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今回は謎解きのない回です……。次話は、ちゃんと事件の謎解きをします。
杏樹は珈琲を飲みつつ、辞書片手にシャーロック・ホームズの原書『A Study in Scarlet』をのんびり読んでいた。と、何やら廊下から賑やかな声が聞こえてくる。
やがて玄関扉の開く音がして――
「おはよーございます、杏樹さま!」
元気一杯な挨拶が響き、杏樹は軽く額をおさえた。
「有馬。玄関でそんな大きな声を出さんとって!ご近所さんに丸聞こえやん」
「でも挨拶は元気よく!というのが、我が家の決まりなんです」
「時と場所を考えなアカン。もし、お隣さんで病気の人が寝てたらどないするん」
何やら荷物の入った風呂敷を下げて、富久とともに室内に入ってきた有馬はきょとんと首を傾げた。
「すみません。自分は杏樹さまのご近所さんとはお付き合いがないので、事情まで分かりませんでした。謝ってきた方がいいですか?」
「ちがーう!もし!"もし"って言ったやん。仮定の話や」
「あ、そうなんですか。じゃあ、心配ないですね!でも、病気の方も、元気な挨拶を聞く方が元気が移っていいかも知れませんよ」
ぷっ。
富久が吹き出した。
「ホンマですなぁ。有馬さまのお声を聞いていると、元気というか、楽しゅうなります」
「うちは頭が痛くなるわ。こんなに話の通じへん人間がおるなんて信じられへん。……で。なんの用なん、有馬。今日は来る予定、なかったやろ?」
本に栞を挟んで閉じ、杏樹は有馬を見上げた。
有馬は下げていた風呂敷を富久に渡す。
「おおきに、有馬さま」
「いえいえ。もっと重くないと鍛錬になりません」
「ふふふ、そない重かったら大変や、富久やったら階段を上れやしまへん」
ほな、珈琲を淹れますねぇと富久は台所へと引っ込んだ。
それを見送ってから、有馬は杏樹の前に腰を下ろす。そしてニコニコしながら、こんなことを言い出した。
「えっとですねー、幽霊が出たんです!これ、環さまにお知らせした方がいいですか?」
どうですか、重大事件でしょう?という様子の有馬と対象的に、杏樹は渋い顔になった。
「……詳しい話、うちが先に聞いてからや」
――有馬の学生時代の先輩が、神田の辺りの長屋に住んでいるらしい。
「わりと最近できた二階建ての長屋なんですよ!新しいところって、畳の匂いがして良いですねー」
「はいはい。で、幽霊はその先輩のところに出たん?」
有馬はすぐ話が脱線するので、杏樹は落ち着いて話を元に戻す。
有馬はこくこくと頷いた。
「すごいですね、杏樹さま。その通りです」
「いつ、出たん?」
「昨日の夜です」
「一度だけ?」
「いいえ、その前に二度ほど出たそうです。怖くなった先輩が、自分に連絡してきまして。一緒に一晩いてくれと」
「え?じゃあ、有馬も見たん?」
「いえ、出たみたいですけど、自分は寝てて見られませんでしたー。先輩、何度も起こしてくれたらしいんですけど。……残念です」
「……」
思わず杏樹は額を押さえた。
怖いから一緒にいてくれと頼んだ先輩も、人選を間違えたと思ったことだろう。
有馬は幽霊を見ても怖がらずに話しかけに行くような人間なのは確かだが、寝付きが恐ろしく良い。そして寝ると、雷が鳴っても起きないと聞いたことがある。そのおかげか、朝の目覚めは非常に良いらしい。明るくなれば、勝手にすっと起きるのだとか。
「有馬が見てへんのやったら、まだ環に言うのは早いわ。先輩の勘違いかも知れへんやん」
「三回も勘違いですか?」
「怖いって思たら、なんでも幽霊に見えてくるもんやねん。……ほな、その先輩んとこ、案内して」
そう言って杏樹が立ち上がったとき、有馬の分の珈琲を持った富久が現れた。
「あらあら、もうお出掛けしはるんですか」
有馬がハッとしたように富久を見る。
そして、「珈琲、ありがとうございます!」と礼を言って……富久の持つ盆から珈琲を取り、一気に飲み干した。
「ヒリヒリするれす……」
「淹れたての珈琲を一気飲みするからや。珈琲を飲む時間くらい、待つのに」
有馬と二人、街を歩きながら会話する。
「れも……あんじゅさまがやる気になったときに行かないと……」
体格の良い有馬がシュンと身を縮めていると、なんとも滑稽だ。
杏樹は小さく鼻を鳴らした。
「せやから、珈琲を飲む時間くらい、待つって言うてるやん。どんだけうちのこと、せっかちやと思ってるん?」
「こーひーのみおわるまれ、待れないせっかちとおもってまふ……」
「どついたろか」
「しゅ、しゅみません……!」
ぶふっ。
冗談の脅しに舌足らずな必死の謝罪をされて、杏樹は我慢できず吹き出した。
これだから有馬は憎めない。
それにしても、父はこんな頼りない有馬のどこが気に入ったのだろう?
まだ新しい木造二階建ての長屋に着いた。
「先輩の部屋は二階れふ」
長屋の中へ入る前に、建物全体を眺める。
造りは、昔ながらの奥に長い長屋のようである。両隣も、同じような長屋だ。
両隣のことは分からないが、この長屋は二階を単身者用に貸し部屋として貸しているらしい。二階の三部屋が貸し部屋だそうだ。
「この正面に見える部屋が、先輩の部屋れすね」
有馬が二階を指して、教えてくれた。
その窓を見ながら、杏珠はふと気になったことを口にする。
「あ、そういえば幽霊は、部屋に出たん?」
「いえ、窓を叩く音がして、窓を開けたら下の道に立っていたって聞いれます……この辺りれすかね」
長屋の前の道は、道幅九尺(二.七m)ほど。
向かいには黒ずんだ背の高い板塀が並んでいる。向こう側に何があるかは、有馬は知らないらしい。
この辺りに街灯はないため、きっと夜は真っ暗だろう。
杏珠はくるっと周囲を見渡し、「ふうん」とだけ呟いた。
そして、有馬に続いて長屋の中へ入る。
横開きの戸を開けると、そこは狭い玄関土間だ。
正面は襖がぴったりと閉められている。この奥が大家さん家族の部屋で、二階の貸し部屋には三和土を上がって左の急な階段で上がるようだ。
三和土には、今は下駄が二つと靴が一つ、並んでいる。
杏珠と有馬は履物を脱いで、上がり框に上がった。
そのときちょうど、五十代くらいの男性が正面の部屋から出てきたので、杏珠と有馬は慌てて頭を下げた。大家だろうか。
「えと……二階の湖洲さんに用がありまして」
有馬が男に説明する。男は頷いて、杏珠をちらっと見た。
「あんた、昨夜、湖洲さんとこに泊まってたよな。今度はその子を連れて、湖洲さんところへ行くのかい?」
有馬が「はい」と素直に頷く。
すると男性は、少し有馬に近寄って声をひそめた。
「あんたなぁ。こんな可愛い彼女を連れて、あの男の部屋へ行くなんて何を考えているんだ。あいつ、可愛い女の子を取っ替え引っ替えして遊んでいる悪いヤツだぜ。その子、狙われるぞ」
「え?」
きょとんと有馬は男を見返す。
杏珠は有馬を押し退けて、男性の前に立った。
「湖洲さんって、悪い人だったんですか?彼がお世話になっている先輩なんですけど。でも、もしかして……女の人に恨まれていそうな人だったりとか?」
ちょっと小首を傾げて、可愛く男を見上げる。男は鼻の下を伸ばしながら頷いた。
「ああ、恨まれていると思うけどなぁ。だって、しょっちゅう、ちがう女の子を連れ歩いているからね。この間なんか十五、六くらいの少年が来て、"姉を弄んだ、この人でなし!"と怒鳴っていたしなぁ。悪いことは言わねぇ、帰りな」
「ありがとうございます。でも、どうしても湖洲さんと話をしないといけないことがあって……気をつけますね。ご丁寧に教えていただき、ありがとうございます!」
「お、おう」
真面目な顔をして杏珠は深々と頭を下げたので、男は照れながら何度も頷いた。
その横で有馬がこっそり、
(いつものことだけど、杏珠さまの変身っぷりスゴイなぁ。先輩より、杏珠さまの方が悪い人っぽいかも……)
と、思っていたことは秘密である。




