置き手紙
ケルシュにとって心臓に悪い嵐のような一日が過ぎ去り、彼女は平穏な日々を取り戻していた。
アイドリによるケルシュへの教育の域を逸脱した嫌がらせは現当主であるダイテンの知る所となり、アイドリは1ヶ月間の謹慎及び使用人頭の立場剥奪の処分を言い渡されていた。
本来であれば即刻クビを言い渡したいダイテンであったが、ケルシュが口添えをしてそれを止めさせた。
早くに母親を亡くした彼の乳母として彼のことを育ててきた過去を知り、自分は気にしていないから温情をかけて欲しいと頼み込んだのだ。
この家に来たのが自分みたいな異分子でなければ、アイドリにあそこまでさせることはなかっただろうと思い、彼女の行いを憂いたためだ。これ以上自分の振る舞いのせいで他の者の人生を変えさせたくなかった。
アイドリが謹慎処分を受けて数日、午前の授業を終えたケルシュは屋敷を訪れた宝石商のセイラと共に婚姻の儀で使うアクセサリーの類の選別を行っていた。
来客用の部屋に置かれた8人掛けの大きな長方形のテーブルの上にクション性の高い厚みのある布地が一面に敷かれており、その上に先日邸へと届けられた店の全商品が並んでいる。
ケルシュがあの時店で見た商品の数よりも多いような気がしたが、にこにこと恵比寿顔で微笑むセイラにツッコむ気にはなれなかった。
「ケルシュ様、こちらなんていかがでしょう?今流行りの小花柄が銀の台座に彫られていてとっても手が込んでおりますのよ。花弁に似立てた薄ピンク色のダイヤモンドは希少価値が高く、身に付けるだけで皆様のお目を引くこと間違いなしですわ。」
セイラが満遍の笑みで勧めてきたのは、見るからに高そうな大粒ダイヤのイヤリングであった。
白の手袋をして慎重に手に取り、ケルシュの耳元に当てて見せる。
「もう少しスタイリッシュなデザインは無いかしら?それに、私は淡い色よりも、濃い色が好きなのだけど。」
ケルシュは控えていた使用人が目の前に掲げた手鏡に見向きもせず、テーブルの上に並べられたアクセサリー達を真剣な眼差しで吟味している。
王国女性であれば誰もが喜ぶであろう魅力的なアクセサリーをないがしろにされ、百戦錬磨のセイラが僅かに眉を顰めた。
「ケルシュ様…?失礼ながら申し上げますが、婚姻の儀ではこういった淡くて可憐なデザインのものを身に付けるのが定石でして、女性が濃い色を身につけるなど葬儀のようでなりませんわ。」
「そういうものなのね…」
ケルシュは、背を離していた背もたれに寄りかかり天井を向いて瞑目した。
これまでも息苦しさは感じていたけれど、トーレン家とはやはり大違いだわ…
今考えてみれば、世間体を気にした父親から苦言を呈されることはあっても、私の選択を否定されることはなかったものね。
エイトルなんて、否定するどころかいつだって私の選んだことを歓迎して肯定してくれて…
あ。
マズイマズイマズイマズイマズイマズイ…
完全に忘れてたわっ!!!!!
「マダム・セイラっ!!」
ケルシュはテーブルの上に両手を付いて勢いよく椅子から立ち上がった。
気圧されたセイラが手にしていたイヤリングを危うく足元に落としそうになり、慌てて掴み直す。
「ごめんなさい!急用を思い出したわ!悪いけれど、続きはまた後日でお願い!」
ケルシュは早口で伝えると、その勢いのままセイラの前から消え去った。
「か、かしこまりました…」
テーブル一面に輝く宝石達の前、全く状況の読めないセイラはぽかんとした顔でケルシュの背中を見送っていた。
「クリエっ!!!」
急いで自室に戻ってきたケルシュは、彼女がいるであろうウォークインクローゼットに向けて呼びかけた。
「そのように大きな声を出されなくとも、聞こえていますよ。きちんと明日の準備をしておりますから、ご心配はいりません。」
呆れ半分嗜め半分といった表情のクリエがウォークインクローゼットの中から姿を現した。
彼女は大きめの旅行鞄と袋をかけた衣類を手にしており、発言の通り荷造りをしていたように見える。
「そのことなのだけど、ダイテン様に伝えるのを忘れていたわっ!!」
「・・・」
悲鳴に近い声で慌てふためくケルシュに対し、呆れてものが言えなくなったクリエは見事に固まっている。もちろん、心底憐れんだ表情で。
「だからあれほどお伝えしましたでしょう。ご実家にお帰りになる前に旦那様のご許可を頂くようにと。いくら休みで予定のない日だとしても、許可なしに勝手にこの家を出ることは出来ませんよ。」
「だって……………………」
しゅんとしたケルシュは、クローゼット前に置いてあるスツールに座り込んだ。いじけたように両膝を抱えている。
「気まずいんだもん。」
「・・・」
子どもみたいに拗ねるケルシュの可愛らしさと叱らなければならない責務の間で葛藤しているクリエ。
「…とにかく、本日中にご許可をお取りになってください。」
「分かったわよ…」
クリエは緩みそうになる頬を必死に押さえ、心を鬼にして己の責務を全うした。
翌日、領地の警邏体制について現地視察を行っていたダイテンはキルトと共に早朝から執務室にいた。
昨日夜遅くまで外に出ていたせいで処理できなかった書類を捌くためだ。
が、この部屋に現れてからもう数刻が立つというのに山積みになっている確認待ちの書類はただの一枚も減っていない。
ダイテンが執務室に入る直前使用人から手紙を渡され、入室後その中身を見てからずっと直立した状態で全ての活動を停止していたせいだ。
しばらくの間見ないふりをして自分の仕事を続けていたキルトだったが、いい加減面倒になってきたため嫌々ながら話しかけた。
「…おい、さっきからどうしたんだよ。」
キルトの問いかけに、ダイテンがひとつ瞬きをする。
「ケルシュが…ケルシュが…」
「ケルシュ嬢が、なんだよ?」
「実家に帰ってしまった…………」
「は?????」
膝から崩れ落ちたダイテンの手から、握りしめていた一枚の便箋がひらひらと宙を舞う。真っ白な便箋の真ん中にたったひとことだけが書かれていた。
『実家に帰ります。ケルシュ』
***
同時刻、ケルシュはクリエと共に王都へと向かう馬車の中にいた。
「ケルシュ様、旦那様のご許可はお取りになったのですよね?」
「それもう3回目よ。きちんと手紙を置いてきたから大丈夫だわ。ダイテン様だっていつもお手紙でご用件を伝えてくるじゃない。」
「それなら良いのですが…」
不安要素が消え、久しぶりの帰還に胸を弾ませるケルシュ。おかしくなったエイトルの様子を見にいくためとはいえ、故郷に帰れることに対する喜びの方が優っていた。
一方、彼女の向かい側に座るクリエの顔色は優れず曇天のようであった。




