父親の取り越し苦労
「条件が一つだけある。」
眉間に皺を寄せたまま低い声で言ってきたダイテン。
威厳溢れる彼の声に、俯いていたランロットははっと青い顔で見上げた。
ただでさえ男性優位のこの世界で婚姻における女性側の立場は弱いと言うのに、最も高貴な身分である男に「条件」と言われれば身構えるのも無理はない。
足元を見られないよう、ランロットは鉄の味がするほど強く唇を噛み締め、ダイテンの言葉の続きを待つ。
「今日から1年婚約期間を設ける。式は、一年後の今日だ。その時を持って正式な婚姻として契りを結ぶこととする。」
ダイテンは、黒い瞳を細めてじっとランロットの反応を窺っている。
今すぐここで承諾せねばトーレン伯爵家諸共潰される、本能で強くそう感じたランロット。
元より辺境伯からの婚姻を断れるわけがなく、受け入れる覚悟を決めていたランロットだが、そうだとしてもケルシュに一言言ってからこの申し出を受けたかった。
だが、この場でそのような悠長なことは言っていられなかった。
相手が出してきた条件、婚約期間を設けるとは即ちその間ずっと妻としての真価を問われ続けるということ。それは娘にとって不利にしかならない。
しかし、そのように厳しい待遇を提示してくるこの目の前の男が返事を待ってくれるはずがなく、今この瞬間にも実力行使に出るかもしれない。
娘のためにも、来年の成人を控える息子のためにも、ここで事を荒立てるわけにはいかなかった。
ランロットは拳を握りしめ、覚悟を決める。
一方、ダイテンはその威圧をかける険しい表情の下で内心焦りまくっていた。
条件などと試すような口ぶりをしてしまい、気を悪くさせただろうか…
彼女とは気持ちを通わせた上で夫婦の契りを結びたいだけだというのに…キルトの奴がそれでは威厳がどうのこうのと煩わしいことを言ってくるせいで全く、憎たらしい。
惚れた相手を口説くための時間が欲しいと伝えて何が悪いと言うのだ。
相手の心を手に入れていないのに形だけの夫婦になって一体何の意味がある。
『妻となるケルシュ嬢まで笑われるハメになるんだ。』
「…っ」
ふとキルトの言葉が頭をよぎり、ダイテンは冷静さを取り戻す。
彼女のためにもここで引くわけにはいかなかった。
「貴殿の答えを聞かせてもらおうか。」
「…おっしゃる通りに致します。」
額に脂汗を滲ませたランロットは奥歯を噛み締めながら了承の旨を伝えた。
ダイテンは初めからそうなることが分かっていたかのように、軽く顎を引く。
「では一ヶ月後、迎えの馬車を向かわせる。それまでに準備をしておくように。」
ランロットのサインの入った婚約証明証を大切そうに胸ポケットにしまうと、ダイテンは部屋を出て行った。
「ケルシュにはなんて言えばいいのか…」
ランロットは、テーブルの上に両肘をつき、頭痛の鳴り止まない頭を両手で押さえ込んだ。
それから1時間後、急ぎ戻って来いと指示を受けたケルシュが邸へと戻ってきた。
気まずような顔でランロットの待つ彼の部屋のドアを開ける。
「お父様、エイトルが言ってたことは全て彼の判断で私は関係な…」
「ケルシュ、お前の結婚が決まった。」
部屋に入った瞬間言い訳を述べようとする彼女の言葉を遮るように、ランロットは彼女の方を見向きもせず早口で伝えた。
そうでもしなければ到底伝えられるはずがなかった。
あれだけ娘の意思を最大限尊重しようと思っていたのに、結局は権力に屈してしまった。そんな情けない姿を晒す己に吐き気さえしてくる。
だがもう引き返すことは出来ない。
「婚約期間を1年間設けるそうだ。その後に正式に婚姻を結ぶこととなる。お相手は、この国の独身貴族で最も身分の高いアルシュベルテ辺境伯だ。お前にはすまないと思っている…だが、辺境伯家は資産も潤沢で王家からの信頼も厚い。だからそこに嫁げることはお前のためでもあるんだ。」
言い訳がましいと分かっていながらも、ランロットにはこう言う他なかった。
既に決まってしまったことならせめて、娘には将来安泰だと安心して欲しいと思いを込める。
立て続けに耳に入ってくる情報に、ケルシュはその大きく丸い瞳を更に大きく見開く。
「婚約期間があるって本当?」
「…ああ。その条件は絶対に譲れないと。お前には申し訳ないと思っている。不安定な立場を強いてしまって…本来ならすぐに辺境伯夫人という立場を手に入れられるものを…」
「いいわよ。」
「は…え、お前は今なんと言った?」
「その結婚お受けするわ。」
「なっ、何だと…」
父親の押し潰されそうなほどの自責の念と不安をもろともせず、あっけらかんとした顔で快諾したケルシュ。
ランロットが長年待ち侘びた歓喜の瞬間であるはずなのに、あまりにあっさりとし過ぎていて強烈な不安が波のように押し寄せてくる。
「お、お前、あれだけ断ってきたというのに…なぜそんなにも簡単に…」
「え、私だっていつか結婚しなければならないのでしょ?婚約期間が設けられているなら、何かあれば向こうから無かったことにしてくれると思うし、それに、」
一度言葉を区切ったケルシュは、青ざめているランロットに向かって安心させるように微笑みかける。
「まだ姿を見たことがないから、拒否する理由がないのよ。」
「は…」
開いた方が塞がらないランロット。
確かにこれまでの釣書には漏れなく本人の豪奢なほどの姿絵が付いており、ケルシュはその絵を見た途端顔を歪めていた。
こんなことなら最初から姿絵を見せなければもっと早くに結婚話がまとまっていたのでは…
ランロットの中にそんな気持ちが込み上げる。
「私もひとつ条件があるから、後で手紙を書くわね。エイトルにも伝えないと。」
口を半開きにしたまま固まるランロットを無視して、ケルシュは淡々と今後の話を始める。
僅か半日であまりに多くの衝撃を受けたランロットの耳には、彼女の言葉は一つも届いていなかった。
その日の夕方、学園から帰宅したエイトルが制服のままケルシュの部屋に怒鳴り込んできた。
「お前!結婚の話を了承したって本当なのかよ!」
開け放ったドアに手をかけたまま、肩で息をするエイトル。
ランロットから話を聞き、その勢いのまま彼女の部屋に押しかけてきたのだ。
語気を強めるその態度とは裏腹に、彼の顔は今にも泣き出しそうなほど心痛に歪んでいた。
どこか期待するような祈るような気持ちでケルシュの返事を待つ。
「ええ、本当よ。私が決めたの。」
「嘘だろ…」
机で手紙を書いていたケルシュは、ゆっくりとエイトルを振り返りはっきりと言葉にした。
聞きたくなかった彼女の言葉に、その変えられない意志の宿った声音に、エイトルの世界から音が消えた。




