キルトのお仕事
昨日の夕刻、長距離用の専用馬に乗ってアルシュベルテ家を出たキルトは、碌に休憩も取らずに馬を走らせ続けた。
その甲斐あり、朝日が昇る頃に王都入りしていた。
王都に入ったキルトはまずアルシュベルテ家のタウンハウスに寄り、待機させていた使用人の手を借りて身支度を整え始める。
汗と土埃でひどく汚れた乗馬用の上下服からアルシュベルテ家の紋章入りの正装に着替え、向かい風で乱れた髪をセットし直した。
その後、手渡されたコップ一杯の水を移動しながら一気に飲み干し、今度は玄関前に用意させた豪奢な馬車に乗り込む。
朝日は昇りきり、この時にはもう朝食を囲む時間帯になっていた。
トーレン家までの僅かな乗車時間だが、キルトは鞄から書類の束を取り出して目を通し始める。
ダイテンに手渡す際、書面の内容を簡潔に説明して効率よく判断と指示を仰ぐためだ。
時折り目頭を指で揉み、強烈な睡魔と空腹に耐えながら朦朧とする頭を必死に働かせる。
「くっそ…覚えてろよ。」
悪態をつきながらも、キルトの書類をめくる手のスピードは加速していった。
「アルシュベルテ辺境伯の補佐役を務めております、キルト・タンテロンと申します。此度はご迷惑をお掛けして大変申し訳ありません。当主をお迎えに上がりました。」
トーレン家に到着したキルトは、玄関扉を開けてくれた年若い使用人に向かって深々と頭を下げた。
いきなり現れた辺境伯補佐官という高貴な身分の相手に、対応した使用人は謝罪の言葉を繰り返した後駆け足でクリエのことを呼びに邸の中へと戻っていく。
「キルト様、ありがとうございます。早々に申し訳ないのですが、こちらに来て頂きたく…」
先ほどの使用人に代わって現れたクリエが大変申し訳なさそうな表情でキルトの顔を見上げてくる。
『うげ…面倒くせえことになってそうだな…』
毒づく内心とは裏腹に、朗らかな笑みも姿勢も崩さずキルトはしっかりと頷きクリエの後に続いた。
「だから、昨日言ったじゃない!」
「昨晩言ってくれたのだから、今もう一度言ってくれても良いだろう?」
「それを言うなら、一度も二度も同じよ!何度も言わせないで。」
「パパだって一度くらい言われたい…」
「そこ!自分のことパパって言わないっ!!」
『ああもう!』と猫っ毛の銀髪を掻きむしり髪を逆立てるケルシュと、ダイニングテーブル越しに懇願を通り越して今にも泣き出しそうな顔を向けてくるダイテンとタテロットの二人。
そして、一つ席を空けてケルシュの隣に座るエイトルはドン引きした表情で向かい側に座る父親達のことを見ている。が、すぐに視線を外して手元の食事に意識を向けた。
「は。何だよこれ…」
ダイニングルームの光景を視界に入れた瞬間、思わず素で声を漏らしたキルト。
先ほどまでと異なり、突然粗雑な言動をする彼にクリエは一瞬だけ目を見開くがすぐに元の表情に戻す。
「実は昨晩このようなことが…」
目を伏せたクリエが極めて言いにくそうに昨晩の出来事を話し始めた。
それは、ダイテンとランロットの2人が「大好きと言われたことがない」とケルシュに泣いて縋り、やっとの思いで熱望の一言を言わせたという話であった。
それも、一歩も引かないダイテンに呆れ困り果てたケルシュがやっとの思いで口にした「別に嫌いじゃないわよ」という言葉に彼は泣くほど歓喜したというオチだ。
それに大変気をよくしたダイテンは朝からもう一度言ってくれとまたもや騒いでおり、結局そんな言葉すらもらえなかったランロットが嫉妬に狂っていたというわけだ。
「キルト様!良いところに来たわっ!」
クリエの話し声でキルトの存在に気付いたケルシュが椅子から立ち上がり、キラキラと救いを求める瞳を向ける。
「…っ」
軽く目礼を返そうとしたキルトのすぐ横をフォークが飛んで行った。風圧で彼の横髪が僅かに揺れるが、キルトは動じることなく穏やかな笑みを崩さない。
「ダイテン様、本日夜に大事な会合が控えております。即刻領地にお戻りください。」
「貴様!ケルシュに色目を使いおって!何をしにここへ…」
「仕事です。今すぐに目を通して頂きたい書類もお持ちしております。ご確認の上、すぐにサインを。」
足元に置いていた鞄から数枚の書類を取り出すと、中身が見えるよう片手でダイテンの前に掲げた。
目にした瞬間、ダイテンは僅かに眉を寄せる。どうやら重要な仕事を思い出したらしい。
キルトは安堵の息を吐く。
「ランロット伯爵、無理を申し上げますが少しの間だけ部屋を拝借させて頂いても?」
「あ、ああ。息子のためだ。この邸は好きに使うといい。」
「感謝いたします。」
敢えて丁寧に接するキルトの態度に、ランロットは冷静さを取り戻した。
こうなってはダイテンも仕事に戻らざるを得ず、別室にて書類仕事を行うため渋々部屋を出て行った。
「ちょっと待って。」
当たり前のようにダイテンの後に続こうとしたキルトの背中に、ケルシュが待ったの声を掛けてきた。
無視することもできず、足を止めてゆっくりと振り返るキルト。
「貴方はここに残ってちょうだい。」
腰に手を当て仁王立ちしたケルシュは、有無を言わせぬ物言いで言い切った。
『まためんどくせえ…』
ここまで笑顔を絶やさなかったキルトの口元が僅かに歪む。
「畏まりました。」
ケルシュに本心を悟られぬよう、よそ行きの仮面を付けたキルトは普段よりも単調な口調で返事をし、深く頭を下げた。




