キルトの過去
俺には婚約者がいた。
もう10年以上も前の話だ。
アルシュベルテ家に仕えるタンテロン伯爵家に生を受けた俺は、5歳になる年に分家に当たるケルティード子爵家の娘クリフティと婚約を結んだ。
もちろんこれは両家の関係を強固にするための政略結婚であり、当人達の意思が汲まれたものではない。
クリフと婚約を結んで数年、彼女は毎日のようにタンテロン家に足を運んでいた。
『婚約者なのだから、一緒に過ごすことは当たり前だろう?』
なぜこうも毎日家に来るのかと疑問に思って父親に尋ねたところ、彼はこう答えた。
当時の俺は、そういうものかと思いそれ以上深く考えることはなかった。
『キルト様、わたくしハンカチに刺繍をしましたの。よろしければこちらをどうぞ。』
『ああ。』
『お庭に綺麗なお花が咲いておりましたわ。キルト様に一番にお伝えしたかったのです。』
『そうか。』
彼女は事あるごとに俺に何かをくれた。それはものであったり言葉であったり、形は様々であったがどれもこれもすべて俺のためだった。
だがその時の俺は感謝することなくそのすべてを当たり前に享受していた。
『女は男に尽くして当たり前』
そんな家の男達の言葉を鵜呑みにしていたのだ。
彼女との関係が6年程経とうとしていた頃、状況は一変した。
常に小競り合いを繰り返していた隣国との関係性の悪化が進み、一触即発の状態となったのだ。
前線となったアルシュベルテ領には多くの騎士達が送られた。
もちろん、俺の家の男達も前線に駆り出された。まだ12にも満たない俺には召集が掛かることなく、邸の中での待機を命じられていた。
家から男達がいなくなり、俺と母親、数名の使用人で過ごすこと数ヶ月、同じような状況下にあったクリフも母親と二人で俺の邸に移り住んできた。
彼女はこれまでと変わらず穏やかな微笑みで常に俺のそばにいてくれた。
今思い返せば、男なのに一人だけ残された俺のことを気遣ってくれていたのかもしれない。
それから一年が経ち、ようやく俺にも招集が掛かった。
13になった俺は、前線後方の補給部隊に配属されることが決まった。
昔から剣術に長けていた俺に不安は一切なく、ようやくという気持ちの方が圧倒的に優っていた。
『キルト様、こちらに残ることは出来ませんか?』
出立する日の早朝、馬の手入れをしていた俺にクリフが今にも泣き出しそうな顔で言ってきた。
どんな時も王国女性らしく、一切自分の意見を言わなかった彼女が初めて懇願してきたのだ。
『こういう時、女性は黙って見送るのが礼儀だろう』
初めて見た彼女の表情に動揺した俺は、それを悟られないよう彼女の気持ちと向き合わずに早口で言い返してしまった。
すぐに目の前の馬へと視線を戻したが、後ろからはっと息を呑む音が聞こえた気がした。
『どうかご武運を』
その時に見た彼女はいつもの穏やかな微笑みであった。
そのことに、俺はなぜかひどく安堵したことを覚えている。
俺が前線に配置されてすぐ、またもや状況は大きく変わった。
敵陣に乗り込んだ当時の辺境伯令息の一団が敵将を討ち取ったのだ。
このことにより、2年近く続いた戦争は終わりを迎えることとなる。
残党の処理や破壊された街の復興のため、俺はそのまま数ヶ月アルシュベルテ家の邸で過ごしていたのだが、そろそろ家に戻れる算段が着いた頃知らせが届いた。
それはクリフが亡くなったという知らせだった。
男達のいない隙を狙って侵入した夜盗にナイフで刺されたのだ。
一命を取り留めたものの傷口から感染症を引き起こし、その2ヶ月後に命を落とした。
使用人達は何度も俺にそのことを伝えて呼び戻そうとしたのだが、彼女が頑なに拒否したらしい。国にとって重要な仕事をしている彼の手を自分なんかのために煩わせてはいけないと。
彼女が亡くなったと知らされた俺が抱いた感情は、悲しさでも寂しさでも怒りでもなく、想像を絶するほどの虚無感だった。
これまで当たり前のようにそこにあったものがもうここにはいない。もう2度と会えないのだと。
これまで大切にしていたわけでも、優しい言葉をかけてきたわけでもないくせに、我ながら随分と身勝手な感情だなと思った。
いたの間にこんなにも彼女のことを想い慕っていたのかと。
その後俺はダイテンの側近としてのお役目をもらい、補佐官の職務を得た。
当時の俺は何かから追われるようにして、睡眠と食事以外の時間のほとんどを仕事と鍛錬と勉学に充てたのだ。
その異様さに心配した周囲が何度か声を掛けてきたが、ダイテンだけは何も言わなかった。
それから数年、仕事も剣術も突き詰めるところまで突き詰めた俺は途端に無気力になり、何もかもがもうどうでも良くなっていた。
惰性で仕事をして惰性で食事と睡眠をとり、休日は一切外に出ず誰とも言葉を交わさず部屋に引き篭もる。
そんな生きているとは言えないような酷い有様の日々を過ごしていた。
そんな時、珍しくダイテンから声を掛けてきた。
『中身は見ていない。一人の時に読め。』
そう言って差し出してきたのは一通の手紙だった。
それも、女性が好みそうな白地に淡い花模様の描かれた可愛らしいもので全く心当たりがなかった。
差出人も分からない手紙など最初は読む気にもならなかったが、あのダイテンがわざわざ声を掛けてきたことが無性に気になり、夜部屋で一人の時に手紙を開けた。
『キルト様、私のことなど忘れてどうかお幸せに。』
久方ぶりに目にした丁寧で控えめな懐かしい彼女な文字に、俺は胸が締め付けられ気付いた時には手紙を握り締め嗚咽が漏れていた。
「忘れられるわけがないだろうっ…」
それが自分の発している音だと認識したのは、だいぶ涙を流した後であった。
いつでも微笑んでくれた彼女に、いつでも側にいてくれた彼女に、誰よりも俺のことを大切にしてくれた彼女に、俺はとっくの昔に心を奪われていたのだとようやく理解した。
それと同時に彼女の言葉に押された俺は、もう戻れる道は残されていないのだと過去を断ち切った。もう迷いはなかった。
翌日、ダイテンは手紙のことには一切触れず普段通りだった。
人が変わったように俺が仕事に取り組む姿勢を変えても、その変化に周囲が驚愕しても、ダイテンだけは何一つ変わらなかった。
ただ一つのことを除いて。
「ほんとこういうところがムカつくんだよ。」
いつもよりも早い時間に執務室を訪れたキルトは、窓辺に飾られた一輪の花を見て悪態をついた。
先日ケルシュのことでダイテンと言い争いをしたばかりで、今回は無いだろうと思っていた花がしっかりと花瓶にささっていたからだ。
彼よりも早い時間にいたであろう誰かの手によってカーテンが開けられ、窓から降り注ぐ朝の光を浴びて美しく輝く一輪の花。
毎月同じ日にこうして、いつもは花瓶すら置かれていない窓辺に花が飾られているのだ。
一度目は気付かなかった。
二度目はたまたまと思った。
三度目で偶然じゃないと悟った。
これは手紙を受け取ったあの時から、誰かが誰かのために毎月供えてくれている意味のある花なのだと。
キルトは自分の持ってきた花を花瓶に挿すと、紙とペンを取り出して机に向かった。
仕事が出来るくせに人一倍不器用で口下手で自分の気持ちを抑え込む主のため、彼が好きな人との距離を縮められる方法を思いつく限り書き出していたのだった。




