戻らぬ日々
仕事も学園も休みとされる週に一度のこの日の深夜、ランロットは2階にある自身の書斎ではなく玄関から最も近い客間にいた。
壁に掛けられている時計の針を気にしながらため息を吐くこと数回、ドアを開け放したこの部屋でしきりに外の様子を気にしている。
ー ガチャ
その時、玄関の方から物音がした。
待ち侘びたその瞬間に、ランロットは勢いよく部屋から出て真っ直ぐに音のした方へと向かう。
「おい、何時だと思ってるんだ。」
ランロットは怒りを露わにした声音で強く言ったが、言われた当人に気にする様子はない。
下を向いたままランロットのすぐ横を通り過ぎようとするが、片腕を掴まれ力づくで足を止めれてしまった。
「ケルシュが家を出てからお前おかしいぞ。部屋に閉じ籠り食事の時ですら顔を出さない。あまつさえ、休みの日には決まってどこかに出掛けて姿を消す。姉離れ出来ないのも大概に…」
「うるせえ」
エイトルは憎悪の籠った声音と視線で黙らせると、掴んでいた手を振り払った。
「俺のことなんて数合わせでしか考えてないお前に、一体何が分かんだよ。」
「…っ」
低い声で言い捨てたエイトルは、目を見開いて固まるランロットの横を通り過ぎて行った。
初めてあからさまな憎悪を向けられたランロットは何も言い返せず、ひどく狼狽した表情でエイトルの背中を見つめることしか出来なかった。
「なんなんだよっ」
自室に戻るなり、エイトルは明かりも付けずに力任せに拳で壁を殴り付けた。明るい色のクロスに赤いシミが出来る。
何をしても晴れない心に疲弊したエイトルは、背中からベッドに倒れ込み腕で目元を覆った。
こんなはずじゃなかった…
なんでこうもうまくいかないのか。
ランロットが髪と目の色が似ているからっていう理由だけで俺の母親を後妻に迎えたことは知っていたし、それに不満を感じたことも無かった。
どんな形であれ、彼女に出会えことは俺の人生で起きた唯一の奇跡で唯一の幸福だったから。
初めて彼女に会ったあの日、俺は自分が選ばれた理由が一目で分かった。俺と年が近く、容姿の特徴が酷似していたから。
だから、その瞬間に冷めた。
期待をしていたわけではないが、一気にどうでも良くなった。向こうが俺のことを『幼くして母親を亡くした可哀想な彼女の義弟』という役割でしか見ていないのならば、取り繕う必要もない。俺は彼女と似た容姿でトーレンの家名を名乗れば良いだけなのだから。
第一、この国の女は自分の意思が無さすぎる。そんな人形のような『姉』に媚びた所でなんの価値もない。それならばまだ、当主であるランロットに取り入った方がマシだ。
そう俺は思っていた。
あの時、彼女が言葉を発するまでは。
『貴方みたいな弟がいたら心強いわ。あ、私はエイトルのことを実の弟だと思って目一杯可愛がるけれど、貴方に同じことを強制するつもりはないわよ。いつだって貴方の自由にして良いんだからね。』
彼女は俺に、歯を剥き出しにして思い切りの良い笑顔を向けた。
それは今まで誰にも向けられたことのない、本物の心からの笑顔だった。
相手にどう思われるかどう思われたいか、そんな邪心は一切なく、ただただ嬉しそうに笑う真っ直ぐな彼女の姿に胸を打たれた。
『貴方の自由にして良い』
その時の俺の頭の中には、彼女のその言葉が何度も何度も繰り返し響いていた。
父親のいない家庭で周囲から虐げられた幼少期を過ごし、切り開く力のない保守的な母親に振り回され、愛情ではなく役割で養子として引き取られ…散々だった。まだ7年しか生きていないというのに、人生の不幸を全て詰め込んだような価値のない日々だった。
しかしそれは全て、自分で決め付けていたせいだったんだと俺は理解した。
父親のいない子どもは嫌な目で見られるもの
女は男に従うもの
与えられた役割は果たすもの
だから仕方ない
そう無意識下で思い込み、自身の可能性をへし折ってしまっていたんだ。
虐げれてもあの時言い返していれば
意思のない母親にも自分が働きかけていれば
納得する理由をきちんと聞いていれば
あの時仕方ないと諦めずに行動していれば
何か変えられたかもしれない。
結局、無理だと諦めてこうするしかないと視野を狭めて生きにくくしていたのは俺自身だった。
それを気づかせてくれたのは、あの時の彼女の真っ直ぐな言葉と彼女と過ごした日々だ。
何もかもを肯定してくれて、連れ子の俺が悪くて言われた時は俺以上に怒って相手にくってかかってくれた。
そんな弟想いの優しい姉の姿に、俺は姉様と慕い常に後ろをついて回った。
それだけで幸せなはずだったのに、気付いたら姉様以上の存在を望んでしまっていた。いつからかなんてもう忘れたが、その時からもう『姉様』とは呼べなくなった。
自分だけの存在になってほしい。
本来であれば押し殺すべき感情なのだが、彼女に心の自由を教えてもらった俺は抱いた想いを止める術を過去に捨ててきてしまった。
だから俺は、日に日に膨れ上がる彼女への想いを悟られないよう、つかず離れずの距離を保って彼女の側に立ち続けた。
成人を迎えたら想いを伝えよう。
それだけを心の支えに生きてきた。
あと一年、あと一年でこの想いの丈を包み隠すことなく彼女に伝えられる。
この世界が苦手だと言う彼女の一番の理解者である俺が彼女のことを最も幸せにしてやれるんだ。彼女に相応しいのは俺しかいない。俺ならどんな彼女でも受け止めて支え続ける自負がある。他の奴らになんて傷つけさせてたまるか。
そう思っていたのになぜ
彼女は別の男の元にいる?
必ず迎えに行くと伝えたのに、耐えられず何度も様子を見に行った。
ようやく街中で見つけた憎きアルシュベルテ家の馬車。近くにいるはずと思ったら足が勝手に動き片っ端から付近の建物を探し始めていた。
そうして見かけたガラス越しの彼女。
見紛うことのない美しい銀髪と美しい青い瞳、俺のことを目にすれば喜んで飛んできてくれるに違いない、そう思って窓ガラスを叩こうとした瞬間、吐きそうな光景が目に入った。口に出すのも悍ましい、あの婚約者との仲睦まじい姿。
迎えに行くといったのに
長年側にいたのは俺なのに
俺が一番の理解者なのに
それなのにどうして…
今彼女の隣に俺はいないんだ。
彼女に対する憤りがあの婚約者への怒りか己の不甲斐なさに対する呵責か、もう何に対する感情なのか分からなかった。あの後、どうやって邸に戻ってきたのかも記憶にない。
彼女が幸せならそれでいいと思えるほど大人ではなく、かといってなぜ自分じゃないんだと気持ちを相手にぶつけられるほどガキでもない。
この感情はどうしたらいい?
俺はどうすればいい?
どうすれば良かった?
行き場を失った感情が俺の心を埋め尽くして悲鳴をあげている。心が壊れそうになった時にいつも助けてくれた彼女はもうここにはいないというのに。
「俺は愚かだな…」
エイトルは目元から腕を退け、焦点の合わない瞳でぼんやりと天井を眺めた。
暗がりで何も見えないはずの天井がいつの間にかその柄が見えるようになっており、朝日が昇ったことに気付いたのだった。




