ブラックダイヤモンド
秋が深まり冬の寒さを感じるようになってきた日の早朝、ケルシュは婚約祝いという名目で招待を受けていたキリージュ伯爵家の茶会に参加するため、支度に追われていた。
朝日が昇ると同時に、ベッドに潜り込んで起きる気配の無いケルシュをクリエが無理やり引っ張り出し、熱めの湯を張った中に放り込む。
その後、これでもかというほど香油をたっぷりと肌に擦り込ませ、全身の老廃物を取り除くように力を入れてマッサージをしていく。
そして、朝食の代わりにフレッシュジュースを飲み終えたケルシュに、今度は手加減なくコルセットを締め上げて華美なドレスを着させると化粧とヘアメイクを施していった。
こうして、昼前になってようやくケルシュは全ての準備を終えたのだった。
「ケルシュ様、とても素敵にございます。持ち前の容姿の良さも相まって、どこからどう見ても良家のご令嬢そのものです。本日のお茶会では皆様の羨望の眼差しを釘付けにすることでしょう。」
仕上げを終えたクリエがケルシュに姿見を見せながら、頬を高調させ感嘆の声を上げた。
スツールに腰掛け無表情に鏡と対面するケルシュのすぐ隣で、クリエは両手を胸の前で組み、キラキラと瞳を輝かせている。
「朝から死ぬほど疲れたわ…もう無理…帰りたい…」
死んだ魚の目をしたケルシュが今にも死にそうな声を漏らした。
手にしていた招待状を無意識に握り潰そうとしており、慌てたクリエが彼女の手から奪い取る。
「それにこのドレス…ちょっとなんて言うか…その…」
「はい、旦那様の愛と独占欲に塗れたとても素敵なドレスにございますね。」
「ちょっと!少しは言葉を遠慮なさい!」
いつものように感情的に立ち上がろうとしたケルシュだったが、重厚なドレスのせいで機敏に動けず座ったまま声を荒げた。
ほんのりと頬を赤く染めているケルシュは、黒のレースをふんだんにあしらったシルクのドレスを身に纏っている。
喪服と思われない程度にスカート部分にダイヤモンドの粒が散りばめられており、陽光に照らされると華やかな印象があった。
王国女性がパートナーからドレスを贈られる場合、相手の瞳や髪の色に合わせるよりも淡い色を身につけた方が良いとされている。
その理由は、色が薄く儚げであればあるほど、相手の男性対して従順であるという意味合いを持つためだ。
なお、純白は誰にも染まらないという意味に捉えられるため御法度とされている。
そういう文化の中、稀に自分の色を着させたがる男はいるが、そういうのは大概常軌を逸した嫉妬心を持つ矮小な男だという評価を受ける。
それらを熟知した上で今回このドレスを贈ってきたダイテンにケルシュはどう反応して良いか分からず内心頭を抱えていたのだった。
「先日、旦那様とお話出来たのでしょう?あの夜以来旦那様は終始とても嬉しそうにされていて、使用人の間でも婚約者様を溺愛する旦那様のことを肯定的に捉える者が増えてきました。ようやく時代が追いついて来ましたね。」
クリエはわざわざケルシュと視線を合わせてウインクを飛ばすと、動いたことによって僅かに乱れたケルシュの背中のリボンを直しながら嬉しそうに声を弾ませる。
「…大袈裟よ。人として最低限の御礼を伝えただけだわ。」
「迎えに来てくれて嬉しかったと素直にお気持ちを伝えられたのでしょう?それは旦那様も浮かれてしまいますわ。」
「はっ!?ちょっと、どうしてクリエがそんなことを知っているのよ!」
顔を真っ赤にしたケルシュが勢いよく後ろを振り返った。
動揺する彼女をあしらうかのように、クリエはふふっと笑みをこぼす。
「それはもう…旦那様が自らお話しされていましたからね。よほど嬉しかったのでしょう。邸中その話題で持ちきりです。」
「なんてことをっ………これからどんな顔をして邸内を歩いたらいいのよっ……」
「『旦那様に溺愛される奥様』という愛らしいお顔で闊歩されれば良いのです。」
「そんなこと出来ないわよっ!!恥ずかしくて死ぬわっ!!!」
語気を強めて肩で息をするケルシュに、クリエが水の入ったグラスを手渡す。受け取った彼女はそれを一気に飲み干した。
部屋の中は決して暑くは無いというのに、ケルシュの額にはうっすら汗が滲んでいた。気付いたクリエがパタパタと白粉をはたく。
「…どうしたらいいか分からないのよ。今まで家族以外に私のことを案じてくれる男性なんていなかったから。皆私のことを従わせることにしか興味を示さなかったわ。」
「気遣われるのはお嫌ですか?頼りない男だと笑いますか?」
「まさか!私が自分中心の王国男性のことを毛嫌いしているのはクリエも知っているでしょう?ダイテン様はその真逆だわ。全てのことに置いて私の意思を尊重してくれて、私自身のことを見てくれる。それはもちろん嬉しいわ。」
「ただちょっとか恥ずかしい、そういうことにございますね。」
「ええそうよ。なんか慣れなくて恥ずかしくなってしまうのよ。」
「だそうですよ、旦那様。」
「え………………………………」
クリエがニコりと微笑んだ先には、いつからいたのか半開きになったドアの前に目を見開き硬直しているダイテンの姿があった。
振り返ったケルシュは驚きのあまり声が出ず、ただでさえ大きな丸い瞳がこれでもかというほど大きくなる。
「ケルシュ」
泣きそうな声で名前を呼ばれたケルシュは、恥ずかしさのあまり呼吸が止まった。
激しい動揺で口から内臓が飛び出しそうになるのを両手で押さえてなんとかそれを阻止する。
だが、そうこうしているうちに、ダイテンの姿が眼前に迫っていた。
彼は椅子に座り口元を抑えるケルシュの前に膝をつくと、震える彼女の手を両手で取った。
「不用意に君の気持ちを聞いてしまい申し訳ない。…嬉しかった。こんなにも歓喜しているというのに胸が締め付けられる。知れば知るほどケルシュのことが欲しくて堪らなくなって、底知れぬ己の感情に嫌気がさすほどだ。」
一度俯いたダイテンは軽く息を吸うと、顔を上げ真っ直ぐな瞳を向けた。
「今度改めて俺の話を聞いて欲しい。そして、願わくばそこで君の心を知りたい。」
いつもの甘さのある声よりも、どこか切羽詰まったような真剣な声で告げてきたダイテン。
彼の瞳に囚われたケルシュは目を逸らすことが出来ず、大きな瞳で見返す。わけがわからないまま、泣きそうな気持ちが込み上げて視界が滲んでいく。
心臓が早鐘を打ち、今口を開けば意識を失ってしまう、そう本能的に感じたケルシュはぎゅっと唇をキツく結んだ。
そして、ほんの僅かに顎を引いた。
「ありがとう。」
それを肯定と捉えたダイテンが目を細めて淡く微笑む。
「そのドレス、物凄く似合っている。こんなにも魅力的な君のことをエスコート出来ないのが残念でならない。本当に素敵だ。」
ダイテンは両手で握りしめていたケルシュの手から片手を外すと、胸ポケットから指輪を取り出して彼女の手に嵌めた。
ケルシュの指で光り輝くブラックダイヤモンドの指輪。石の周囲は金細工で作られており、アルシュベルテ家の紋章まで刻印されている。
『俺のものだ』
誰がどう見てもそう主張してくる指輪に、ケルシュの顔に熱が集まる。
そんな余裕のない彼女のことなどお構いなしに、ダイテンは指輪を付けた手を持ち上げて唇を近づけた。
瞳を閉じてそっと口付けを落とす。
「っ!!!」
ケルシュは反射で勢いよく手を引っ込めた。今にも泣きそうな瞳でダイテンのことを勢いよく見上る。
恥ずかしさを隠そうとするあまり、キツい目になってしまっているが、一切気にしていないダイテンはただただ嬉しそうに微笑み返した。
「それはお守りだ。気に入ってくれればなお嬉しいが。」
「……ありがと。」
ここでようやく言葉を発したケルシュ。
だが、そっぽを向いたままの彼女は耳まで赤くしている。
そんなケルシュの一挙一動が愛おしくて堪らないダイテンは我慢の限界を超え、吸い寄せられるように彼女の頬に顔を寄せる。
「ひゃあっ!!!」
突然頬に訪れた温かくて柔らかな唇の感触に、ケルシュは頬を抑えて悲鳴を上げた。
「では、また。」
クスッと妖艶な笑みをこぼしたダイテンは、ケルシュの頬をするりと人撫ですると、優雅な足取りで部屋を出て行った。
「……………………もう無理っ」
完全にダイテンの甘さに当てられたケルシュは、真っ赤になった顔を隠すように両手で覆った。
「私はいつか確実に死ぬわ。」
遠い目をしてつぶやいた独り言を無視したクリエは、乱れた彼女の髪を整えて最後に髪飾りを頭につける。
もちろん、ダイテンが用意したブラックダイヤモンドがあしらわれた特注品だ。
「さぁ、参りましょう。」
まだ赤い顔で固まっているケルシュのことをニコニコ顔で無理やり立たせると、半ば引きずるようにして馬車まで連れ出して行ったのだった。




