当主の帰還
勉強が嫌いではなかったケルシュは、書架にある関連書物を片っ端から読み漁り、独学で知識を頭に叩き込んでいった。
特にやることもなかった彼女は、食事時間と最低限の睡眠時を除いた時間のほとんどを勉強に費やしていた。
王国女性らしい振る舞いや気遣いが圧倒的に苦手なケルシュは、感覚で身に付けるものは全て諦め、やればやった分だけ身につく勉学に全振りしたのだった。
「それは、アルシュベルテ家の分家の臣下にあたる、レオナード・クリテットによる行いね。たしか、彼が隣国に潜伏していたおかけで有益な情報を得ることができ、その後実績を得たクリテット家は諜報部員としての役割を一任されることとなりそれは今も続いている。だったわね?」
「…その通りにございます。」
久しぶりに顔を合わせたアイドリが試験問題を出してきたのだが、ケルシュは難なく正解してしまった。しかもこれで5回連続だ。
当主の側近候補生でも厳しい問題であったはずが、ケルシュは余裕の表情である。
そんな彼女に、悔しそうな表情を隠そうともしないアイドリ。
学園に通っていない貴族女性は勉強が苦手である傾向が強く、その短所を突いて嫌がらせをはかったのだが、前世で学校に通っていた記憶を持つケルシュは勉強の仕方を心得ており、通用しなかった。
そこで、面目を潰されてばかりのアイドリは、趣向を変えることにした。
「ケルシュ様が大変賢いことはよく分かりました。ですので、次は辺境伯夫人としての素質を見させて頂きます。」
アイドリの言葉に、余裕の笑みを浮かべていたケルシュの顔が一瞬にして凍りつく。
「いやそれはちょっと…」
「まさか、出来ないとでもおっしゃいますの?」
言い淀むケルシュに、アイドリはこれこそが彼女の弱点だと確信する。
歓喜に沸く心を必死に抑え込み、務めて冷静に問い返した。
「問題ないわ。受けて立つわよ。」
「それは楽しみにございますね。」
煽られたケルシュは啖呵を切り、そんな彼女に更に余裕の笑顔を返してくるアイドリ。
二人の間にブリザードが吹き荒れ、部屋の隅に控えていた使用人達はその恐怖で皆肺が凍りつきそうなほど全身冷え切っていた。
その後苛烈さを増した二人の戦いは誰にも止められず、アルシュベルテ家当主まで巻き込む惨事となるのであった。
***
「もうすぐ着くぞ。定刻通りだ。」
馬車の中、腰につけていた懐中時計を確認したキルトが気難しそうな顔で向かいに座るダイテンに声を掛けた。
「長かったな…」
深く長い息を吐いた。
王宮からの呼び出しの理由は、キルトの見立て通り大した内容ではなく彼らは嫌がらせだと確信した。
だが、アルシュベルテ領から滅多に外に出ないダイテンには夜会や会合などの誘いが鳴り止まず、結局予定通り1ヶ月間王都のタウンハウスで過ごす羽目になってしまったのだ。
元々社交界が苦手で領地に引っ込んでいるダイテンには夜会に参加すること自体苦痛なのに、多方面から若い女性を当てがわれたため心的疲労が耐えなかった。
頑なに女性の手を取らない彼の代わりにキルトがダンスの相手をするという珍事まで起きたほどだ。
だからこそ、ケルシュの待つ領地に戻ることを何より待ち望んでいたのだ。
「言っておくが、ケルシュ嬢に会えたからと言っていきなり口説くなよ。腑抜けた顔を見せられては騎士達に依願退職されちまう。」
「…善処する。」
「おい、そこは死守だろ。」
キルトのツッコミも虚しく、ダイテンは緩んだ口元のまま窓の外を眺めていた。
無事邸に戻ってきたダイテンは、軽く身支度を整えてからケルシュの元に向かおうと早足で玄関のドアを開けた。
そして、玄関ホールから続く螺旋階段から2階の自室に向かおうとしたのだが、玄関に足を踏み入れた瞬間眼前に広がる光景に身体の動きも思考も停止した。
そこにはなぜか、使用人達に紛れてお仕着せ姿のケルシュがいたのだ。
「そこで何をしている。」
ダイテンは地を這うような怒りに満ちた声でアイドリに尋ねた。
彼の後ろに控えていたキルトも驚きの表情を隠せずにいる。
「だ、旦那様っ。お、お帰りなさいませ。」
主人の登場に、アイドリは慌てて三角巾を頭から脱ぎ取り、手にしていた掃除用具を床に置き背中に隠した。
見苦しくない程度に手櫛で軽く髪を整えると首を垂れる。
すぐ隣にいたケルシュにも自分と同じようにしろと肘でつつくが、彼女が動く気配はない。
「け、ケルシュ様っ」
小声で名を呼ぶアイドリを無視して、ケルシュは一歩前に歩み出た。
長身のダイテンのことを見上げるようにしてその顔を凝視する。
不敬極まりない行為に、アイドリを始めとして使用人達の表情は凍りつき、キルトさえも彼女の振る舞いに眉を顰めている。
唯一動じない…ように見えていたダイテンは、まつ毛の長い人形のような瞳でじっと見つめられ必死に込み上げる歓喜を押さえ込んでいた。
「貴方…」
ケルシュは見つめたまま更に数歩、ダイテンに詰め寄った。
「…っ」
彼は手を伸ばせば触れられそうな距離にたじろぎ、僅かに足を後ろに引く。
「やっぱり!貴方あの時の謝罪男だわ!」
ようやく目の前の見覚えのある顔と自身の記憶が合致したケルシュは嬉しそうにパンッと両手を叩いた。
またもや場が凍りつく。
晴々とした笑顔を見せるケルシュとは対照的に、彼女の言葉を耳にしてしまった者達は漏れなく表情を失っていた。辺り一体にモノクロの世界が広がっている。
だが、この短時間で二度も心臓を止めることとなってしまった使用人達とは異なり、毛の生えた強靭な心臓を持つ者がいた。
「ぶはっ!!」
堪えきれず吹き出したキルトは、人目も気にせず膝から崩れ落ちたのだった。




