見通しの良くなった部屋の前で
普段塵一つなく清潔にされている廊下に敷かれた真紅の絨毯だが、今は埃と木屑に塗れておりまるで整備されていない路地裏のような光景であった。
修繕と辺り一帯の片付けのことを考えている使用人達は表情を失い、現実逃避気味に見通しの良くなったエイトルの部屋の窓から望む夕陽を眺めている。
そんな彼らのすぐそばで、ランロットはひとり恐怖に言葉を失っていた。
いきなり乗り込んできた辺境伯が声を荒げてドアを蹴り破ってきたため、その怒りの矛先はトーレン家に向けられているものだと思い込み、身体を震わせカチカチと奥歯を鳴らしている。
一方、正面から衝撃を受けたエイトルは、穴の空いたドアの向こう側に呆然と突っ立っていた。
ダイテンは器用にも彼に危害が及ばないよう手加減をしたため、エイトルに怪我はない。
ただ、いきなり部屋が明るくなって見晴らしが良くなったこの状況に思考が追いついていないようであった。
この場にいる誰もが取り乱してすぐに動けない状況にある中、唯一動き出した者がいた。
ケルシュは、肩までずり落ちた外套を床に落としてしまわないよう無意識に両手でぎゅっと掴むとゆっくり立ち上がった。
「なんでダイテン様がこんな所にいるのよ!」
思わず勢い余り、ケルシュはダイテンのことを真っ直ぐに指差し責めるような口調で問いかけてしまった。
彼女の強気な言動にトーレン家の者達の空気が凍りつく。中でもランロットは気が遠くなり意識を失いかけていた。
ーー これでまた娘の嫁ぎ先が無くなってしまった…いやそれどころか、これはトーレン家の存続すら危ぶまれる事態かもしれない…
心がへし折れ腰が抜け、両膝をつきそうになるランロットの肩を隣にいた使用人が必死の形相で支える。
「ケルシュ、すまなかった!!!!」
そんな静まり返る葬式のような空気の中、ダイテンの縋るような声が響く。
先ほどまでの殺気に塗れた空気はどこへやら、ダイテンはケルシュに向き直ると腰から折って深く頭を下げてきた。
「は!??」「なっ!?」
ケルシュは素っ頓狂な声上げると、手から力が抜け掴んでいた外套を床に落とした。
彼女の声に被せるようにランロットの驚愕の声も響いたが、二人にはまるで届いていない。
今にも泣き出しそうな表情のダイテンと、開いた口が塞がらず顎が外れそうになっているケルシュが互いに視線を交わす。
「いきなり謝罪なんて…なにが…」
「嫌なところがあれば全て言って欲しい。君のためならなんだってする。この言葉に嘘はない。だからどうか、俺の所に戻って来て欲しい。後生の頼みだ。」
泣きそうになるのを必死に堪えたダイテンは、黒い瞳をきらりと光らせてケルシュに懇願して来た。
すぐ目の前にいるというのに決して手を伸ばそうとはせず、ただひたすら相手からの許しを待つ。そんな希うような瞳で見つめられたケルシュ。心臓が早鐘を打つ。
「そ、そんなこと言われなくても帰るわよ!私は貴方の婚約者でしょう!」
「ケルシュ…」
今度は感極まり涙を目に溜めるダイテン。
潤んだ瞳のままケルシュに一歩近づくと、両手を広げて優しく彼女のことを包み込む。
「ありがとう。俺の元に戻ってくれると言ってくれて心から感謝する。」
「ちょっと実家に帰っただけで大袈裟よ…」
「俺にとって、ケルシュがいなくなることは一大事なんだ。取り乱しもする。君がそばにいてくれないと安心出来ない。生きている気さえしないんだ。」
とんでもなく甘い声音で囁いてくるダイテン。
至近距離で聞こえてくるそれは、ケルシュの鼓膜だけでなく心を揺らし動揺を誘ってくる。
「…っ」
恥ずかしくなったケルシュは、何も言えずにぐりぐりと彼の胸に顔を押し付けた。
そんな彼女の頭を、ダイテンは愛おしそうに優しく撫で付けている。
とんでもなく甘い空気が辺りを襲う。
イチャついているようにしか見えない二人の状況に、周囲には徐々に困惑が広がっていった。
「俺らは一体何を見せつけられてんだ…」
「いや全くだ…」
いつの間にかケルシュ達の脇を通り過ぎ、ランロットの元に移動していたエイトル。
対岸でひとり、二人の熱い抱擁シーンを見ていることに耐えられなかったらしい。
「エイトルっ!!」
エイトルの声に反応したケルシュがダイテンの腕から逃れて彼に向き合う。
直前のエイトルの言葉を聞いていたダイテンは、エイトルと対峙するようにケルシュの前に歩み出たが、彼女の手で無理やり後ろに追いやられてしまった。
仕方なく、鋭い目つきで臨戦体制を維持したまま後方に控えるダイテン。
「…なんだよ。」
ランロットに視線で促され、迷惑そうに声を発したエイトル。そこにもう先ほどのような明確な拒絶の色はなかった。
軟化した彼の態度にケルシュは内心ほっと息を吐く。
そして、ありったけの親しみを込めた笑顔をエイトルに向けた。
「貴方には幸せになってもらわないと困るのよ。」
温かい笑顔且つひどく柔らかい口調であったにも関わらず、ケルシュの瞳の奥には悲しみの色が混じっている。
これまで見たことのない彼女の表情に、エイトルは目を見開いた。




