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何もかもが合わないこの世界で  作者: いか人参


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アイドリの誤算


ケルシュがアルシュベルテ領を訪れる数日前、王宮からの手紙を受け取ったダイテンは、その中身に目を通したら瞬間怒りの表情を露わにした。

今にも誰彼構わず人を斬りつけそうなほどの殺気を放ってくる。


キルトは物々しい雰囲気を全面に出す彼が何か言葉を発する前に、極太の釘を刺すことにする。



「言っとくけどこれは仕事だ。拒否は出来ないからな。」


意識していつもより低い声を出し、主に向かってキツい目つきでプレッシャーをかけてくるキルト。


心の中では、『給金上がらねぇかな』とぼやいていた。



「拒否できないのなら、一層のことクーデターでも起こして国の主導権を奪うか。」


「おいこら馬鹿っ!!」


キルトは、ダイテンの座る広々とした机を思い切り叩いた。

木製とは思えない強度に、予想以上の痛みが骨にまで広がり思わず顔を歪める。



「どこで誰が聞いてるか分からないんだぞ!発言には気をつけろ。今回の件だって、旧王国派による嫌がらせだ。自分の娘を嫁入りさせられなかったことに対する当てつけだな。王都では側室の座でも狙ってくるんじゃないか。」


「小賢しい。誰が政略結婚などするものか。寝言は寝て言え。」


「まぁそう怒る気持ちも分からなくはないが…王宮からの呼び出しでは大人しく従うしかないだろ。まさか、年若いケルシュ嬢の未来まで血みどろにするつもりじゃないだろう?」


「それは…絶対にしたくない。血で汚れるのは俺の手だけでいい。」


「そういうこと。ま、距離は愛を深めるって言うし、実家が恋しくなった頃に王都土産でも持ち帰れば両手を広げて出迎えてくれるんじゃないか?」


「両手…出迎え…王宮には承諾の旨を連絡し、至急出立の用意を。騎士団長とその配下はケルシュの迎えに向かわせろ。呉々も彼女に粗相が無いようキツく命じておけ。アイドリにも俺が帰還するまでの間勝手なことはするなと伝えろ。俺は不在時の警備配置を再考する。配置決定次第、お前から全騎士に通達を出せ。約1ヶ月の間、鼠一匹通さぬよう24時間体制で街中及び敷地内の警備に当たらせる。以上だ。」


「お、おう…」


態度の変わりようにあからさまに引きつつも、ダイテンの仕事の仕方には慣れているため、キルトは素早くペンを走らせ一言一句聞き逃してなどいなかった。


『ケルシュ嬢の力は絶大だな…』と頭の片隅で現実逃避気味に考えながらも、思考の大部分では今指示を受けた内容を最も無駄なく最短で終わらせることを考え、やるべきことを組み立てていたのだった。



こうして不服にも王宮からの呼び出しに応じることとなったダイテンは、睡眠時間を削って警備隊の再編成と不在にする間の仕事を前倒しをして行っていた。


王都へ出立する準備に奔走していたダイテンの頭には、ケルシュに事情を説明するということがすっかり抜け落ちていた。


警備体制を万全にしたダイテンは、やり切った感満載で王都へと旅立って行ったのだった。




そして現在、何も事情を知らないケルシュは、ここで初めてダイテンの不在を知らされ様々な感情が込み上げていた。


よく分からない状況に動揺しているケルシュに、気遣ったクリエは部屋の中にあるミニキッチンで紅茶を淹れて差し出す。


ティーカップから立ち昇る湯気を見つめながら、ケルシュがぽそりと呟いた。



「これって新手の嫌がらせかしら?だとしたら私は、黙ってはいられないわ。」


美しい黄金色の水面に映るケルシュの顔は微笑んでいるにも関わらず、静かな怒りに満ちていた。




翌朝、自室で朝食を摂り身支度を整えたケルシュは、アイドリに言われた通り、一階にあるサロンへと足を運んでいた。


クリエは、辺境伯家の使用人としての指導を受けるため別行動となっている。



ケルシュがサロンにあったソファーに腰掛けて待っていると、ゆっくりとした足取りでアイドリが現れた。

昨晩と同じように笑顔も挨拶もなしにケルシュの前に立つと、大きな音を立ててテーブルの上に分厚い紙の束を置く。



「これはアルシュベルテ家400年分の家系図です。まずはこちらを全て頭に入れて下さい。」


「ええと、アルシュベルテ辺境伯がどうして今王都にいるのかとか色々と説明してくれるんじゃ…」


昨日と変わらず淡々と指示だけ出してくるアイドリに、ケルシュは言いにくそうに尋ねた。その瞬間、アイドリのこめかみがぴくりと動く。



「今後は旦那様とお呼びください。貴女とは何もかもが違う高貴なお方です。そのような方に対し、親でもないのに名前で呼ぶなど恥を知りなさい。」


有無を言わせぬ冷徹な声音で言い捨てた。

まるで世間知らずな小娘を見るかのように、蔑んだ目で見下ろしてくる。



この国では、どれだけ身分の高い家に嫁いだとしても、夫人が同じような扱いを受けることはない。

貴族の妻というのは、どこまで行っても身を粉にして夫を支えるという損な役回りであり、使用人の延長線上でしかないのだ。

夫のためだけに働き家の繁栄のために子をなす、それが妻に与えられた唯一の役割とされている。


そしてそれは、由緒正しい家柄であればあるほどその傾向は強くなるのだ。




「ダ、ダンナ、ダンナサ、ダンナ…」


言われた通り従順なこの国の女性らしく、『旦那様』と言い換えてこの場を収めようとしたが、どうにも全身むず痒くて言葉にならなかった。



「うん、無理だったわ。」


「は?」


潔くすっぱりと旦那様呼びを諦めたケルシュに、アイドリは目を見開き、得体の知れない化物を見るかのような目を向ける。


この家では代々、妻として家に入った女性よりも使用人頭の立場の方が数段上であった。

そして、新参者である妻となる女性にこの家の全てを叩き込むのが使用人頭のお役目だ。


それが当たり前であり絶対であるこの年季の入った貴族社会。


それなのに、妻という立場も実家の身分も何もかもが劣る目の前の女が自分に口ごたえをしてくる。その事実に、アイドリは怒りを通り越して全身に虫唾が走っていた。



「とりあえずこれを覚えればいいのね。暗記は得意な方だけれど…さすがに400年分は多過ぎるわ。現存している家系とそれに関わる家だけ覚えれば十分ね。あとはこの領地の特性と経営状況、隣国との昨今の関係性など一通り学んでおけば良いかしら?」


家系図の件に加えて指示を出そうと思っていたことを先に提示され且つ暗記する範囲を勝手に減らされ、アイドリは驚愕の顔で固まる。


これまで何人もの使用人を迎え入れ指導してきた経験はあるが、このように自らの意思で動く者は見たことがなかった。

皆言われたことだけを忠実に取り組むしもべのような存在であったのだ。



「アイドリ、貴女聞いているの?他にも何かあれば言ってほしいのだけど。」


「は、はい。十分にございます…」


二度も確認してきたケルシュに気圧され、アイドリはつい何も咎めることなく頷いてしまった。



「さっそく取り組むわ。」


「…よろしくお願いします。」


しっかりとアイドリの目を見て力強く答えるケルシュ。

それは、ケルシュとアイドリの立場が入れ替わった瞬間であった。


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