第十一話
ボーン・ドレス号が隠れ家に戻る頃には、灰汁を煮詰めたような灰色の雲が空に広がり始めていた。
世界の色が抜け落ちてしまったような薄ら暗さ。海の水を存分に蓄えたような厚く膨らんだ雲の袖から、僅かな後光が漏れるのみだ。
塊で押し寄せてくるような重い風が、どこか遥か遠方で既に降っている雨の匂いを連れて来ているように強く匂っている。
降りそうで降らない焦れったさが、余計に景色の色を薄れさせていた。
子供のくずりに似た空模様の下。ボーン・ドレス号から降りて、砂浜を意気揚々と歩くアリスをテレスが呼び止めた。
「困りますアリス。船を出すはのいいですが、好き勝手にお酒を持ってこられても置く場所がありません。ちゃんと貯蔵庫を確認してからにしてください」
テレスは今しがた運ばれてきた酒を、備品の数が書かれている紙に記入しながら言った。
「入りきらない分は飲んじまえばいいじゃねぇか。そんなことでいちいち呼び止めんじゃねぇよ。それに、好きなんだろ? 数字とにらめっこするのが」
「誰もしないから、わたしが管理しているだけです。いくら自由と言っても、締めるとこは締めなければ不自由な暮らしになるのですよ。ねぇ、リット」
テレスは唐突にリットに話を振った。いくらアリスに言っても通じないと思ったからだ。
「さぁな。でも、酒があるに越したことはねぇよ。貯蔵庫に入りきらない分はオレの部屋に置いとけ」
「酒樽一つ二つでは済みませんが……いいんですか?」
「まぁ、しょうがねぇな」
リットの口ぶりには、言葉通りの「しょうがない」という感情が微塵もなかった。むしろ、待ってましたと言わんばかりの薄い笑みを浮かべている。
テレスは「では、そうします」と短く告げると、手元に視線を移した。
「それより、ガセネタだったぞ。なにが珍しい船だ。あのボロイカダが船ってんなら、嵐の次の日は砂浜には船だらけだ」
「ドゥゴングの人魚からの情報ですし、私に言われましても……。きっとその人魚はサメで、目が悪かったのでしょう。ちなみに、わたしはクラゲでアリスはタコだ」
「なんか言ったか!」
テレスの淡々とした口調が悪口に聞こえたアリスは、近くにいるのにわざと大声を上げた。
「はい、言いました。イカダを少し捻りましてね。イカに直接かけるのではなく、タコに――」
「聞いたアタシがバカだったよ……。つまんねぇダジャレはリットにでも聞かせてやんな。アタシは酒瓶を抱いて寝るぜ」
アリスは部下が運んでいる木箱の中から酒瓶を二本抜き取ると、海に飛び込み、甲板後部へと泳いで行ってしまった。
突き放されたように残されたテレスは、唐突にリット方を向いた。
「……聞きますか?」
「聞くと思うか?」
「是非」
テレスは力強く頷きながら答える。
「嫌だ。オレが死んだら、手向けの言葉に棺桶の前で好きなだけ言え」
「そうですか……。リットが早く天珠を全うするように祈ることにします」
「そりゃ、祈りじゃなくて呪いだろ。で、死者への手向けの酒はどれを持っていけばいいんだ?」
リットは砂浜に置かれている酒の積み荷に目を向ける。まだ酒樽が五つ残っていた。
「それ全部持っていっていいですよ」
「おいおい、いくらなんでも余りすぎだろ。オレ達が航海中、誰も酒を飲まなかったのか?」
「一番大酒飲みのアリスと、次に酒飲みのセイリン船長とリットがいませんでしたから」
「セイリン? こっちの船には乗ってなかったぞ」
「えぇ、セイリン船長は別用です。たまにフラッといなくなりますから、今回もそれでしょう」
「そうか」
セイリンがどこに行ったか見当が付いているリットだが、約束もあるのでセイリンについてそれ以上何も言わなかった。
「わたしも聞きたいんですけど、このお酒はどうしたんですか? まさか全部イカダに積んであったわけじゃないでしょう」
「あぁ、難破船だ」
「それは……アルラも随分気前のいい渡し方をしましたね。いつもならこの半分くらいの量なのに」
テレスはイサリビィ海賊団の備品の管理をしていることもあり、アリスが持っていったロウソクの量だと、こんなにくれるはずがないと不思議がっている。
「オレはあの店だと大富豪だからな。その気になりゃ、裸踊りもさせられる」
「したんですか? 裸踊り」
テレスの声には軽蔑の色はなく、僅かな興味が浮かんでいた。
「アリスがな。勝手に酔っ払って脱いで、エミリアに小言を言われてた」
「なぜエミリアは、そんなに服に執着するのでしょう」
「難しいな。なぜ人は服を着るか……。世界に生命が誕生してから、最も頭を悩ます問題だな。羞恥心を持ったら、またゆっくり考えろよ」
リットは言い捨てると、酒樽に手を当ててどうやって運ぶかを考える。一つずつなら運べるが、五回も往復しなければいけない。どうにか労力少なく運べないかと思案を巡らせていると、テレスの突拍子もない意見が耳を通り抜けていった。
「リットも裸になればいいんです。裸の人口が増えれば、服を着ている方が恥ずかしいことになります」
「女が裸でいたら有り難がる奴はいるが、男が裸でいても有り難がる奴はいねぇよ」
「同じ裸なのに、なぜ男女で風当たりが違うんでしょう」
「出っ張ってる場所が違うからだろ。なんだ、そんなに裸になりたいのか?」
「というより、私は既に裸ですから。エミリアの気持ちがわからないだけです」
テレスは肩に掛かった昆布をはだけた。乳首がなく、面白みのないゲル状だか水の塊だかわからない二つの膨らみが揺れる。
「わかんなくていい。羞恥心と一緒に小言まで覚えられたら、たまったもんじゃないからな」
「わからないと言えば、アリスもそうですが、なぜリットは小言を言われてもお酒をやめないのですか?」
「そうだな……。酒を飲むと、小言を言われる。その小言を忘れるために、また酒を飲む。するとまた小言を言われるわけだ。わかるか?」
「リットがあまり頭が良くないことはわかりました」
「それじゃあ、頭が悪くて酒樽を一回で運ぶ方法が思いつかねぇオレを手伝ってくれ」
リットは酒樽を横に倒すと、テレスの方へと転がした。
「手伝いましょう」
そう言ってテレスは酒樽を一つ転がし始めた。
「おい、一個かよ」
「わたしはアリスほど力がありませんから」
「これならどっちか一人が、一回多く運ばないといけねぇじゃねぇか」
リットも酒樽を一つ転がすと、砂浜に重々しい跡がついた。
「わたしの荷物ではないので、わたしが多く運ぶ必要はないと思いますが。感謝の言葉一つで、労働力が一つ増えただけで儲けものですよ」
テレスは催促したわけではないが、無表情で抑揚なく言われると、そういう気がしてくる。荒くなってきた波も、まるで「早く礼の言葉を」と言わんばかりに打ち寄せてくる。
「ありがとうよ。悪かったな言い忘れて」
「いえいえ。でも、お酒を部屋に置いておくのはいい考えかもしれませんね」
「手に届くところに酒。それこそ優雅な海賊暮らしだな」
リットは自由を楽しんでいると言わんばかりに、鼻か思い切り空気を吸って、口からゆっくりと吐き出した。
「そうではなく。そろそろ嵐が来ますから」
「確かに天気は悪くなってきたけどな……そんなのわかるのか?」
リットは空を見上げた。
曇天は灰を被ったように色濃くなっているが、雨は降っていないし、風も嵐が近づいているというほど強くはない。
太陽も厚いレース越しから覗くように、雲の隙間から光をこぼしている。
「滝の水が止まりますから、そしたらすぐに嵐が来ます。真水が飲みたければ、今のうちに湧き水を確保しておいたほうがいいですよ。濁っちゃいますから」
「……オレはその話を聞かなかった。いいな?」
念を押してくるリットに、テレスはなぜ服を着るのかわからないと言った時と同じような疑問の表情を浮かべた。
「わたし達は海水でも平気ですが、人間は真水がないと死んでしまうのでは?」
「水が無くても酒がある。せっかく酒を飲む正当な理由ができたのに、その話を知ってたら「なぜ、水を汲んでおかなかった」って、エミリアにグチグチ言われるだろうが。だから、この話は海に捨てて魚の餌にでもしろ」
リットはバランスを崩しながら酒樽を持ち上げると、砂浜から船首へと続く木板に足を掛けた。
坂になっている木板を、重い樽を持って上って行くのは、想像以上に足を重くさせた。
首筋に血管を浮かべるリットとは違い、テレスは涼しい顔をして酒樽を持っている。
「わかりました。では、ノーラとエミリアには嵐のことを教えておきます」
「そうしてくれ。それよりも……嵐は大丈夫だろうな……」
リットは廃船を見る。補強されており、強風で壊れるということはなさそうだが、波が荒れて砂浜が削り取られれば、滑り落ちて沈んでいきそうだ。
「絶壁に生えてる木々が廃船に根を張ってますから、ちょっとやそっとの風ではびくともしませんよ」
「ちょっとやそっとの風は、嵐とは言わねぇだろう……」
「船でも家でも、壊れる時は嵐に関係なく壊れるものです」
「違いねぇな。願わくば酔っ払ってる時に、海の藻屑になりてぇもんだ」
夜になり、名のない者を呼ぶような曖昧な風の音が強く吹きすさび始めた。
アリス達の酒盛りの声も聞こえなくなった深夜。静寂にヒビを入れるように、コツ……コツと間が空いた杖がつく音が響いていた。
杖の付く音の間には、濡れた布を引きずるような音が挟まれている。
「よう、今お帰りか」
リットは、暗がりの階段を降りてきたばかりのセイリンに声を掛けた。
「こんな暗いところで何をしている」
「一人、寂しさに泣いてるように見えるか? いちいち聞くなよ」
リットの部屋の前には酒樽が一つ。他の酒樽よりも一回り大きくて部屋に入れることができなかった。
リットはその酒樽の上に腰掛けて、酒臭い息を撒き散らしていた。
「飲み過ぎるのは構わないが、そろそろ来る嵐の間に飲むものがなくなるぞ」
「嵐のことはテレスから聞いた。ここにあるのは貯蔵庫に入りきらなかった分だ」
「そうか。あまり不用意に酒を増やすなよ。貯蔵庫が酒ばかりになる」
そう言ってセイリンが階段を二、三段下りた時、リットが不意に呼び止めた。
「なぁ、悩みを聞くだけ聞いてやるから、それくれよ」
リットはセイリンが片手に持っている網袋に目をやった。色々な貝が詰まっていて、網袋を歪な形に押し広げていた。
「女をあれこれ詮索するよりも、黙っていなくなる方が男としてはポイントが高いな」
「なら、黙って去ってやるからくれ」
セイリンは諦めたようにため息を吐くと、網袋から適当に貝を掴んでリットに投げた。
リットの手元に届いたのは二個で、残りは床に音を立てて落ちた。
「悪いな」
リットは貝を拾う為に酒樽から立ち上がると、ついでに栓を抜いてコップに酒を注いだ。
「悪いとは思ってないだろう」
「思ってるぞ。だからって気にするわけでもねぇけどな」
リットは貝を拾うと、部屋に戻るのではなく、階段を上って外に向かった。
手のひらで頬をなでられるような風が吹く中。波の音が耳にこびり付くようにこだまする砂浜まで、リットは歩いて行った。
流木を拾うと投げるようにして一箇所に集め、そこに火をつけたマッチを一本落とした。
流木に付着した海藻のせいか磯臭さが広がる。
火の中にセイリンにせびった貝を入れると、酒を一口、喉が熱くなるのを楽しむようにゆっくりと流し込んだ。
コップの中の酒が半分ほど無くなったところで、貝の中から耳をくすぐるような蒸発音と沸騰音の中間のくらいの音が聞こえ始めてきた。
熱さから逃れるように、弾力のある身が殻を押し上げる。焦らすように僅かな隙間が開くと、中に溜まっていたエキスが焚き火にこぼれ煙を上げた。
白煙には香ばしい強い磯の匂いが混ざっている。
リットが焼き貝の殻に溜まった溢れんばかりの汁をすすった時、船首の方角からこっちに影が伸びてくるのが見えた。
「火にあたりに来たのか?」
リットはチラリと見やっただけですぐに視線を手元に戻し、素手で熱そうに貝から身を剥がしながら言う。
「この位置の焚火の明かりは、ちょうど私の部屋の窓に当たるんだ」
セイリンは不機嫌を滲ませた声で言うが、リットには気にした様子がない。
「光に寄ってきたのか。魚なのにイカみてぇな奴だな」
リットはからかうように笑うと、貝の身を口の中に放り込んだ。
「リットのおかげで、疲れてるのに目が冴えてしまった」
セイリンは片膝を立てて尾びれをほっぽり出して座ると、焚き火の中から焼き上がり開いた貝を取り出した。
しばらく焚き火の音と波の音だけが響く。
「それで、悩める姉さんはハープの練習をしてきたのか?」
セイリンは貝を冷ましたのか、ため息なのかわからない息を吐く。
「悩みを聞くようないい男には見えないが?」
「ただの話題だ。恋人同士みてぇに、夜の海で無言の時間を楽しむような関係でもねぇだろ」
リットがコップに口をつけると、それをセイリンがひったくるように奪い飲み干した。
「……別に今更練習ということでもない。数曲弾いて帰ってきただけだ」
「なんだ。弾けるのか? それじゃ、あの『紙』は効果ねぇじゃねぇか」
「あるからバラ撒くな。……色々考えることはある。マーメイド・ハープを弾いて水を造形できれば人魚。できなければ人間。水を造形できない、人魚の尾びれを持った私は何者だ?」
てっきり濁して適当な話題を振ってくると思っていたが、意外にもセイリンは本音をこぼし始めた。
「さぁな」
「人魚よりも海で暮らしにくいし、人間より陸の上で暮らしにくい。陸と海がある船の上だけで、そのことを忘れられる」
「急に愚痴り出しやがって。焚き火の明かりが霞むくらい、陰鬱な空気が流れるじゃねぇか。なんだ、慰めて欲しいのか?」
「少しな」
そう言ってセイリンは食べ終えた貝殻を焚き火に投げ入れた。
「あれもできない、これもできない。消去法で自分を見出すからだろ。人魚より陸で暮らしやすい、人間より海で暮らしやすいでいいじゃねぇか。人魚、人間なんてのも、好きに使い分けて名乗れよ。オレだって、酔っぱらいでランプ屋で、今は海賊だ。望めば王子にだってなれる」
「……リットの方が、余程海賊らしい考え方をしているな。私と船長を変わるか?」
「バカ言え。これ以上名乗るもんを増やしたくねぇよ」
リットは立ち上がると、酒を取りに行った。




