ランロットの憂鬱な朝の始まり
ランロットは一睡も出来ないまま自室の肘付きソファーで朝を迎えていた。
目の下に隈が出来ている彼の手には、アルシュベルテの紋章が押された一枚の便箋がある。それは、昨日夜送られてきたものとは思えないくらいに皺が出来ており、何十回と開いては閉じ、目を通したことが見て取れる。
「まずは、ケルシュと話をせねば。」
ランロットは肘掛けに手を付いて体重を預けながら、ゆっくりと重い腰を上げた。
軽く着替えを済ませたランロットがダイニングに向かうと、いつもならこの時間ここにいるはずの彼女の姿がなかった。
食べた形跡も無いその様子に嫌な予感しかしない。
「ケルシュはどうした?」
ランロットは近くにいた使用人を捕まえて尋ねた。
「ケルシュ様はその…お急ぎのご用件とのことでアイカル伯爵家のお邸に…」
「まったくあの子は…」
頭痛が増したランロットは近くの椅子に座り、お茶を持ってくるよう使用人に伝えた。
だがその僅か数分後、息を切らしひどく慌てた様子の使用人が戻ってきた。
「だ、旦那様っ!!」
「大声を出すな騒々しい。ただでさえケルシュのことで頭が痛いというのに。」
片耳を押さえてしかめ面をするランロット。
それでも使用人の勢いは止まらず、座っている彼の両腕を掴み極限まで見開いた目を向ける。
「へ、へへ、辺境伯の馬車がお見えになっております!い、いますぐ、旦那様にお会いになりたいと、すぐそこに…」
ー コツコツコツ
その時、厚底の革靴が床面を歩く音が聞こえてきた。それは、ダイニングの入り口に近づいてくる。
ゆっくりとしたテンポだが、その音が迫るスピードから歩幅が大きいことが分かる。
それは小柄な血筋を持つトーレン伯爵家では聞きなれない音であった。
「貴殿がトーレン伯爵か?」
椅子に座って固まるランロットの目の前で足を止めたダイテンは、長身を屈め覗き込むような姿勢で問いかけてきた。
少し伸びた艶やかな前髪の間から、黒曜石のように美しい瞳が覗く。
人としての美しさに目を奪われ、屈強な男達が多いこの国の中でも随一と思われるその恵まれた体躯に圧倒され、ランロットは不敬にもこくこくと頷くことしか出来なかった。
「俺の名は、ダイテン・アルシュベルテ。貴殿の娘の夫となる者だ。」
ダイテンは胸に手を当て、優美な姿勢で騎士の礼をした。
「婚姻のことで少々話がしたい。」
「も、申し訳ございません…娘はその…野暮用で外に出ておりまして…ははは。」
無意識に手の甲を擦り合わせるランロットだったが、ダイテンは凍てついた視線を投げつけてくる。
「貴殿と話が出来ればそれでいい。これは決定事項だ。」
美しい宝石のようだった黒眼は、鋭い視線に代わり、たちまち鋭利な刃物のようになる。
聳え立つ山のように人外な圧をかけてくるダイテンに、ランロットは従う他なかった。
ダイテンは向かい側の席に腰掛け、激しい動揺で引き攣った顔をしているランロットと対峙する。
ランロットが手元しか見ていないのをいいことに、ダイテンは隠れて小さく息を吐いた。
『キルト、明朝馬車を用意しておけ。トーレン伯爵の元に行く。』
『おいまさか…お前自分で結婚の了承をもらいに行く気じゃないだろうな…?』
『当たり前だろう。大切な娘さんを妻に迎え入れるのだ。これまで大事に育ててきた親御さんに挨拶をするというのが礼儀ってもので…』
『何百年前の話をしてんだ、お前は!今そんなことをすればひ弱な男だと馬鹿にされるぞっ。この時代、そんな馬鹿げたことを言うのはお前くらいだ。今は書面だけ出して問答無用で嫁にするのが男らしさってもんだ。』
『ひどく屈折している。だから俺はこの世界と相入れないのだ。愛する人も愛する人を育ててくれた人も尊重すべきだろ。こんなことも叶わぬというのなら、一層のこと彼女を連れて国外へ…』
『おい、待った!それだけは絶対にするなよ。北の英雄がいなくなればこの国は潰れる…分かったよ。挨拶でもなんでも行ってこい。ただ一つだけ、間違っても下手に出るなよ。辺境伯としての威厳を保て。でないと、妻となるケルシュ嬢まで笑われるハメになるんだ。分かったな?』
『…善処する』
キルトの忠告を守っているダイテンであったが、すぐにでもランロットにケルシュの好きなものや嫌いなものなどあらゆることを聞きたくて仕方なかった。
その欲を必死に堪えた結果、眉間に皺が寄りランロットに更なる圧をかけることとなっていたのだった。




