旅立ち前夜のひと時
「え!??明日アルシュベルテ領に向かうの!?」
驚きのあまり、ランナは口に入れようとしてきたクッキーをポロリとテーブルの上に落とした。
それを向かいに座るケルシュが拾い、ランナの口元へと運ぶ。
「ありがとう。……ひゃなくてっ!」
差し出されるがまま口を開けクッキーを食べさせてもらったランナは、咀嚼しながらセルフツッコミを入れて来た。
ダイテンの元へ行く前日となった今日、ケルシュは別れの挨拶のためランナの部屋を訪れていた。
急な結婚ということもあり準備に奔走していたせいもあるが、なんとなくランナには結婚のことを言い出せずにいた。
彼女が結婚に憧れている女性らしい女性であり、自分よりもよほど結婚に向いている。それなのに、結婚に後ろ向きだった自分の方が先に相手を決めてしまい、どこか出し抜いたような後ろめたい気持ちを抱いていたのだ。
「そんな話ひとつも聞いてなかったんだけど!一体いつの間にそんなことに…でもそんなことよりも何よりも、ケルシュ、結婚おめでとう。」
「え…いいの?」
「当たり前じゃない。私は素直に嬉しいよ。ただ、こうなるとエイトル君のことが心配になるよね…」
「そうなのよ。最近顔を合わせる機会が全くなくて避けられているみたいで…ってなぜランナが知っているのよ?」
途中で言葉を止めて心底不思議そうな顔で見てくるケルシュに、ランナはこれ見よがしに大きなため息を吐く。
「…そこまで鈍いと人生損するよ。」
「一体何の話かしら?」
「とにかく!エイトル君とはきちんと話をすること。分かった?」
「さっぱり分からないけど、分かったわよ。」
不服そうにしながらも頷いたケルシュに、今度は安堵の息を吐いたランナ。
幼い頃から仲の良かったランナは、当然エイトルのこれまでのことを良く知っていた。
不器用で雑なふりをして、その裏でどれだけケルシュのことを気遣い、彼女のために先回りをしていたかということを。
ケルシュが軒並み縁談を断る理由ももしかしたら…と勝手に淡い期待をしていたが、それは期待のままに終わってしまった。
だからこそ、最後にエイトルと向き合って欲しいと強く願い、ケルシュに求めたのだ。
「式、呼んでくれるんでしょ?」
「もちろんよ。ダメと言われても、私の名でコッソリ招待状を送るわ。」
「はははっ。相変わらずケルシュはケルシュね。そんなに強気な女性はこの国に貴女だけだって!」
いつものケルシュ節に、ランナは声を出して笑っていた。ひとしきり笑った後、笑い過ぎて潤んだ瞳を指で拭う。
「ケルシュ、落ち着いたら手紙ちょうだいね。私も送る。そして必ず遊びに行く。ケルシュも王都に戻った時は必ず声を掛けてね!」
「ありがとう、ランナ。貴女のおかげで私も頑張れそうよ。」
「うん、やっぱり最初は周囲からの圧もあって女主人の仕事を覚えるのがキツくて大変って言うから、なんとか乗り切ってね。辛い時はいつでも連絡して。応援してる。」
「え…そんな話初耳だわ。会ったこともない知らない相手の家に嫁いでその先でも苦労するって、結婚なんて一体何の価値があるのかしら…」
顎に指を置き、真剣な眼差しでこの国における結婚という制度の損得勘定を始めたケルシュ。
せっかく結婚を受け入れたというのに、変なことを言ってしまったとハンナは慌てて手を振る。
「ごめん!嘘だった!最近読んだ何かの小説の話と混同しちゃってた。へへへ。きっと幸せな毎日が待っているよ。私はそう信じてるから!」
「そうかしら…」
「そう!絶対にそう!そうなの!」
まだ納得のいっていなそうなケルシュに、ランナは「明日で立つんだからご家族に挨拶しないと!」と言って無理やり帰らせたのだった。
邸に戻ったケルシュは、ランナに言われた通り家族に挨拶すべく皆の所へ出向いていた。
ただし、家族と言っても挨拶に向かうのは父親のランロットと義弟のエイトルの元だけである。
彼女の実母は幼い頃に病で他界しており、後妻としてきたのがエイトルの母親のキャシーだ。
キャシーは典型的な王国女性であり、ケルシュとは何もかもが対極に位置していたため口喧嘩が絶えず、今では物理的な距離を置くこととなったのだ。
そのため、今の彼女が家族と呼ぶ者は父親と義弟のみであった。
「お父様、少しいいかしら?」
ランロットの部屋の外から控えめに声を掛けると、彼はすぐにドアを開けてくれた。そして、彼はなぜかひどく青い顔をしていた。
「ま、、まさかお前、今になって結婚が嫌になったなどとそんなこと言うまいな…」
震える声で尋ねてきたランロット。それは、これから嫁ぐ娘に対する言葉ではなかった。
「そんなことするわけないじゃない。今日で最後だから、挨拶に来たのよ。これまで迷惑を掛けてごめんなさい。お父様に安心してもらえるよう、立派に務めを果たして認められてもらうわ。」
「ああ…呉々も大人しく慎ましく余計なことは言わずに、出来るだけ目立たないよう地味に生き抜くんだ。そうすれば来年の今頃は安泰した暮らしが手に入っているはずだ。」
「まったく、注文が多いわね…」
またしても旅立ち前夜の娘に言うことではないことを口走るランロット。
だが、それに対するケルシュの返事も到底娘らしいものではなかった。
こうして、ケルシュ達らしい最後の挨拶は終わりとなった。
「あいつ、毎晩毎晩どこに行っているのかしら…」
次にエイトルの部屋を訪れたが、今夜も彼の姿はなかった。
誰に尋ねても彼の居場所は分からず、結局ケルシュはエイトルと碌に話の出来ないまま旅立ちの朝を迎えることになった。




