気遣いの招いた結果
長い沈黙が続き、クリエがケルシュのために淹れてくれた二杯目のアイスティーはすっかり温くなってしまった。
一向に話す様子のないケルシュだったが、クリエは急かすような真似をしない。
口では明るく言いながらも抱え込むことの多い主人に、クリエは自身の振る舞いで追い立ててしまわぬよう彼女の側を離れ何食わぬ顔で部屋の整理整頓を始めた。
過去のことを思い出していたケルシュの中で言いようのない感情に支配されていた。
それに耐えきれずじっとしていられなくなった彼女は、ベッドから降りてソファーへと移動する。
テーブルの上に置いてあったすっかり生ぬるくなったアイスティーに口を付けた。
テキパキと仕事をするクリエのことをちらりと見るが、彼女が話の続きを期待しているようには見えず、ほっと安堵の息を吐く。
いつかは大切な人達に真実を伝えようと思っていたが、まだその心積りは出来ていなかった。
長いこと沈黙が続き気まずくなってしまったケルシュはアイスティーを飲み干してしまい、なんとなく壁に掛けてある時計に目をやった。
「あっ!!」
時刻を見た瞬間、ガラスの底を叩きつけるようにしてグラスをテーブルに置き勢いよく立ち上がった。
「もうこんな時間っ!!早くしないとアイドリのにドヤされるわっ!」
「大丈夫ですよ。」
「気休めなんていらないわよ!クリエも知っているでしょう?あのアイドリが私に対して容赦のないことを!」
一切動揺することなく大丈夫だと言い切るクリエのことをケルシュはキツく睨みつけた。
八つ当たりも混ざっていたが、向けられた当人に焦る様子はない。
「キルト様がご予定の調整をなさってまして、次の授業まてあと30分ほどお時間がございます。」
「…有能過ぎて素直に喜べないわね。なんだか無性に腹が立つわ。」
「そこは真っ先にお礼を言うべきところかと…」
キルトの気遣いに納得のいかないケルシュは、隠すことなくイラついた雰囲気を全面に出していた。
とは言え、休み時間が長くなったことは大変好ましく、ケルシュは机の引き出しから手頃な便箋と封筒を取り出すとペンを手にする。
この空いた時間でさっそくランナに手紙を書こうと勉強机に向かいペンを構えた。
「ケルシュ様っ!!」
突然、ドアの外からひどく焦った声でケルシュのことを呼ぶアイドリの声が聞こえて来た。
そのあまりに緊迫した様子に、ケルシュとクリエの二人は無言で視線を交わす。
「…窓から逃げる?」
ケルシュが立てた親指で窓を指しながら涼しい顔で尋ねてくる。
「…緊急事態かもしれません。確認して参ります。」
クリエも一瞬だけ逃げたい気持ちが頭をよぎったが、それよりも前に行動を示してきたケルシュの言葉によって逆に冷静さを取り戻した。
足音を立てないよう窓際に擦り寄るケルシュのことを無視してドアを開ける。
「これは一体どういうことですかっ!!」
ドアを開けた瞬間、アイドリはけたたましい声を上げながら中に入り窓際に立つケルシュへと詰め寄った。
「え」
何が起こっているのか全く分からず、ケルシュは戸惑う声を上げた。
鬼の形相のアイドリに詰め寄られ、その気迫に気圧されたケルシュは窓枠に背中をつけのけぞるようにして目の前の相手のことを見返す。
「ケルシュ様っ」
ケルシュの身の危険を感じたクリエが間に割り込もうとしたが、横目でその動きを捉えたケルシュは片手を上げて制止する。
この家の婚約者とただの使用人では身分が違い過ぎる。何かあれば真っ先に首を切られるであろうクリエのために止めさせた。
「勝手に婚姻の儀の宝飾品を返却して新しいものを取り寄せるなどっ!それも、店のもの全てを取り寄せてご自身で選ばれたいなど、お戯れもいいところです!花嫁が勝手に選ぶなど、この恥晒しがっ!!」
顔を赤くしたアイドリがケルシュに人差し指を突きつけながら、早口で捲し立ててきた。
思いの丈を一息に詰め込み過ぎて息が上がり、肩を上下させている。
ここまで話を聞いたケルシュは、あああのことかとようやく理解した。
はっ。何よこれ面倒だわ…
あの時のダイテンの気遣いは間違いなく本物のはずなのに、彼以外にとってはそうではないのよ。彼がいくら私の意思を尊重したとして、私の悪印象が強まるだけ。
本当に生きにくくて息苦しいこの世界。
まぁでも、旦那様となる方が優しい方で良かった。私のことを理解してくれる方で良かった。この忌まわしい世界でそんな人に出会えたことはたぶん物凄く幸せなことなのよ。
だから私はもう彼の気遣いは受け取らない。一々こんなふうに言われては身がもたないし、何より優しい彼の気遣いで彼の評判を落としてしまう。
それに、従順なあの頃の「ケルシュ」だったらやらないことを私がやってこの人生を台無しにすることは出来ない。私には、この人生を幸福なものにする責務があるの。
だから私は、
「ごめんなさい、アイドリ。これは私が、」
「そこで何をやっている。」
ケルシュの謝罪の言葉に被せるようにして地を這うような低い声が部屋に響いた。
君主たる威厳を放つ彼の声は、乱雑とした空気のこの部屋の中に行き渡る。
「だ、旦那様っ」
気付いた時にはアイドリの背に立っていたダイテンに、彼女はケルシュから離れて彼に向き直った。
彼から放たれる敵将に向けるような殺伐とした視線に負け、アイドリは床に膝をつき額が擦れるほど低く頭を下げた。
だが、ダイテンは床にひれ伏すアイドリの横を素通りしてケルシュの前まで歩みを進める。
「騒がしくさせたな。」
先ほどまでの人を殺せそうなほどの視線は一切なくなり、ひどく申し訳なさそうな声を出したダイテン。
その申し訳なさそうな瞳の奥底には、ようやくケルシュと向き合えたことに対する喜びが隠れていた。
「いいえ!私の方こそ…」
僅かに甘さを帯びる彼の瞳に、ケルシュは狼狽えながら返事をした。
一度綺麗だと思ってしまったものは中々頭から抜けず、段々と鼓動の音がうるさくなってくる。
そんな拒絶を感じない彼女の態度に、ダイテンは淡く微笑む。
「!!」
こんな状況だというのに、目の前で美しい微笑みを向けられたケルシュは血圧が急上昇し、慌てて身体ごと窓の外に向けた。
「アイドリ、恥を知るのはお前の方だ。これ以上俺の妻を貶めるような発言をすれば、いくらお前であろうとただではすまされない。」
打って変わって、冷徹な言葉と共に絶対零度の視線をアイドリに向けてくるダイテン。
「そ、そんなっ!私はただ坊ちゃんのためを思って、このアルシュベルテ家のためにっ」
「黙れ。」
僅かに顔を上げたアイドリが目を見開き声を失くす。
殺気を込められた言葉に、窓の外を向いていたケルシュも思わず身体を震わせた。
自分に向けられたものでないと頭で分かっていても、本能で恐怖を感じてしまう。
「俺はアルシュベルテ家当主だ。もうお前の『坊ちゃん』ではない。分かったらもう下がれ。」
有無を言わせぬダイテンの物言いに、顔色を失くしたアイドリは静かに立ち上がりふらふらとした足取りで部屋を出て行った。その横顔はまるで死人のようであった。




