ダイテンの思惑とは
夜がふけた頃、日差しの暖かった日中の名残りで隙間の開いていた窓からやや湿った風が室内に入り込む。気付いたキルトが窓際に寄り、ガチャリと静かに窓を閉めた。
すぐ側にあった花瓶はいつの間にか片付けられており、いつもの殺風景な景色となっていた。
キルトは鞄を手に取りジャケットを羽織る。
そして、帰り支度を始める彼のすぐ目の前で全く帰る気配のない男にため息混じりに声を掛けた。
「明日は大事な日なんだろ。こんな日くらいさっさと帰って寝ろ。」
「…そうだな。」
疲れているだけか心配事でもあるのか、歯切れの悪いダイテンの返しにキルトの悪戯心が疼く。
「ケルシュ嬢、なんて言ってた?初めてのデートだろ?飛び上がって喜んでいたりして。」
ジャケットの襟元を整えながら、ニヤリと意地の悪い顔でダイテンのことを見やる。
「…見てない。」
「は?」
「その…直接伝えるタイミングがなく、仕方なしに手紙で伝えた。」
ただでさえ静かな執務室が水を打ったような静寂に包まれる。その上、つい先ほど窓を閉めたはずなのに、キルトはひどく乾いた風が目の前を去っていった気がした。
「お前な…俺がどれだけ苦労してあの時間を捻出したと思って…それなのに、無駄骨にしやがって…」
「お前に俺の気持ちなど分かるものか。あんなに可憐な姿を見せつけられて、俺はどうやって発話すれば良いんだ。天使のような彼女の前では息をするのもやっとだというのに…」
「は」
危うく落とし掛けた鞄を、キルトは反射神経の良さを発揮し床につく直前で掴み直す。
目の前で狼狽える大の男に、どこからどう突っ込んでいいか分からずしばしの間硬直するキルト。
しかしそれもすぐに一周して、『ああもう早く帰りてぇ…』と心の底から思ったキルトは色々と諦めてダイテンの力になることにした。
「いいか、とっておきの技を教えてやる。明日はそれで一日乗り切れ。」
キルトは人差し指を立て、至極真面目な顔で己の秘技をダイテンに継承したのだった。
***
「ケルシュ様、とてもお美しいです。」
「…どうも。」
瞳を潤ませ大変満足した顔のクリエに、玄関へと続く螺旋階段の手前で見送られたケルシュ。
引き攣った顔で手を振り、逃げるように階段を駆け降りていく。
本当は正門に停められているであろう馬車の前まで送るとクリエに言われていたのだが、ケルシュが断固として拒否したのだ。
そんな彼女は、美しい長い銀髪を一つに束ねてツバの広い帽子を被り、真っ白なワンピースを着て手には同じ素材の白のグローブを嵌めていた。
動きやすいようにスカートのボリュームは抑えられており、細い腰のラインを際立たせるようにレース地の黒リボンが巻きつけられている。
真っ白な肌とワンピースを際立たせる黒のアクセントは彼女の美しさを際立たせており、また黒髪黒眼の彼を連想させるような意図的な色使いであった。
「ただ正門に呼び出しを受けただけなのに、ひとりでこんなに洒落込んで恥ずかしいわ…」
ケルシュは自分の姿を客観視してため息をついた。
そうは言っても今更ここで帰るわけにもいかず、重い足取りで正門前へと向かう。
「ケルシュ様、中で旦那様がお待ちです。」
「…え。」
約束の時間通り正門に着いたケルシュを出迎えてくれたのはダイテンではなく、彼の従者であった。
違和感を覚えながらも、ケルシュは従者のエスコートで用意してあった馬車へと乗り込んだ。
外観よりも広い車内には、既にダイテンが座っている。相変わらず忙しいのか、彼は仕事関係と思われる書類に目を向け、そのままの姿勢でケルシュに声を掛けてきた。
「これから街に行く。」
「ええ。」
ケルシュは返事をしながらダイテンの向かい側に腰をおろす。
どうして街に行くのか、何をしに行くのか、そもそもこれは仕事なのか私用なのか、ケルシュには彼の思惑がさっぱり読めなかったが、これ以上何か話をする雰囲気のないダイテンに追及することを諦めた。
これが仕事の付き添いでも結婚相手として見定めるための何かであっても、街に行けるという事実に変わりはない。
そう考えたケルシュは、アルシュベルテ領に来て初めてちゃんと目にする城壁の外を楽しむことに頭を切り替えた。
王都から一度も出たことのないケルシュにとって、知らない場所に足を運ぶというのは夢のような体験であった。
その後馬車の準備が整ったらしく、御者の掛け声と共に動き出す気配がした。そして、同じく車内でも動き出す者がいた。
「は」
一瞬にしてわけの分からない状況に陥ったケルシュの口から間抜けな声が漏れた。
彼女は半開きの口のまま真正面に視線を固定して両手を握り締め、硬直している。
「貴方一体何をして…」
視線だけ僅かに動かして真横を見たケルシュ。
彼女のすぐ隣に座るダイテンの横顔が視界に入った。間近で見る整った顔に思わず息を呑む。
「どうかしたか。」
「…何でもないわ。」
ケルシュは慌ててダイテンから視線を逸らし、また正面を向いた。すぐ近くにいる彼が動揺している気配はない。
どうしてこんなに近くに座るのか尋ねたい気持ちでいっぱいだったが、自分ばかり意識しているようで癪だと思ったケルシュは言葉を飲み込んだ。
そして、ダイテンに背を向けるように身体ごと窓の方を向き、流れる景色に集中することにしたのだった。




