妻の務め
翌朝、これまで通り自室で朝食を摂ったケルシュはアイドリに呼ばれて一階にあるサロンを訪れていた。
庭園に面したこの部屋は大きなガラス窓によって開放的な雰囲気にあり、金の装飾が美しい品のある調度品の数々が並ぶ。
部屋の中央に置かれた長方形のテーブルの上には、真っ白な紙の束と封筒と羽ペン、そして封緘印が置かれている。
ケルシュが部屋全体を眺めていると、やってきたアイドリがテーブルの上に辞書のように厚みのある本を数冊重ねた。
「ケルシュ様、お二人の結婚式の招待状の作成をお願いします。まずはアルシュベルテ家の本家と分家、それから侯爵家以上の貴族、そして協力体制にある家に続いて…」
「ちょっと待ってよ!」
いきなり説明を始めたアイドリに、ケルシュはテーブルの上を叩いて待ったの声を掛けた。
「何か?まさか、お一人では無理だとそのようなことを仰いますか?」
「そんなの今から準備して婚約解消になったらどうするのよ!全部無駄になるじゃない。」
「………ええとしかし、今からやらないと到底間に合う量では…」
明後日の方向に心配するケルシュだったが、それを即答で否定出来なかったアイドリはついうっかり考え込んでしまった。
この結婚が無くなる可能性も十分にあり得ると思っていたからだ。
「そうだわ!」
何かを思いついたケルシュは手を叩き、キラキラと瞳を輝かせてとても良い笑顔をアイドリに向けた。
「差出人の名を空欄にしておけば良いんだわ。私の名前を書かなければ、他の人に使い回しが出来るでしょ?」
「…アリですね。」
「・・・」
ダイテンがこの場にいたらブチ切れそうな解決策だったが、ケルシュとアイドリの二人は安堵の表情を浮かべていた。
そんな中、部屋の隅に控えていたクリエだけが遠い目をしていた。
その後、机に向かい真面目な顔で作業を進めていくケルシュ。
テーブルの脇には、差出人となるダイテンの名前の隣に妙な空白がある封筒が並んでいる。
澱みなく動くケルシュの手だったが、当日は何百人という人数を招待するため、作業は全く終わる気配がしなかった。
「そろそろ時間ですね。」
時計を確認したアイドリがケルシュに声を掛けた。
ケルシュはキリの良いところで羽ペンをテーブルに置き、椅子に腰掛けたまま両腕を伸ばす。
「これは骨が折れるわね。集中したからお腹が空いたわ…」
ケルシュは昼食を摂るために自室に戻ろうとテーブルの上を片付け始めた。
もう今日はやる気がないのか、羽ペンも封筒も本も何もかもを綺麗に元の位置に戻している。
「さてと、お昼ご飯…」
「ケルシュ様。」
意気揚々と部屋を出ていこうとするケルシュに、いつの間にかドアの前に移動していたアイドリが布を被せた大きなカゴを押し付けて来た。
「何よこれ?」
「旦那様の御昼食にございます。」
困惑顔で尋ねるケルシュだったが、アイドリの返事は短く彼女は眉ひとつ動かさず、態度を崩さない。
「え、渡す相手間違っているわよ。ダイテン様の昼食なら彼に渡さないと意味がないでしょ。」
「何一つ間違ってなどいません。これはケルシュ様が旦那様に届けるのですから。」
「は?なんで??」
いよいよ理解できなくなったケルシュはつい前世の時の雑な言葉使いで聞き返してしまった。
事の成り行きを見守っていたクリエの顔色がどんどん悪くなってきている。
「旦那様はいつも御昼食は執務室で簡単に済ませるため、毎日お運びしております。そして本来それは、妻となるケルシュ様のお役目なのです。」
「…そんな話聞いてないわよ。」
「今ご説明差し上げましたよ。アルシュベルテ家では妻の夫に対する献身性を何より大事にしておりますから。このくらい当たり前にやっていただかないと困ります。」
「いやでも、食事を運ぶなんて誰にでも出来ることなんだから…」
「お く さ ま ??」
「はいいいっ!!」
アイドリに特大のプレッシャーを掛けられたケルシュは背筋を伸ばして返事をし、彼女の手から奪い取るようにしてカゴを受け取った。
「正面側の階段を上がって左手にある部屋が旦那様の執務室です。」
にこにこ笑顔で説明してくれたアイドリにこくこく頷くと、ケルシュはその場から逃げるようにして部屋を出て行ったのだった。




