリアが言った。
「オレは八割方、約束は守んねぇけどな。ほとんど覚えてねぇし」
「威張って言うことか……」
「ってことは、頭も覚えてないかもな」
アリスが仕返しと言わんばかりに、リットに向かって笑みを浮かべる。
「そうかもな。そっちの記憶も忘れさせたかったら、自分でやれよ」
そう言ってリットは一度指をさすと、階段を下りていった。
リットが指をさした方向では、テレスが積み荷の計算を始めているところだった。
「おい、テレスなにしてんだ」
アリスはテレスに詰め寄ると、手元の紙を奪い取った。
「お酒の在庫を確認しているんですよ。航海分が足りなかったら、難破船に寄って補充しなければいけませんから。その分のロウソクも数えなければいけませんし、エミリアが食べる野菜も積み込まないといけません」
「わざわざすまないな」
エミリアが軽く頭を下げながら、感謝の言葉を述べる。
「いえいえ、魚や肉が食べられないんじゃ仕方ありませんよ。新鮮な野菜が少ないので心苦しいくらいです」
「そこまでわがままは言えない。野菜の確保を考えてくれているだけでも、ありがたい」
「だーっ! 聞けよ! アタシの話を! アタシは船を出さねぇって言ってんだ!」
自分の意見とは無関係に話が進んでいくので、たまらずアリスが吠える。
その時に一度だけセイリンの部屋がある下から、不機嫌に壁を叩く音が聞こえた。
「セイリン船長に逆らうということですか? 猫の島に島流しにされますよ」
「頭のことはいいんだよ。リットだ。あの男の思惑通り進むのが、気に食わねぇって言ってんだ」
「そうだな。最近のリットは目に余る。自堕落に過ごしすぎているからな。……また禁酒でもさせるか」
「そいつぁいいぜ! ざまぁみろってんだ!」
アリスは、リットが下りていった階段に向かって舌を伸ばして見せた。
「アリスもだぞ。リットに負けじ劣らずとお酒ばかり飲んでいるからな。しばらく肝臓を休めるのも悪く無いハズだ。それに、二人一緒に禁酒をすれば少しは仲良くなるだろう」
「ちょっと待ってくれ、アタシには必要ないってんだ! だいたいエミリアにあれこれ言われる謂れはねぇぜ」
「酔って服を脱ぎ出す。部下に絡む。千鳥足で鉄球を引きずって船を壊す。充分過ぎるほど自分を見直す必要があると思うが?」
アリスの反論に、エミリアはまるでテレスのように淡々とした口調で返した。
「海の上で酒を飲まねぇなんて自殺行為だぜ。腐らない酒を呑むのは当然のことだ」
「フナノリ島に寄れば、お酒ばかりで過ごす必要もない。お酒を飲まないノーラも私もそうしている。どうしてもと言うなら船を出す三日間までにしてもいい」
「どうしてもだ! 三日以上はできねぇ!」
アリスは噛みつく勢いで叫んだ。
「そうか。なら、まず三日頑張れ。さて……私は顔を洗ってくる」
エミリアは絶壁に倒れかかったマストを登り、湧き水がある方へと歩いて行った。
「……アリス。エミリアに言いくるめられてますよ」
「なにがだ? 禁酒は三日だけで済んだんだぜ。アタシじゃなきゃ、こうはいかねぇ」
「本来、禁酒すること自体突っぱねることができたはずです。自分で約束したことは守ってくださいよ」
テレスも船を出す用意をするために、廃船から下りていった。
残されたアリスは言葉もなく、空を見上げていた。




