兄弟喧嘩
「…なんでだよっ!!」
落ち着きかけたエイトルだったが、ケルシュの一言に声を荒げると拳を握りしめ、行き場のない感情をぶつけるように何もない空間に思い切り振り下ろした。
彼の気迫に半歩後ろに下がってしまいそうになったケルシュは、動かしかけた足を気合いで踏み留める。
顔を上げると正面からエイトルのことを見返した。
本人は毅然とした態度を取ったつもりだったのだが、その顔は誰が見ても泣き出しそうな貧弱なものであった。
「だって私は、貴方の人生を狂わせてしまったから!私のせいで貴方は実母と離れ離れにされて、本来来なくてよかった家に養子に入れられて…私が…私が弱かったから!」
「ふざけんなよっ!!!!」
ケルシュの声を掻き消すように声を張り上げたエイトル。久しぶりに出した大声は肺を圧迫し、彼は肩で息をしている。
言葉とは裏腹にひどく傷付いた顔をしているエイトルを目にしたダイテンは、黙ってことの成り行きを見守っていた。
一方のケルシュは、彼に言わないと決めていた心の内を感情任せに口にしてしまい自己嫌悪に襲われていた。
結局は己の行動を正当化するための偽善であり、それが彼に更なる負担を掛けたことに消えたくなるような気持ちに覆われる。
ケルシュの瞳は色を失くした。
「俺のことを救っておいてどんな面してんだよ!」
「え?」
『オレノコトヲスクウ…?』
エイトルの言った言葉の意味が分からず、ケルシュは頭の中で反芻する。
だが何度繰り返しても言葉は上手く変換されず、意味のないただの音として頭の中に消えていった。
「ああもうめんどくせえっ」とエイトルは頭を掻きむしりながら瞬きも忘れて呆然とするケルシュに近づいた。
躊躇いながらも、親愛に留められるギリギリの範囲で彼女の頭を軽く自分の肩に軽く押し付ける。
「俺はお前がいなかったら、周囲に馬鹿にされて終わってた。お前のおかげで俺はチャンスを掴めて自分にも自信を持てた。お前が阿呆みたいに俺のことを肯定してくれるから。」
「阿呆みたいってそんな言い方…」
「良いから黙って聞け。」
エイトルの真剣な口調にケルシュは黙って首を縦に動かした。
「だから俺は、何もかもを与えてくれたお前には誰よりも幸せになってほしい。そのためなら何だってしてやる。お前が嫁いでも関係ない。俺たちは家族なんだから。」
「エイトル…御礼を言うのは私の方なのに…あの時貴方がいなかったら私もお父様も闇から抜け出せなかった。貴方が家族になって私たちを導いてくれたのよ。何よりも大切なたったひとりの弟なの。」
ケルシュは、エイトルの肩から顔を上げると彼の胸に手を当てて体を離し、泣き笑いの表情で微笑んだ。
長いまつ毛に涙の粒が乗り、キラキラと光り輝く。彼女が放つその光は、彼にとっては朝日よりも眩しいものであった。
エイトルはその眩いほどの輝きに耐えきれずケルシュから顔を晒すと上を向く。
「覚悟はしてたけど、すっげぇ心が痛むわ…立ち直ったと思ったのにまた地の底に堕ちる…ちょっと無理だ…」
涙を堪えながら天井に向かってボソボソと話す声はケルシュの耳には届かない。
「エイトル…?」
下から不安そうに名を呼ぶ声が聞こえた。
自由奔放で規格外のように見えて実は人の機微に敏感なケルシュ。
そんな彼女の性格をよく知る彼は、軽く咳払いをすると深呼吸をして気持ちを整えた。
いつかのあの日の自分を思い出す。
そして、あの時の自分に成り切る。
大丈夫だと自分自身に言い聞かせて。
「大丈夫だよ、姉様。」
しばらくぶりのエイトルからの『姉様呼び』にケルシュははっと目を見開く。
そんな彼女に、エイトルはあの頃と同じように無邪気な笑顔を返した。
「ありがとう、エイトル。大好きよ。」
ようやく心を通わせられたエイトルに、ケルシュは心からの笑顔を返す。
その瞳にはもう憂いは何一つ残っていなかった。
「…おい、だからそれやめろ。人殺し。」
「何よ、その言い方は…………」
エイトルは三白眼で見上げてくるケルシュのことを無視して大袈裟に息を吐くと、額に手を当て彼女から距離を取った。
高鳴る鼓動を抑えるように浅い呼吸を繰り返して精神を整える。
「可愛い大切な弟に愛を伝えただけじゃない!」
「伝えるな!やめろ!」
「何よ!家族なんだから言葉を掛けることくらい普通でしょう!」
「だいたいお前がな…」
対峙した二人は幼な子の兄弟のようにぎゃあぎゃあと罵り合っている。
すっかり以前の仲の良さを取り戻した二人に、見守っていた使用人達は目を赤くしてハンカチで鼻をかむクリエを筆頭に、皆瞳を潤ませている。
気の抜けたランロットは、今度こそ床にへたり込んだ。
つい先ほどまでの殺伐とした空気は一気に霧散し、安堵の雰囲気が当たりを包み込む。
『雨降って地固まる』
そんな言葉が見守っていたもの達の頭の中に浮かぶ。
凪のような穏やかな空気が漂う中、一人だけ緊張感を漂わせる者がいた。
「トーレン伯爵」
低い声が廊下に響き、一気に辺りの空気が張り詰める。
笑顔で顔を見合わせていた使用人達も表情と姿勢を整えて壁際に並び直し職務に戻る。
「…な、何でございましょう。」
足腰に力を入れ、壁に手をつきながらふらふらと立ち上がったランロットはなんとも間抜けな返事をした。
思い当たる節がありすぎて何から謝罪を述べれば良いのか分からず、不安げな視線を返すことしか出来ない。
「貴殿と話がしたい。」
ダイテンは眉間に皺を寄せると、黒目を細めて言葉を続けた。
今度こそ終わったと確信したランロットは、口から魂が抜けかけていた。




