カラスとセイレーン
家としていた場所がある、砦の街に戻ったのは二か月後のことだった。
「ウィル!」
「どういうことですか? セイレーン、いえ、イレーニャが海にさらわれたって」
「お前のせいだろうがっ!」
ウィルは、自分を王都から呼び寄せた男に、バーナードに出会いざまにぶん殴られた。体格も身長も何もかも違いすぎる彼からの本気の拳に、さすがに不意を突かれたウィルは何もできずにそれを受けて、そして、吹っ飛ばされる。
「バーナード! やりすぎだ!」
「うるせー、外野は黙ってろ」
固い革靴をがつがつとならして、石畳に倒れたままの相変わらずの黒づくめのウィルの胸ぐらをつかんで、ぐったりと顔を伏せているウィルの腹にもう一度こぶしを入れる。
「ぐ、がはっ」
息が詰まって意識を取り戻したウィルにさらに膝蹴りをと足を上げると、はじかれた。
「さすがに殺すのはよしてください」
口の端をいろいろで汚したウィルが手の甲でそれをぬぐって、自力で立ち上がる。
「鳥ちゃんはお前をずっと待ってたんだぞ」
「……」
怒り任せの声に、ウィルの表情がかすかに歪む。だが、それ以上の感情を見せることはなく、淡々とそうですかとつぶやいただけだった。
「そうですかじゃねえよ! 海にさらわれたって。決まってんだろ、……ディアナにさらわれたんだよ」
この町にはまことしやかに流れる伝説がある。
もともと、この町は、海を挟んで隣の国からの侵略から守る拠点の街だった。だから、魔法騎士が多く、そして、海兵も多い街で、そして、その妻たちもまた、住んでいる町だった。
「……」
戦争で死んだ夫に、悲嘆にくれた妻たちは、やがて、悲しみを拾ったディアナにさらわれる、と、悲しみと愛しみがあふれ出す月の日に女神がさらう、と、いう伝説がある。
「……月の明るい日に、胸騒ぎを感じてお前の家に行った。そしたら、鳥ちゃんは……」
月に手を伸ばして、淡い燐光を残して消えたそうだ。
「お前が、お前がいなくなったせいでっ」
「……」
胸ぐらをつかむバーナードの、万力のように強い力を甘んじて受けながら、ウィルは目を閉じた。
「憎しみのまま、殺しますか?」
ぽつりとつぶやいた言葉は、はっとするほど空虚だった。
「ウィル?」
「殺せばいいじゃないですか。……バーナード」
「ウィル殿、それはさすがに……」
「外野は黙っていてください。その腰に佩いた剣で、私の首を刎ねればいいでしょう? ディアナの手から取り返すには、それがいいと聞きましたが?」
そう、ディアナにさらわれた妻たちを取り返すには、悲しみの原因、つまりは夫を殺した仇を殺して海に捧げれば、還されるという、伝説もあった。それを言っているのだ。無表情で。
「……お前……」
「基、私の命に、意味があるなんて考えていません。今まで生きていたのは、……先祖の過ちを正すため。ほとんどそれを達成した私は、生ける屍も同然です」
「じゃあ、なんで鳥ちゃんのそばにいてやらなかったんだ!」
「あの子の自由のためです。私のそばなんて、災厄しかありませんから」
笑うこともなく、ただ、淡々とそういったウィルは、用はそれだけですね、とバーナードの手を外して、背を向けて、規則正しい足音を響かせて、召喚された砦を後にした。
「……くそ……」
崩れ落ちて、こぶしを石畳にたたきつけたバーナードに、同僚先輩含め、魔法騎士団は、慰めるように、その肩をたたいた。




