雁字搦めの現実
あのお仕着せ騒動の一件でダイテンからキツくお叱りを受けたアイドリは、ケルシュに対してその素質を試すようなことは一切しなくなっていた。
その代わり、結婚式の準備に加えて辺境伯夫人となるための本格的な花嫁修行が始まり、ケルシュは忙しさに追われていた。
女主人として家を守るために必要な邸の運営に関わる知識や社交術に加えダンスレッスンや刺繍など淑女としてのマナーなど、朝から晩まで多岐に渡り家庭教師の先生達から厳しい指導を受けている。
アルシュベルテ家に来てから早2ヶ月、ケルシュは一度も敷地の外に出ることなく、この囲いの中だけで過ごし続けている。
そんな缶詰生活を送る彼女の唯一の息抜きは、一週間に1度の頻度で発生するダイテンの執務室で過ごす昼食の時間となっていた。
領主としてケルシュ以上に多忙を極めるダイテンが昼食の時間を確保できることは稀であり、たまにまとまった時間が取れる時に彼から連絡が来るのだ。
ダイテンは、ケルシュが大口を開けてパンを頬張っても二人分の量を平らげても何も言うことはなく、ただただ微笑ましそうに彼女のことを眺めるだけであった。
婚約者として形式的な言葉を交わすわけでもなく、かと言って会話を楽しむわけでもなく、ただ食事を共にするだけであったが、いついかなる時も辺境伯夫人としての振る舞いを求められるケルシュにとって、このひと時は唯一気を抜ける瞬間であったのだ。
「忙しいのにいつもごめんなさい。でもおかげでとても良い気分転換になったわ。」
久しぶりにダイテンの執務室で昼食をとったケルシュは、当たり前のように彼が淹れてくれた紅茶を啜り一息つくと晴れやかな笑顔を向けた。
「いやこちらこそ、最近忙しく夕飯を一人で摂らせてしまってすまない。」
しょんぼりと肩を落とし、物凄く悲しそうな表情と声音で謝ってくるダイテン。
基本的に夕飯は一緒に摂る予定になっていたのだが、忙しい彼は中々都合を付けられず、実際に夕飯を共にしたのは片手で足りるほどの回数であった。
そんな彼に、ケルシュは目を見開きティーカップに口を付けようとしていた手の動きを止めた。
「初めて会った時もそうだったけれど、貴方って私に対しても謝るのね。」
「…気を悪くさせたか?」
「まさか。」
さらに気落ちした声を出すダイテンに、ケルシュはすぐさま答えて思い切り首を横に振った。
「気遣われて嫌な思いをする人なんているわけないでしょう?」
「…どうだろうな。俺のような立場のある人間であれば、そう簡単に人に頭を下げるなとキルトにはよく言われる。そんな姿を見せれば周囲からの信頼を得られなくなる、と。」
「馬鹿馬鹿しいわ。」
吐き捨てるように言ったケルシュは、空中で動きを止めていたティーカップを静かにソーサーの上に戻した。
眉を吊り上げて睨むような目付きでダイテンのことを見返す。
真正面から視線を向けられたダイテンは僅かに怯んだ。それと同時に、心の底から自分の発言を後悔していた。
つい彼女の優しさに甘えて弱い言葉を口にしてしまった…こんな年上の男から聞きたくなかった言葉に違いない。
彼女にだけは良い所を見せたいのに、どうしてこうもうまくいかないものなのか。
何も言わずとも周囲は勝手に俺のことを良いように勘違いしてくれるというのに、一番良く見せたい相手にそう見せられないというのは皮肉なものだな。
心の内に溢れ出る自己嫌悪の言葉に、ダイテンは何も映さない真っ黒な瞳で自嘲気味にふっと笑みを溢した。
「そんなことで信頼がなくなるわけが無いじゃない。相手のことを思って行動してそれを受け入れてもらえないのなら、それはこの世界がおかしいのよ。」
自己嫌悪に浸るダイテンのことなどまるで無視して、ケルシュは澄んだ瞳と強い口調で言い切った。
当たり前のように『世界』を否定してくるケルシュの真っ直ぐな言葉に、ダイテンは目を見張り息を呑む。
咄嗟のことに返す言葉が見つからない。
今目の前のことで起きたことが信じられず、それは自分の積年の願望が作り上げた幻想かと思ってしまいそうになる程であった。
「そろそろ時間だぞ。」
ダイテンが返す言葉を見つける前に、戻ってきたキルトによって昼休憩は終いとなってしまった。
「ありがとう。またね。」
「…ああ。」
溢れ出た感情の処理が追い付かず、結局ダイテンは何も言えないまま部屋を後にするケルシュのことを見送った。
扉が閉まると同時に、彼女に向けて軽く挙げていた手を力無く下ろす。
扉に向かって無気力に立つダイテンに、キルトがため息を吐いた。
「…お前な、しっかりしろよ。そんな姿騎士達に見られたらどうすんだよ。」
「俺はもう、周囲からどう思われようとそんなことは関係ない。」
「お前は良くても彼女が馬鹿にされるんだよ。権力のあるお前と違って彼女が目を付けられたらどうなる?陰湿ないじめの始まりだ。ただでさえ、伯爵家から辺境伯夫人になるってことで周りの目が厳しいんだ。この状況をちゃんと分かっているのか?」
「それは…」
ダイテンは即答できなかった。
長い歴史を持つアルシュベルテ家は保守派の人間が多く、彼らの間では王都よりも男尊女卑の考えが根強い。
アルシュベルテ領の歴史的背景から女性が優遇されることをひどく嫌うのだ。
生まれた時から次期当主としての扱いを受けてきたダイテンは、それを痛いほど良く知っている。
だからこそ、現状を変えたいとという気持ちとこの状況は絶対に変わらないという相反する意志が心を埋め尽くし、どうにも身動きが取れなくなるのだ。
「こんな俺の言葉にも答えられない中途半端な気持ちなら止めとけ。その程度では彼女に辛い思いをさせるだけだぞ。」
キルトはもうこれで話は終わりだと言わんばかりにダイテンを視界から外し、机の上の書類へと目を向ける。
苛立つ気持ちを抑え、無言のままペンを取り書類仕事を再開した。
何も言い返せなかったダイテンもまた、重苦しい空気の中、彼と同じようにやりかけの仕事に取り掛かったのだった。




