ケルシュの英雄
ケルシュは大きく息を吸うと、カナリアに見せつけるようにゆっくりと上品に唇で弧を描いた。
「まぁ、私と違って殿方無しに生きていけない方はやっぱり違うのね。他人の恋事の多くを語るなんて、よほどご経験豊富なのでしょう。」
カナリアに負けず劣らず、心底楽しそうに声を上げたケルシュ。
直前の黙って俯いていた様子とは一転、彼女が見せた自信に満ち溢れ狂気じみた笑顔に場が一気に凍りつく。
「貴女、何を言ってるのか分かっていて?キリージュ家に対して喧嘩を売ったも同然よ。こんな非礼許されるはずがないわ。今すぐ発言を撤回して謝罪なさいっ!」
言葉の勢いに任せて一歩前に出たカナリアは音を立てて床を踏み締め、つりあがった目で睨みつけながら金切り声で言い返した。
こめかみには青筋が立ち、今にも頭の血管がブチ切れそうである。
あまりの怒りように周囲の者たちが顔色を悪くして後ずさる中、ケルシュは一切怖れることなく目を細めて更に笑みを深めた。
「まあまあ。そんなに怒ると貴女の内面が隣の殿方にバレてしまうわよ?後悔するからもうやめておいた方が良いわ。まぁ、こんな醜態を晒した後ではもう遅いでしょうけど。」
「ひっ、人のことを馬鹿にするのも大概にっ…」
カナリアは手にしていたグラスを振り上げ、中身を飛び散らせながらケルシュに向かって振り下ろしてきた。
「おい、待て。」
だが、彼女の手は隣にいた男に取られてしまい投げつけるには至らなかった。
ダイテンに贈ってもらったドレスを汚さずに済み、ケルシュは顔色を変えずに内心安堵の息を吐く。
男は掴んだカナリアの手を自らの背に隠すように引っ張りこんだ。
「女のくせにしゃばるな。まったく、みっともない。」
カナリアのことを責めるような低い声に、今し方自分のしたことを理解したカナリアは途端に冷静になり、顔からさっと血の気が引いていく。
感情のまま醜態を晒してしまったことをひどく後悔し、身体の内側から吐き気が込み上げてくる。カナリアは、顔色を悪くしたまま大人しく男の背中に身を隠した。
「おいお前、気まぐれでダイテン様から目をかけられたからといって調子に乗るなよ。…ああそうか。」
カナリアに代わりケルシュと対峙した男は、一切引かないケルシュを見て楽しそうに目を細めた。
「少し痛い目を見ないと分からないか。」
男は近くにあったテーブルから銀のナイフを手に取ると、わざとらしく空を切り付けるような素振りを見せた。
きらりと光る刃にケルシュが息を呑む。
「…そんなことをしてただで済むと思ってるの?すぐにバレて捕まるわ。ダイテン様に家ごと潰されるわよ。」
声が震えてしまわないよう、ケルシュは足に力を入れ意識して腹の底から声を出した。
ダイテンのために、自分のために、精一杯の虚勢を張る。
内心では、こんなに大勢の前で手荒なことはしないだろうという打算もあった。
口だけの脅しに負けてたまるものかと拳を強く握りしめた。
「何を勘違いしてる?ここはキリージュ家の邸内だぞ?誰が喋るんだ?誰一人として証言しなければ、お前一人の話など誰が信じるか。なぁ、お前ら?」
男は凄みを効かせてやらしく周囲をゆっくりと見渡した。
皆恐怖に怯えた表情をしており、誰一人として言い返すものはいなかった。
最後にケルシュのことを見てきた男だったが、彼女は怯まずにその目を正面から捉えた。
「ダイテン様は信じてくれるわ。」
「その目、気に入らねぇな…」
動じることなく真っ直ぐに見返してくるケルシュに、男はあからさまに殺気立ってきた。
イライラと足を踏み鳴らし、手の爪を甘噛みしている。
「そうだ。」
男はぴたりと動きを止めると、ケルシュに対してニヤリと品のない笑みを向けてくる。
「お前にチャンスをやろう。今この場でダイテンとの婚約破棄を宣言すれば一切傷つけずに解放してやる。ここにいる全員が証人だ。出来なければ…」
ナイフを持つ手首を返し、わざとらしくケルシュに刃を見せつけてくる。
「…嫌よ。」
「これでもまだ同じことを言えるのか?」
一貫して断固拒否の姿勢を見せるケルシュに、男は距離を詰めると直接彼女の首筋に刃を当ててきた。
「…っ」
ひんやりと冷たい感触が肌から伝わる。
ケルシュの額には緊張と恐怖で汗が滲む。同じように手荒なことはしないだようと思っていた周囲の人間達にも緊張が走る。
「…ない。」
「はぁ?」
「言わない。」
二度目のケルシュの声は近くにいる者たちにもはっきりと聞き取れた。
予想外の答えに男は目を見開き、大広間全体にプレッシャーを感じるほどの緊張が走る。
「私はダイテン・アルシュベルテ辺境伯の妻になるのよ。それ以外の何者でもないわ。私は彼の妻として生きることを決めたの。誰よりも私のことを想ってくれる彼のために。」
静まり返った部屋の中、震えを知らないケルシュの声は堂々と響き渡った。
一言一句誤り無くこの場にいる全員の耳へと届く。
「貴様っ!!調子に乗りやがっ…ぐはっ!!!」
激昂した男は全てを言い終える前に呻き声と共に床に両膝をついた。
「え」
気付いた時にはケルシュの視界は闇に閉ざされ、首元にあった冷たい感触は取り払われていた。
視覚を奪われたせいで何が起きているか全く分からなかったが、自分の側にいる人間が敵でないことは分かった。
「んーんーんーっ!!!」
閉ざされた口で何やら叫ぶ声が聞こえたが、それは次期に小さくなりやがて一切聞こえなくなった。
いつの間にか聞こえていたざわめきもなくなり、辺りは静寂に包まれた。
「遅くなり大変申し訳ございません。ご不便をおかけ致しました。」
ひどく申し訳なさそうな声音の後、ようやく視界を覆っていた手が外された。
ケルシュの目元を覆っていた人物はアルシュベルテ家の邸で見たことのある使用人であった。
彼女はここキリージュ家の使用人達と同じ制服を着用している。
そして、謝罪の声の主は以前トーレン家に迎えに来た時に顔を合わせた護衛騎士の内の一人であった。彼も先程の女性と同じような服装をしている。
「え、貴方達は確かアルシュベルテ家の…でもその格好…どういうことなの??」
瞳をぱちくりさせるケルシュ。
徐々に光に慣れてきた目でぐるりと周囲を見渡す。招待客のいなくなった大広間にはまだ10名以上の使用人が残っていた。
一瞬身構えたが、すぐにこれまでとは雰囲気が異なることに気付く。
彼らは姿勢を正すと皆一斉にケルシュに向かって深く頭を下げた。
「申し遅れました。私はダイテン様の私兵騎士団団長のケヴィン・カールスロです。主の命によりケルシュ様をお守りするため邸への潜入を行っていました。ただその…命の危険が無い限り姿を現すなと申しつかっておりまして…それで怖い思いをさせてしまいました。本来であれば、暴言の後すぐ女を締め上げるはずが…」
込み上げてきた怒りで護衛騎士のケヴィンは顔を赤くしている。
何かを破壊したくて震える手を握りしめ必死に怒りを抑え込んでいる。相当腑が煮えくり返っていたらしい。
「そんなことないわ。貴方達がいなければ怪我をしていたに違いないもの。守ってくれてどうもありがとう。きっと分家ということもあって、表沙汰にはしたくなかったのでしょうね…ダイテン様には迷惑を掛けてしまったわ…」
「そのようなことはございません。」
「お気遣いは嬉しいけれど、でも…」
あからさまに肩を落とすケルシュに、ケヴィンは大袈裟なほどに大きく首を横に振って見せた。
「それは、ダイテン様が他の者にいい格好をさせたくなかっただけです。『いいか、お前達は空気だ。男らしい振る舞いは慎め。彼女の英雄は俺一人だけだ、余計なことするなよ。』なんてことを再三言われましたから。はっはっはっ。」
「は…………」
「小春日和ですな!」などと言いながらひとり快活に笑うケヴィンとは対照的に、ケルシュは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
他の者達は笑うに笑えず、皆一様に足元を見て唇を噛み締め空気と化している。
やがて彼の言葉の意味を真に理解したケルシュは恥ずかしさと痛ましさとダイテンに対する怒りに耐えきれず、顔を真っ赤にしてわなわなと震えていたのだった。




