08. 意味はあったんだね
…倉庫前…
美浦「そうだったのか…あの女!
虫も殺さないような顔をして、
あんな恐ろしい事を!
なんてやつだ!こうなったら、
やられる前にやってやる!
あいつさえ、あいつさえ殺してしまえば…」
--ガタッ。美浦の背後で物音が聞こえる。
美浦「だ、誰だ!いや、わかっているぞ!
平良!いるんだろう!出てこい!」
--震えながら、拳銃を構えている美浦。
美浦「どこだ、一体どこに隠れて…がふっ」
--急に血を吐いて前のめりに倒れる美浦。
--背中には大きなナイフが突き刺さっている。
美浦「そ、そんな…おまえ…が…ま、まさか…」
--美浦、最後の足掻きであさっての方向に拳銃の引き金を引く。
--屋敷内に銃声が鳴り響く。
……………
蘭子と別れた沙夜は、最初に座っていた客席に戻って残りの競技を見ていた。さっきの蘭子とのことが思い起こされて何も考えられなかった沙夜の頭には、競技場でどんな競技が行われているのかも、どちらのチームが勝っているのかも、全く入ってこなかった。気づいたらいつのまにか体育祭のプログラムは閉会式の終盤まで進んでいて、沙夜が所属するBチームの代表者が優勝旗をもって競技場を退場するところだった。
周囲を見渡すと、夕日でオレンジに染まった客席には沙夜以外の生徒はほとんどいない。現在競技場で行われている閉会式には各クラスの代表者だけが参加しているので、それ以外の生徒はもう帰ってしまったらしい。生徒が主体となっているとはいえ、なんだか締りの無いイベントだな…。沙夜は無理矢理笑顔を作ると、自分も帰る事にした。
更衣室でジャージから制服に着替え、荷物を取りに2―Bの教室に向かった。校舎は静まり返っていて、競技場からうっすらと体育祭の終了を告げるアナウンスが聞こえる。生徒はもうほとんど残っていないようで、たまに廊下で教師とすれ違う事はあっても、自分の教室につくまでに他の生徒を見かける事はなかった。だから教室も当然無人だと沙夜が思いこんでいたのも、無理がないことだったのかもしれない。
力無く教室の引き戸を引いた先に1つの人影を見つけ、沙夜は驚いて飛び上がりそうになった。
「わ……ご、ごめぇん、誰もいないと思ったからぁ……あははぁー」
取り繕うようにわざとらしい笑いを浮かべながら自分の机に向かう途中で、沙夜はその人影が同じ演劇部のしとねだということに気付いた。
「あれ、なぁんだ!美浦ちゃん!今日はお疲れ様ー…………て、え…泣いてるの…?」
ジャージのままのしとねは、教室の真ん中で立ち尽くしていた。いつもの凛とした気丈さはない。だいぶ泣きはらしたように目は真っ赤になっているのに、まだ涙がにじみ出ている。沙夜はただならぬ事態を感じ、自分が落ち込んでいた気持ちをひとまずかき消して、しとねを近くの席に座らせた。
「な、何があったの……その、わたしでよければ…」
沙夜が差し出したハンカチで涙をぬぐったしとねは、大きく深呼吸をしていつものように男前の笑顔をつくる。
「…ごめん。変なところを見せちゃったね。僕なら大丈夫だから」
「え、っとぉ、そそそ、その、話したくなければ別にいいんだけど…、いったいどぉして…」
言葉とは裏腹に、しとねの笑顔にはまだ陰があった。だが、滑稽なほど挙動不審になってまで自分を心配している沙夜を見て、しとねはクスリと笑い、徐々に気分を落ち着けたようだった。
「沙夜ちゃんにはさ……無理だってわかっていても諦めきれないことって…あるかな?」
「…え…?それって、どういう…?」
悲しそうに笑うしとねの真意が分からない沙夜。それは、いつもの自信家のしとねからは考えられないような、弱気な言い方だった。
「僕にはあるんだよ…、諦めなきゃいけないのに自分じゃあどうにもできないこと。忘れることも、切り捨てる事もできないような思いが…。いや、本当のところ僕の中にあるのは、その『どうにもできない思い』だけだって言ってもいい…」
虚空を見ていたしとねが、沙夜の方を向く。
「沙夜ちゃんは、僕のこと…どう思う?」
いつもなら、しとねに見つめられると思わず赤面してしまう沙夜だが、今のしとねからは痛々しさしか感じない。あえて明るく振舞う沙夜。
「美浦ちゃんのことぉ?そ、それは、いつもみんなからモテモテだし、脚なんてモデルみたいにすらっとしてて、ほんとかっこいいし、憧れちゃう!わたしなんかとは全然違って…」
「かっこいい…か…。好きとは、言ってくれないよね」
しとねは目線を落として、悲しそうにつぶやく。沙夜は慌ててフォローする。
「えっ!?もちろん好きだよ!?だって、美浦ちゃん、わたしなんかじゃなくって、もっといろんな子から好かれてるから、わたしなんかが好きなんておこがましいって言うか!っていうか好きって言ってももちろん変な意味じゃないよ!勘違いしないでね!わたしそっち系じゃないから……」
「じゃあ僕が男だったら、付き合ってくれるかい?…僕を恋人にしてくれるかい?」
しとねは、いつも冗談でするように優しく沙夜のあごに手を添える。しとねが椅子に座っていて、沙夜が立っているので、いつもとは上下関係が逆になっていた。ただ、沙夜は気づいてしまった。沙夜のあごに触れているしとねの手が、小さく震えていることに。
二人の唇が徐々に近づく。沙夜はのけぞり、慌てて回避する。
「えっ、とっ、美浦ちゃんはカッコイイしすごい魅力的だけど!そ、その、わたし、まだそんな恋人とか、そういうのまだ早いって言うか、その、男の子とか、…まだ…興味ないって言うか……、てか、美浦ちゃんは、ほら、女の子だから、そんな男の子だったらとか、そんな…」
「…じゃあ、僕が女だったら、付き合ってくれるかい?……私が可愛らしい女の子だったら…」
沙夜から離した手を自分の胸にあて、しとねはうつむく。その弱々しく可憐な様子は、沙夜が初めてみる女の子らしいしとねの姿だった。沙夜は思わずドキッとして顔が赤くなる。
「嘘だよ。そんなことある訳無いよね…」
「や、ややや!美浦ちゃんは可愛い女の子だよ!なななんでそんな事いうのっ!わたしっ!美浦ちゃんみたいな女の子すごい可愛いと思うよ!すらっとして!しゅっとして!かっこよくて!スタイルよくって!誰だって美浦ちゃんの事好きになっちゃうと思うなー!あ、わ、わたしは女だから、もちろん変な意味じゃなくて、友達としての好きなんだけど!」
一人でテンション高く身振り手振りを加えて力説する沙夜。静かな教室内に沙夜の声だけが響いている。
「ふふ、沙夜ちゃんは可愛いね。僕は沙夜ちゃんがうらやましいよ…」
その一瞬、沙夜はしとねが消えてしまったかと思った。それだけその時のしとねは存在感が希薄で、生気が感じられなかった。
「そぉんな!わたしこそ美浦ちゃんうらやましぃーよー!すっごいファンのみんなから愛されてるし、みんなの憧れだもん。今日なんか美浦ちゃんが活躍するたびにキャー!って悲鳴が上がってたもんね!みんな美浦ちゃんが大好きなんだよー、みんな美浦ちゃんみたいになりたーいって思ってるんだよー!?わたしも1日でいいから美浦ちゃんになってみたい…」
「それは違うよ」
声は小さいが、はき捨てるように言ったしとねの言葉は、沙夜の胸の奥をチクッとさした。
沙夜は一瞬小さな目眩がして、教室の机にもたれかかる。机がずれる無遠慮な音が響く。
「ファンがどれだけいたって、そんなのは結局他人さ…。憧れだ、住む世界が違う、なんて言って、同じ人間としては扱ってくれない。どれだけ近づいたって、どれだけ体を重ねたって、結局、僕はあの子達のアクセサリーでしかないんだよ。憧れる対象として祀り上げられている限り、一生同じステージには立てないんだ…」
沙夜は激しく後悔した。自分が何も考えていなかった事を。自分がどれだけ愚かだったかという事を。
「そしてアクセサリーはいつか飽きられる。そうしたら簡単に、なんの躊躇もなく、捨てられるんだ。あの子達には、その時の僕がどんな気持ちかなんて、それどころか、僕が自分と同じように心を持っている、ってことすらあの子達には想像できないんだ…。そうなんだ…。みんな僕の事を、何の悩みも無い、誰もが憧れるヒーローって思ってる…。でも、それって結局モンスター扱いと同じじゃないか…」
沙夜も同じだった。自分とは別の世界の人間であると、しとねを特別扱いし、彼女が本当はどんなことを考え、どんな悩みがある人間であるかなんて、考えもしなかった。しとねが完全無欠の王子様ではなく、自分と同じように傷つき、迷う人間であるということを、想像もしなかった。そんなしとねの気持ちを知りもしないで、憧れる、しとねになりたい、だなんて…。軽々しくそんなことを言われたしとねがどれだけ傷ついただろう。そのつらさを自分が知らないはずがないのに…。
わたしにだってあった…。積み重ねてきた思い出も、自分の気持ちも、全部無かった事にされたこと…。つらかった、悲しかった…。あれと同じ事を…、わたしも美浦ちゃんにしちゃってたんだ……。
「…僕はさ…そんなに強くないよ…。『君なら1人でもやっていける』?…ばかみたい……そんな人間は存在しないよ…」
もうやめて…。わたしは今ここにいていい人間じゃない…。あなたを慰めるような、あなたに心をゆるしてもらえるような、そんな資格はない…。
沙夜は、今すぐ教室から逃げ出したい気分になった。
ぐったりとうつむいたしとねは、それきり何も言わなくなってしまった。沙夜も同じようにうつむいている。教室をまた静寂が包む。
沙夜は、沈黙に耐えられないように、ぽつぽつとつぶやいた。そのときの沙夜は、なぜ自分がそれをしとねに言ったのか良く分からなかった。ただ、自分がどれだけ浅ましい人間なのか、自分がしとねに心を打ち明けてもらえるような人間でないことを知ってほしかったのかもしれなかった。
「美浦ちゃん…、さっきさ、…言ってたよね?どうにもできないことが、あるかって…。わたし、あるよ。…あったよ。昔、この学校に来る前に…」
それは、沙夜が封印してきた記憶。もう一生思い出す事はないと心に鍵をかけ、もうあんな間違いを犯す事はないと固く誓った事。
「…前の学校で、わたし、仲のいい友達がいて…」
「…たまたま、その子と2人きりになったときに、わたし…」
「…その日から…ずっと…」
「…しょうがないよね。その子のこと、最初に傷つけたのはわたしだから…」
壊れたテープレコーダーのような、途切れ途切れで、無感情な沙夜の声。しとねは顔をあげて真剣な表情で沙夜をみた。
「…わたし、本当はどうにもできない事を、どうあがいてもどうにもならないってわかってた事を、どうにかしようとしちゃった…。間違えちゃったんだ…。それで、結局…、相手を傷つけて、何も変えられなかった…。きっと意味ないんだよね、そんなの…。だったら…、最初から全部自分の中にしまっておいたほうが…」
「すごいな…」
まっすぐ沙夜を見ているしとねは、息を漏らすようにつぶやいた。目からは一筋涙が流れた。
「沙夜ちゃんはあるんだね…?可能性が無くっても…諦めなかった事が…。それで、そんな風になったのに、いつも笑ってたんだね…。すごいな…」
沙夜は力なく首を振る。
「すごくなんか、ないよ…。ただ、その時のわたしは自分勝手過ぎただけ。…相手の迷惑を考えるような余裕がなかっただけ。ホントは、わたしが我慢すれば、それで誰も傷つかなくってすんだのに…」
思い出したくない事を思い出してしまった沙夜は、目頭が熱くなってくるのを感じた。
泣かない…。泣きたくない…。もう、『この事』で涙を流すのは止めたんだから…!涙腺は今にも決壊しそうになる。沙夜はそんな自分が許せない。
「でも、自分の望む世界が、その『どうにもできないこと』の向こう側にしかないんだとしたら…それでもぶつかっていくしかないのかもしれないよね…」
しとねは立ち上がって、必死に泣くのを我慢していた沙夜を抱き寄せた。うつむいていた沙夜の顔が、しとねの胸に埋もれる。それがきっかけだった。
沙夜は泣き出した。体の水分を全て搾り出すかのようにぼろぼろと泣いた。しとねの胸の隙間から、くぐもった沙夜の声が漏れる。
ゴメンナサイ………。
……ゴメンナサイ。クヤシイ。バカヤロウ。ゴメンナサイ。サヨウナラ。モウシナイカラ。ワスレテ。ゴメンナサイ。ドウシテ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。ゴメンナサイ。…だいすき……だった…よ。
沙夜が少し落ち着いたところで、しとねは沙夜を抱いたままつぶやいた。
「僕は沙夜ちゃんに謝らなければいけない…。僕は沙夜ちゃんの事を、他のやつらと同じ…僕の気持ちなんて、他人の気持ちなんて分からない、薄っぺらな人間だと思っていたよ…」
「…ぞ、ぞんな、わたし…。その通り、だよ。美浦ちゃんの事…わたし…」
「ううん。沙夜ちゃんはそんなこと無い。沙夜ちゃんは、自分が一番傷ついたのに、…いや、傷ついたからこそ、他の人が同じように傷つく事を想像できる人だよ。誰かが傷つく事を想像できるからこそ、そんなに強く後悔しているんだよ」
「わ、わた、し、そんなんじゃない…。余計な事して…ただ自分勝手なだけで……。ごめんなさい……わたし、美浦ちゃんのこと、…何も、分かってなかった…。美浦ちゃん……ごめんなざい。ごめん、なさい…」
「沙夜ちゃんは意味が無いって言ったけどさ。そんなこと無かったね…意味はあったんだね…。だって、…」
言葉を切ったしとね。沙夜はゆっくりと顔を上げる。
「だって…沙夜ちゃんは私の気持ち分かってくれたでしょ?私が悲しんでること想像して、一緒に悲しんでくれたでしょ?それ…、すごいうれしかったよ」
最高に可愛らしくはにかむしとね。沙夜はまたしとねにもたれ掛かって、声をあげて泣いた。
「よしよし、王子様は泣いている女の子の味方だよ。今だけは、この胸は君のものだ」
もうしとねはいつもの調子に戻っていた。
結局、沙夜が落ち着くにはそれから30分くらいを必要とした。あたりはもう真っ暗で、帰り道が危険ということで沙夜はしとねに寮まで送ってもらう事になった。
正門で待っているように言われた沙夜は、そのうち蘭子と同じように執事の人が迎えに来るのかと車道を見渡していた。しかしいきなり自分の後ろに現れた、アメリカンスタイルの大きなバイクにまたがるしとねを見て腰を抜かしてしまった。
白い車体のバイクにまたがったまま、しとねは沙夜にヘルメットを手渡す。
「白馬の王子様ってわけ。沙夜ちゃんはラッキーだね。このタンデムシートはいつもなら3ヶ月待ちだよ?」
しとねのバイクは完全に風となって軽快に闇を切り裂いたので、寮に到着するまでの時間は沙夜にはほとんど一瞬に思えた。寮の玄関先で沙夜がシートから下りると、しとねはバイクのエンジンを切る。
「そういえば、沙夜ちゃんにはまだちゃんと謝ってなかったよね?ごめん。失礼をしたね」
「え、何のこと?」
「ほら、さっき教室でさ、沙夜ちゃんのことを誤解していた、って」
沙夜は首を傾げる。
「えー…?あ、わたしがファンの子と同じだと思ってたってやつ?いやいや、そんなの全然誤解じゃないから!てかそれじゃファンの子に失礼だよー!」
「いや、というかね、ファンの子と同じように思ってたから…だからわざと弱気なところを見せたんだよ。それはやっぱり悪かったよね」
沙夜はいまいち意味が良く分からない。
「いつも強気なやつが自分だけに見せる弱気な一面って、女の子は大好物でしょ?…丁度良いタイミングで沙夜ちゃんがきてくれたからさ、弱気な一面を見せて、ちょっと慰めてもらおうかと思ってさ」
しとねは、ふふといたずらっぽく笑う。
「そりゃ…美浦ちゃんが落ち込んでたら慰めるくらい…」
「いや、慰めるって言っても言葉的な意味じゃなくって、もっと肉体的な…、まあそんな事をしたって、僕は沙夜ちゃんのアクセサリーにしかなれなかっただろうけどさ。どれだけ近づいても…どれだけ、体を重ねても…ね」
「えっ!?あーー!」
しとねがなめ回すように沙夜の体を眺める。沙夜は顔を真っ赤にして、両腕で体を隠した。
「ななな何言ってんのー!ばかー」
しとねはちょっと照れくさそうに笑いながら続ける。
「沙夜ちゃん…君はもっと自分に正直になっていいと思うよ。後悔するのは君の優しさだけど、後悔し過ぎて身動きとれなくなるのはもったいないよ…君みたいな優しい子なら、失敗は間違いとイコールにならない。無意味なことじゃないんだよ」しとねはバイクのエンジンをかける。「…私も、前に進まなきゃね」
エンジン音にかき消されて、沙夜には最後のしとねの台詞が聞こえなかった。
「えっ?なにー?!」
「沙夜ちゃんは『恋人』のカードで、真っ先に『彼女』のことを選んだね!本当は悔しいけど、僕は2人を応援するよ!」
「ちちち、ちがうの!あれはそういう変な意味じゃなくって…」
沙夜が言い訳をいい終わらないうちに、一瞬にして風となったしとねは、闇の中に消えていった。残された沙夜は、しとねに言われた言葉の余韻をかみしめながら、寮の玄関先で立ち尽くしていた。




