01. 勘違いしちゃうでしょーがぁ!
日曜の朝。学園の敷地内にある私鉄の駅から3駅ほど離れると、電気店や百貨店、映画館といった商業施設が隣接する比較的大きな駅がある。ビクトリア様式のヨーロッパの宮殿のような駅舎に、近代的なガラス張りのファサードが組み合わさった洒落たデザイン。その駅のロータリーの、幾何学形の金属のオブジェがある噴水の前に沙夜は立っていた。
休日という事もあって、さっきからたくさんの人たちが沙夜の前を通りすぎていく。それはお嬢様方の姿を見慣れてしまった沙夜にとって、久しぶりの一般人、いわゆる庶民の姿だった。この駅を沙夜の学園の生徒が利用する事はほとんど無い。お嬢様やその家の人間は、自家用車、そうでなければ自家用のヘリを常用していたので、電車に乗る習慣がなかったからだ。そもそも駅とか電車というシステム自体理解していないお嬢様もいるらしいと知らされたときは、沙夜は自分との住む世界の違いに恐怖したものだった。今の沙夜は、自分とたいして変わらないだろう人々の姿を見て心が休まるのを感じていた。
一般的にはまだまだ残暑に苦しまされる9月の初旬だが、このあたりは標高も高く、自然にも囲まれているので過ごしやすい気温だ。だが、電車代をケチって学園の寮からここまで自転車でやってきた貧乏症の沙夜の体は、少し汗ばんでいた。
臭うかな…。さっきから沙代は何度も自分の体の臭いを嗅ぎ、今日のためにネットで注文したちょっと高いコロンの臭いしかしないことを確認しては、安心して笑顔になる。もし周りでそんな沙夜を見ている人間がいたら、おかしな趣味の女だと顔をしかめたことだろう。
『彼女』はリムジンで来るのだろうか…それともヘリコ…と空をみるが、空には爽やかな秋晴れが広がっているだけだった。
はぁー、とわざとらしくため息をついてから、沙夜は少し笑う。そんなポーズを作ってみただけで、別に嫌な訳ではない。むしろ沙夜の心は、今日の空のように晴れやかだった。駅のバス停に一台のバスが停車する。バスから出て来た少女が、沙夜の近くで退屈そうに携帯をいじっていた青年のもとに駆け寄る。「ごめーん、待たせちゃったー?」「いや全然。僕も来たばっかりだよ」そんなことを言って2人は駅ビルの中に消えていった。いやいやいや、お前結構待ってただろ、と沙夜は心の中で嫌味を言う。オールドファッションな常套句を抜きにしても、沙夜はカップルを見ると軽い殺意を覚えるのだった。
しばらくして、ロータリーに一台の車が乗り付け、『彼女』、鳳蘭子が現れた。沙夜が思ったとおり蘭子は待ち合わせ場所に自動車で現れたわけだが、その彼女が乗ってきたのは何故か何の変哲も無いタクシーだった。「ご苦労様」と言って笑顔で手を振って、蘭子はタクシーを見送る。怪訝な顔をした運転手を乗せて、タクシーはロータリーを走り去っていった。
蘭子は、リボンがついた白いブラウスにブルーのスカート。見るからに上質な仕立てで、きっとオーダーメイドなのだろう。おしとやかな異国王室の令嬢といった雰囲気で、日傘を持たせて花畑にでも立たせたくなる。
自分が持っている中で一番大人っぽくて、何より有名ブランドで値段が高かったグレーのチュニックに黒のタイツを合わせている沙夜も、蘭子の隣に立つと安っぽいパジャマでも着ているようだ。沙夜は自分が彼女と全然つりあってないと感じ、今度は本当のため息を吐いた。
「待ちましたかしら?」
「えっ?なんでタクシーなの?釈さんは?」
蘭子は手のひらを上品に鼻に当てる。
「狭さはともかくとして、においは何とかならないのかしら?あのタクシーという乗り物は、どれもあのようなくたびれた臭いがするものですの?」
蘭子は話を聞かずに、いつもの調子でお嬢様感を前面に押し出してくる。
いや、そんなこと聞かれても、普通の女子高生はタクシーなんて乗らないからわかんないよ…そりゃ、あの学園の生徒ならお金持ってるから、しょっちゅうタクシーくらい乗るのかもしれないけど……って。
「いやいやいや、乗んないでしょタクシー!蘭子専用の車があるでしょーが!」
「ええ、もちろんですわよ。今度ワタクシの家にいらしてね?2シーターのオープンカーでうちのお庭をドライブして差し上げますわ」
すっとぼけたことを言う蘭子に、沙夜はいらいらしてくる。
「ああ、タクシーのことですの?」そんなことか、という風になんでもない様子の蘭子。「だってそれはそうでしょう。ご存知かしら?デートと言うものは2人きりでするものですのよ?釈さんはそんな方ではありませんけれど、万が一にうちの者がついてきたりしたら、せっかくの2人の初デートが台無しじゃありませんこと?」
『デート』と言う言葉に沙夜は顔を赤くする。この人はまたそういう誤解を招くことを…。
台本が勝手に書き換えられるという事件は割とすんなり受け入れられ、結局、沙夜も役者の1人として文化祭に参加する事になってしまった。演技未経験の沙夜としては断固として反対したいところだったのだが、『蘭子をMVPに!』とまで言っておいて、『自分はちょっと…』などとはいえそうに無い雰囲気だったのだ。自業自得、という言葉の重みを身をもって思い知らされた沙夜だった。
それから数日にわたって新台本で読み合わせを行い、沙夜もなんとなく劇のイメージ、メイド役のイメージが掴めてきたが、演技力については一朝一夕で何とかなるものでもない。練習内容が、台本を読んでイメージを掴むだけの読み合わせから、身振り手振りを加えた立ち稽古に移ると、沙夜は他の部員との実力の違いをこれでもかというほど思い知らされた。まだ現時点では台本を暗記する必要は無いだけ救いだったが、それでも沙夜は他の部員たちの足を引っ張ってしまっていることを気に病まずにはいられなかった。
だが、沙夜の心配事はもう1つあった。むしろ自分だけではどうにもならないという点で、そのもう1つの心配事の方が沙夜にとってはずっと重い悩みだった。
初心者という点では沙夜の方が明らかに上なのだが、部長である衿花は執拗に、まるで親の仇にでも対するかのように蘭子の演技を注意し、指摘し、否定して、責め立てた。「鳳様、只今の御表情は何で御座いますか?このシーン様の御内容を御理解頂けておりますでしょうか?台詞様が無いからと御気を抜かれずに居て下さいませ」、「鳳様、全く御滑舌が宜しく御座いません。屋上様に出て御発声練習をして来て頂けますか?」、「鳳様、本日から毎日御自宅に御帰りになりましたら、台本様を御声を出して何度も御読み下さい。100回もされましたなら、其の様に台詞様を御噛み頂く事も少なくなると思いますが?」…。
蘭子の方はといえば、「…よくってよ」、「…容易い事ですわ」と、痛々しいくらいに無理矢理高飛車を気取ってはいたが、沙夜にはどんどん彼女の元気が無くなっていくように見えた。心配しすぎと言われればそうなのかもしれないが、その原因が沙夜が勢いで言った『MVP』という言葉にあるのかもと思うと、沙夜は責任を感じずにはいられなかった。
そんなことがあったから、少しでも蘭子を励ましてあげたいという気持ちで沙夜は蘭子を映画に誘ったのだった。
「だって、仲良しの2人が一緒に出かけることをデート、と言うのでしょう?ワタクシたち、とっても仲良しですものね?」
「いやそれはそうなんだけど!普通は男女っていうか、恋愛感情がある2人がね…」
日本語を知らない蘭子は、沙夜の言っている意味が分からないという風に首をかしげている。このままだとこの前みたいなことがおきる…。蘭子がみんなの前でまた変なことを言い出して、学園内におかしな噂が立ったりしないように、沙夜は覚悟を決めてこの機会にしっかり教えておく事にした。気分はお嬢様専属の家庭教師だ。
「…いいですか蘭子さん。デートと言うものはですね、普通友達同士の時には言わないんざますよ」
「親友の場合でもそうですの?」
「親友の場合でも、です!」
実際にはもう少し広義のデートもあるだろうが、微妙なニュアンスを伝えきる自信が無かった沙夜は、力強く言い切った。こうやって少し強引にでも押し切ることで、『愛人』という言葉についてはなんとか教え込む事ができていた。
「あら、そうなんですの?」
「そうなんです!」
「それでは、ワタクシ、騙されていたのかしら…もう!」
執事の誰かに教えてもらっていたのだろうか、蘭子は自分のデートの解釈が間違っていたと知らされ、両手を腰に当てて憤慨した。
「デートをするお相手、というのはですね…」調子に乗ってきた沙夜は腕を大きく広げ、身振り手振りを交えて、芝居がかった口調になる。「友達より、親友より、もっと、もーっと親しくて、愛おしくて、大好きで…一緒に居るとどきどきして…会わないときでもいつも相手のこと考えちゃって…でもやっぱり会いたくて……相手のことなら何でも許せちゃって…何でも知りたくて…自分のことも全部知ってほしくて…」目を大きく開き、急に蘭子に顔を近づける。
「そおゆう相手なんですよぉ!」
沙夜は、夢見る少女のように瞳をきらきらと輝かせる。
「そ、そうなんですの…」
蘭子はいきなりテンションを上げた沙夜の様子に若干引いている。2人の周囲には、駅を利用する人がたくさん往来しており、その内の何人かは噴水の前で騒いでいる2人の方をちらちらと見ている。さすがに沙夜も少し冷静になる。
「こ、こほん……ということで、わかって頂けましたね?今回のわたしたちの場合はぁ…デートとは言わ…な…?な…?」
声には出さずに、『ない』という言葉を口で作って蘭子を誘導する沙夜。蘭子はいまいち納得いっていない顔をしている。
「でも、それってやっぱりワタクシたちのことじゃないかしら…?ワタクシ、沙夜のこと何も知りませんもの、もっと知りたいと思っていますわ。もちろんワタクシのことも知ってほしいですし…。それにただの友人なんかよりとっても愛しく思ってますわ…。もう最近じゃあ1人のときはずっと沙夜の事ばかり考えていますし…」
「な、な、な…!」
だ、だからそういうこと言うと勘違いしちゃうでしょーがぁ!強烈な反撃を食らって、沙夜はたじたじになる。
ってか蘭子って本当にそっち系…?もしかして勘違いじゃ、ないんじゃあ…。
「じゃ、じゃあ、じゃああ!…キス!」沙夜はもう周囲に構う余裕もなく、蘭子に詰め寄って言った。「デートの最後に、2人は必ずキスするんだよ!蘭子はわたしとキスしたいの!?したくないでしょ?だからこれはデートじゃ…」
もう家庭教師でもなんでもない。乱暴すぎる暴論を振りかざす沙夜。蘭子は、ぽっ、と顔を赤らめた。
「…そういう事はワタクシ、あまり得意ではないのですけれど…そういう決まりなのでしたら…その、仕様がありませんわね…」
上目遣いで微笑む蘭子。沙夜は、蘭子のつやつやとしたピンク色の唇を思わず凝視して、ごくり、とつばを飲み込む。そしてそんな自分にどうしようもなく呆れて、気の迷いを振り払うかのように叫んだ。
「も、もぉう!、もうなんでもいいから!っと、とにかく今日のはデートじゃないの!ただの友達同士の遊びなの!わかった!?」
なぜそんなにその言葉にこだわるのかわからない、と言う様子だったが、「…わかりましたわ」と蘭子はしぶしぶ了解してくれたようだった。結局何も教える事など出来なかったが、蘭子のさっきの言葉のせいでおかしな想像が止まらなくなっていた沙夜には、それ以上家庭教師を続けることなど出来なかった。
「さあ、沙夜。いつまでもこんなところにいても何も始まりませんし、そろそろ行きましょうか?」
蘭子は急に思い立ったようにそう言って、まだ興奮冷めやらぬ沙夜の手をとる。しかも、自分の指をしっかりと沙夜の指に絡みあわせてくる。
「あわわわああ…」
ぎゃーー!こいつ絶対そっち系だよぉー!沙夜は血液が沸騰するような感覚におそわれ、今にも意識が遠のきそうになる。そんな彼女に、蘭子がにっこりと笑顔を向けた。
「な、なに!?」思わず身構えてしまう沙夜。心臓がドキドキと音を立てて高鳴る。
「そういえばワタクシ、沙夜に言ってもらいましたかしら?ワタクシが『待ちましたかしら?』と聞いた後、『今来たところよ』って、言っていただきましたかしら?」
は…?
「だってそれが、待ち合わせのときの決まり文句なのでしょう?」
ああ忘れてた…この人はそっち系じゃなくって、ただのド天然だった…。沙夜の極限まで高まったドキドキは、急激に醒めていった。




