(4/5)五徳はきれいになったけれど何も変わってはいなかったんだ。
コーヒーを入れて、冷凍していたクロワッサンを温めた。
デパートで買ったバターがたっぷり練りこんであるサクサクのクロワッサン。
紙のような味がした。
鏡を見ると目の下にはっきりとしたクマができていた。髪もボサボサだ。自分がスーツを着たままだということに初めて気づいた。
あーあ。ブランドもののシャツにコゲがついてさんさんたるありさまになっている。
クリーニングとかそういう問題じゃないべ。
いつものスエットに着替えた。ドアを見ると朝刊が入っていた。新聞屋さんいつ来たんだろう。全然気づかなかった。
紙面いっぱいに発覚したばかりの汚職問題が載っていた。
どうでもいいや。
世間のこととかどうでもいい。仕事ももうどうでもいいや。何にも興味がわかない。
とうとう、祐一は帰ってこなかった。
無断で外泊なんて結婚5年で始めてのことだ。
愛って終るんだなあ。
今までだって終ってきた。なのになんで祐一とだけは永遠に続くような気がしていたんだろう。そんなわけないだろ。新聞を玄関の靴箱の上に放り出し、アタシはダイニングテーブルに戻った。
五徳を見る。
汚れはほとんど取れたのだが取りきれなかった部分が表面全体にまだらのように残っている。これを一つ一つカッターで削っていくのは面倒だった。
ふと、家に紙やすりがあることを思い出した。こすってみようか。それにしても五徳ってなんて丈夫なんだろう。カッターをいくら当てても引っかき傷すらつかないとは。
鉄ってすごいなあ、ってなんだその感想。
紙やすりを取り出し、ためしに五徳の表面をこすってみた。
ジャリジャリジャリッ。
確かな手ごたえとともに黒い汚れが茶色い粉になった。
濡れた布で拭くと汚れが根こそぎとれてピカピカの表面が現れた。
す……すごい!
今までちまちま削ってきただけに快感だった。よーし。ここにあるまだらを全部こすり落としてやる。あとちょっとだ。あとちょっとで。
五徳は新婚当時のものに戻る。
◇
陽射しが東向きのダイニングに差込み、アタシの顔を照らしたようだけれど眩しいと感じることはなかった。
備え付けの置物のようにアタシは椅子を占拠しつづけ、五徳を紙やすりでこすった。
表面をこすって。突起部分をこすって。突起の根元を細かくこすって。輪っか状になっている側面を仕上げて、裏面も綺麗にして終了。
テーブルと、新聞と、紙やすりと、濡れたふきんと、乾いたふきんと、カッターとそして五徳。
徐々にアタシは何も考えなくなった。
目の前にある汚れを取り去って新品の五徳を取り戻したい、それだけを思った。
時折、時計の秒針に気づいた。チ……チ……チ……チ……。
時計を見る、すぐに視線を五徳に戻す。がんばれ。
もう少しだ。
もう少しだよ。神崎凛子。
◇
お日様が隠れて月がでようとする頃になってもアタシはこの作業をやり続けた。1つの染みも許せない。小さく切った紙やすりはみるみる数を減らしていった。
あと1枚で終りですよ、という段階まで来て五徳が信じられないほど綺麗になったことを確認した。よーし。最後の紙やすりは慎重に。一つの磨き残しもないように。
アタシは大事に大事に3つの五徳のコゲを削った。
これでもういいかな……という段階になってシンクへ行き、五徳を洗った。乾いたタオルで拭いた。キッチンの照明に五徳をかざす。
「でけたあ!!!!」
すげえ! どう見ても買ったばっかりだ。やればできる! できるよ凛子くん。
夜7時だった。五徳を磨きはじめてから既に22時間が経過している。
いやあ! すがすがしいなあ!
こんなに綺麗になるならもっと早くにやるんだった。汚れた五徳なんかで毎日料理をするんじゃなかった祐一。
祐一、いいよ。あんたが望むなら離婚してあげるよ。
そしたら彼氏の一人や二人や四人や十六人作って、女友達と毎晩遊んで、今までできなかったことなんでもやってやる。仕事だって今まで以上にバリバリやって、最年少で部長になって、こうなったら社長の座だって狙ってやる。
楽しみだあ。
アタシはフンフンと歌いながらガス台に五徳をはめ直した。
◇
一通り拭いたガス台に、はめなおされた五徳を見つめてアタシは後悔をした。なんで掃除を終らせてしまったんだろう。もう何もやることがない。
あとは泣くぐらいしかすることがない。
もう耐えられなかった。涙はどんどん落ちてきた。
景気よく拭いたばかりの五徳を濡らす。換気扇カバーの照明に照らされててらてらとしっとりと五徳が光った。
畜生。このままではキッチンで溺れ死んでしまう。涙を止めなければ。涙を止めてなにか前向きなことを考えなければ。
祐一。
頼むよ。離婚なんて思いとどまってくれよ。
悪いところがあるのなら。というか悪いとこばっかだけど直すから。なる早で直すからさあ。アタシの前からいなくならないで。
アタシはあんたが好き。5年たってもやっぱり好き。
あんたを失ったらアタシは明日からどうやって生きていけばいいの?
畜生。スーパーに行く度にプッチンプリンを買ってやっただろうがその恩を忘れやがって。アンパンだってわざわざあんたの好きなこし餡を選んでやってたろう。その恩を忘れやがって。
真っ暗な家で、キッチンだけが明るい。ガス台とシンクが照明を受けて輝く中、アタシは右手の甲を顔に当ててひとしきり泣いた。
◇
涙も枯れ、アタシはテーブルに戻った。ノロノロと掃除用具を片つける。
新聞紙もふきんもカッターも消え、綺麗になったテーブルに離婚届を置いた。
今、時刻9時。これは昨日のこの時間のアタシだな、と思った。
何も変わってはいなかったのだ。夢でもないし、五徳が綺麗になることと、アタシたちが元に戻ることは何の関係もない。
アタシは離婚届を見つめながら頭を垂れて椅子に座り続けた。すると。
ガチャッ。
音をたてて玄関のドアが開いた。
【次回 最終回】生まれたてのような五徳を見てほしい。




