好きな香り
『いいか、よく聞け。お前は絶対にケルシュ嬢と目を合わせるな。だから馬車では隣に座れ。対面は駄目だ。』
『そ、そのような無粋な真似など俺には…』
『は?無粋も何も、手紙だけでしか会話の出来ない男の方がよほどだと思うが。目を見なきゃ少しは落ち着いて話せるだろ。』
『万が一言葉を発せられたとして、いったい何を話せばいいのか…』
『…お前それ本気で言ってんの?』
『至極真面目だ。』
『…重症だな。まぁ、ぶっきらぼうでも言葉足らずでも、硬派な男の方が好印象だから、無理にベラベラと話す必要は無いんじゃないか?深く考えずに、思ったことだけ口にすれば良い。』
『ああ、分かった。』
ダイテンは、窓に目を向けるケルシュのことを視界の端に捉えながら昨晩のキルトとのやり取りを頭の中で反芻していた。
思ったことを口にする…
言われた通りそうしようと思ったのだが、彼の頭の中は真っ白であった。
それもそのはず、幼少期から厳しく育てられてきたダイテンには恋どころか友人すら作った経験がなく、人との距離の詰め方が全くと言っていいほど分からないのだ。
キルトの助言虚しく、車内には地面を蹴る馬の足音と車輪の音だけが響いていた。
一方、窓の外に目を向けていたケルシュは順調に気分が悪くなっていた。
流れゆく景色を見ていた瞳からは輝きが無くなり、色白の肌は青白くなっていく。
薔薇の香りを纏って密室って自殺行為だわ…
ポケットから取り出した柑橘系の香りを付けたハンカチを鼻元に近づけた。
いつかの日にエイトルが彼女に渡してくれた香瓶の中身を予め数的垂らしておいたのだ。
深呼吸をして大好きな香りを鼻腔の奥底まで行き渡らせ、胸の不快感を取り除く。
「檸檬か?」
聞き覚えのない香りに反応したダイテンが正面を見たまま尋ねてきた。
「あ、ごめんなさい…少し気分が悪くなってしまって、私その…薔薇の香りが苦手で…」
ケルシュの声はかなり小さく、語尾は尻すぼみになってしまった。
この国で薔薇の香りを嫌う女性などいない。それどころか、薔薇の種類によって香りを使い分けるほど皆愛用しており精通している。
女性への贈り物と言えば、薔薇の花か薔薇の香水か薔薇のモチーフの入った小物が定番だ。
普段は、王国女性と自分の感性が異なることについてなんとも思わないケルシュだったが、なせかダイテンにはあまり知られたくないと思ってしまった。
「こういう香りが好きなのか?」
「え、ええ…檸檬とか蜜柑とか柑橘系が私の好きな香りで、とても落ち着くの。」
「そうか。ならば、俺も同じ香水を付けよう。」
「なんですって!?」
ケルシュは隣に座るダイテンとの距離も忘れ、勢いよく横に顔を向けた。
この国で香水を付けるのは女性だけだ。
男性が香水を付けるというのは化粧をすることと同じくらい女性的な行為と見做される。そんなことをすれば不特定多数からの好奇の視線は避けられないだろう。
「俺も同じ香水を付ければ、君だけが目立つことはなくなり無理をする必要も無くなる。それに、この香りはとても良い匂いだと思うしな。」
「…でもそんなことをすれば、男である貴方は私以上に変人扱いされるわ。」
「ケルシュさえ好んでくれれば何ら問題はない。むしろ本望だ。」
「な、なんなのよそれ。」
ケルシュはまた視線を窓の外に戻した。
あまりに真っ直ぐな言葉にほんのりと赤くなった顔を隠すためだ。
「本当に変な人…」
外に向かって呟かれたケルシュの声はダイテンの耳には届かなかった。
二人を乗せた馬車はアルシュベルテ領の街中へと入り、一軒の店の前に横付けする形で停車した。
御者から目的地についたことを知らされたケルシュは、ダイテンの手を借りて地面に降り立つ。
足元には色違いの石が敷き詰められて綺麗な石畳となっており、この一画だけでもこの領地が豊かであることが伺い知れる。
ケルシュが降り立った目の前にあったのは、一軒こ宝飾店であった。
歴史を感じる石造りの店構えで、厚みのある大きめのガラス窓は防犯のためかレースのカーテンで閉ざされている。
「行くぞ。」
ケルシュのことを見ることなく、ダイテンは店のドアに向かって歩いていく。
「ちょっと!」
なぜ宝飾店に来たのか理由も言われておらず、話す気もないダイテンにケルシュが後ろから声を掛けた。
彼女を置き去りにしたまま店内に入ろうとしていたダイテンが振り向き、ここでようやく彼女との距離に気づく。
「ここで私は一体何を?少しくらい説明をしてほしいわ。これもしかして、辺境伯夫人として宝石の目利きでもしろって言うんじゃ…」
次の瞬間、ダイテンは喚くケルシュのことを無視して、彼女の指を絡めとるようにして優しく手を繋いできた。
「ひっ」
「悪い。手を引くことを失念していた。」
『彼女の護衛はお前の役割だ。外に出たら彼女の手を離すなよ。』
有能な補佐官の助言を忠実に守ったダイテン。
変に意識してしまう彼のために、キルトは職務だと言い聞かせていたのだ。
突然の触れ合いに身体を硬くするケルシュのことを気にも留めず、そのまま彼女の手を引いて店の中へと入って行った。




