守りたいもの
夏の日差しを通さぬほど遮光性の高いカーテンを閉め切った暗い部屋の中、エイトルはソファーの肘掛けに足を投げ出してただぼんやりと天井を見つめている。
決して陽の光が入ることのないこの部屋では時間の感覚が掴めず、この中に閉じこもってからどのくらいの日数が経っているのかエイトルには分からなくなっていた。
ランロットが仕事で不在にしている間を見計らって使用人が扉の前に食事を用意してくれる。最低限の食事と排泄と睡眠でただただ生命を繋いでいる状況だ。
たったの数日なのか1週間か数週間か、それともそれ以上か…
今年卒業を控えるエイトルにとって、今は学業に専念する大切な時期であったが、彼にはもう何もかもがどうでも良くなっていた。
『ケルシュを守るために、彼女の隣にいるために、誇らしい価値のある自分でいたい』
その一心で入学直後から首席の地位を維持し続けていたというのに、その活力はもう消え失せた。
己の行先を失ったエイトルは、目と耳を塞いで蹲ることしか出来ない。
こんな体たらくでは義弟としてすら彼女の隣に立てなくなる。
そう思うのに、ケルシュという動力を失った身体は鉛のように重く、ソファーに沈む一方であり心と行動が合致しない。その矛盾がまた彼を苦しめて動けなくする。
ー ガガガガアアアアアアアアアァァァッ!!
「!?」
いきなりドアの外から聞こえた破壊音に、エイトルは勢いよくソファーから飛び降りた。
久しぶりに機敏な動きをしたせいで躓き、床に膝と手のひらをつく。
『おい!ケルシュ、やめろっ!!それ以上やったら家が破壊されっ…ああああああっ!!』
ー ギイイイイイイイイイイッ
『おかしいわね。これを打ち付ければ簡単に扉を壊せるはずなのだけど。物理攻撃がダメなら、次は火を使いましょうか。』
破壊音の後に外から聞こえてきたのはランロットの悲鳴に近い荒げた声と、無意識に視界が滲むほど耳慣れた呑気な声であった。
エイトルは袖で目元を拭って立ち上がる。
「何やってんだよ、アイツはっ…怪我するだろうが!」
脊髄反射で立ち上がると走って扉の近くまでいき、内鍵に手を掛けた。
たった一つの動作でこのドアは簡単に開き、あんなにも待ち焦がれた彼女と対面出来る。
それなのに、そう強く思えば思うほどエイトルの手は石のようにぴたりと固まって動かなくなってしまった。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い…
一瞬にして恐怖に心が支配される。
こんな姿を見られたらどう思われる?これまでのことを知られたら?心配をかけてしまう?呆れられる?それとも、落胆される…?今の俺に、彼女に会う資格などあるのだろうか。
幻滅、されるんじゃないのか…
彼女はアイツを選んだんだ。
俺よりも地位があって名声があって大人で何もかもを手にしていて、女なら誰でも惚れてしまうような相手。だからこそ、あの誰にも靡かなかった彼女も手を打ったんだろう。
ならばもう、俺は彼女に会わないほうがいいんじゃないか。俺の存在なんて忘れてもらった方が彼女のためになるんじゃないか。
辺境伯家に嫁げば一生安泰だろう。
こんなロクでもない義弟の存在など、彼女の汚点にしかならないんだ。
ああそうだ。
そうに決まっている。
俺に、彼女に会う資格はない。
「エイトルっ!!そこにいるんでしようっ!!出て来ないと扉ごと部屋を焼くわよ!多少の火傷は覚悟なさいっ!!」
扉の向こうにいたケルシュは、力一杯拳でドアを殴り続けた。
彼女の足元には庭師に用意させた物騒な鈍器がいくつも散らばっている。
その中にはなぜか燭台に使う用のマッチと食用油まで混ざっていた。
このままだと本気で部屋を焼き払いかねないと思ったランロットは額から嫌な汗を吹き出しながら、必死の形相で使用人達に指示してバケツで水を用意させている。
『うるせえ』
ケルシュが足元に落ちていたマッチに手を伸ばした時、扉越しにエイトルの声が聞こえた。
「エイトルっ!!」
『帰れ。もう俺に構うな。』
その声は低くはっきりとした憎悪の念が込められていた。
久しぶりに聞いたその声に、ケルシュは懐かしさではなく怖さを感じて僅かに身体を強張らせる。
「帰れるわけないでしょう!私は弟の顔を見に来たのよ!帰って欲しければさっさとその顔を見せなさい!そうしたらすぐに帰ってやるわよっ。」
『は?誰がお前の弟だよ。俺はお前とは赤の他人だ。勘違いすんな。いつまでも家族ごっこに付き合ってやれるかよ。』
「そんな言い方っ…」
ケルシュは唇を噛み締めて涙を堪えた。
彼の人生を変えてしまったのは自分だ。そんな自分に泣く資格なんてあるわけがない。
それなのに、あんなにも仲良くしていたと思っていた相手に突然拒絶されて胸が張り裂けそうだった。
せめてもう彼のことを苦しませないように、私は金輪際関わらない方がいいんじゃないか。そうした方がきっと彼も心から幸せに…
ケルシュの瞳から光が消え、彼女は扉を叩こうとして振り上げた拳を力無く下ろした。堪えていた涙が溢れ出て一筋頬を伝う。
「分かったわ。私はもう貴方とは…」
「俺の妻を泣かせるなっ!!!!!!!」
ー バキキキキキイイイイイキキイッ
先程と比べものにならないほどの破壊音がしたと思ったら、エイトルとケルシュを隔てていた扉が吹き飛んでいた。
助走付きの尋常ではない強力な回し蹴りを受けた扉の中央は粉砕されており、周囲に木屑と埃が舞う。
「ゴッホゴホッゴホッ…」
突如として全身を襲った木屑と埃にケルシュは堪らず、目を瞑り咳き込む。
ケルシュは周囲の様子を窺うように涙目で薄目を開けた。
すると、彼女を守るように頭から衣類のようなものを優しく被せられ視界を遮断される。
突然の暗がりに驚いて顔を上げると顔から布がずり落ち、開けた彼女の視界には庇うように聳え立つ見覚えのある屈強な背中が映り込んだ。




