(3/5)あの人は海のような人。
今、子供がいないことが痛烈に苦しい。
アタシも祐一も自分が食べていけるだけの稼ぎがある。家事だって一人でできる。住宅ローンもないし、介護しなきゃいけないような親もいない。
経済でも生活でもお互いを必要としないなら、何でアタシたちは一緒にいるんだろう。
子供がいればなあ。しがらみのないアタシたちには『一緒にいたい』という気持ち以外に頼るものがない。そして祐一はもうアタシと一緒にいたいとは思ってないのだ。
だからアタシたちはオワリなのだ。
「愛」なんて不安定極まりない綱の上でよろよろ歩くしかなかった、カラッポのアタシたちの結婚生活。
そしてその結果がこれだなんて。
アタシはカッターを動かす手を止めた。
アタシたちの間にはそんなものしかなかったなんて。
◇
一旦休もう、と思った。気がついたら夜中1時。五徳1つに4時間も手を動かし続けたことになる。
すっかり冷めたコーヒーを電子レンジへ持っていきチンした。
テーブルに戻って両手に抱える。
湯気が寂しくゆれていた。
時計の音がする。チ……チ……チ……チ……と秒針が回るのだ。
この5年。ただの一度も時計の音など気にしたことがなかった。アタシが気づきもしないのに針は回っていたのだ。同じ間隔で、時計盤の周りを動き続けていたのだ。
カスが五徳表面にいっぱいについていることに気づいた。それを払うために布で五徳を拭いた。
きゅー。きゅー。きゅー。
結婚なんて『いっぺんしてみたかった』そんだけのものだって気がする。
中学を卒業したら高校に行くように、みんなが大人になったら結婚しなきゃって思ってるからするだけのような気がする。
結婚はゴールなので、そこにたどり着いてしまったら、もうどうしていいのかわかりません。
なんのために、続けるのかがわかりません。
1年目は愛していた。2年目も愛していた。3年目で姉弟のようになり、4年目で空気のようになった。5年目には祐一がアタシにとって何なのかなんて、考えもしなくなっていた。
アタシには本当に祐一が必要なのか? 最早アタシを愛していない祐一の側にいることがアタシの幸せなのか?
なにもわからない、と思った。わからない、わからない、わからないと、思った。
時計の針は、動き続ける
◇
2つ目と3つ目の五徳をガス台から取り外した。うちのコンロは3つもガスがあって便利だなあ……その分掃除も3箇所だけど。
そもそもなんでアタシは五徳磨きなぞしているんだ。この家、引き払うかもしれないのに。
1人で住むには広すぎるよ。そんなところに毎日帰って来たくない。
離婚をしたら、もう何も制約されるものがないな、と思った。
いくらでも仕事をしていいし、転勤も自由だし、食事だって毎日買ってくればいい。たまに気を使って祐一と映画だレストランだ行っていたがその必要ももうないんだ。
飲み会だって今までは2次会を遠慮したりしていたがいくらでもいける。一晩中だって飲み続けられる。
2つ目の五徳の汚れを落としながら、アタシの心は砂漠を歩いていた。
誰も必要としていない、誰からも必要とされていない。このすがすがしい寂しさ。
地平線まで何一つない砂漠の岩山の上で、月を見つめるようなこの寂しさ。
広いなあ。
アタシは自由だ。
前に行くのも、後ろに行くのも、横に行くのも、斜めに行くのも自由。
自由だ!
なんて
寂しいんだろう!!
◇
仕事に、生きればいいよ、と思った。仕事はアタシを裏切らない。アタシが頑張ったら頑張っただけの手ごたえを返してくれる。可愛い(?)部下もいるし、動かさなければならないシステムもある。それが、アタシの子供だよ。
そんで適当に遊んで、適当に男作って、自由気ままに生きよう。そうだ。アタシにはそういう生き方こそが相応しいんだ。
あんなぽやぽやした男と結婚したりして、5年も損した。
脳裏を巡る理屈とウラハラに気分がどんどん沈んでいった。
祐一、悪かった、と思った。
仕事でイライラしたらいつもあんたに当たっていたよね。あんたのせいじゃないのに。
早く帰ってくるからと洗濯も掃除もやってくれていた。買い物も頼めばしてくれた。料理だけは作れなかったが、アタシの出すものなど出来合いか適当なものだった。
1ヶ月仕事が立て込んだときは毎日コンビニだった。
それでもあんたは一つも文句を言わなかったのに。
家政婦やって、カウンセラーやって、マッサージ師にもなって、それなのに全然感謝されない。
もうほとほと疲れちゃったよね?
アタシは雨の日のことを思い出した。
◇
夕方、突然の雷雨がやってきた日があった。
バケツの水をひっくり返した感じ、というよりは、タライの水をひっくり返した感じだった。
ドバーーー!
ドバーーーー!
社員全員窓辺に集まって「早く帰ったほうがいいぞ」「これうっかりすると電車止まるぞ」と大騒ぎ。
アタシも仕事に一区切りついたし、帰っちゃえ今日は、と片付け始めた。
あ~。
…………傘忘れた。
『社内にある適当な置き傘をぶんどって帰りますか』と思ったが、そうだ、と祐一に内線をかけた。
もう帰る? 帰るよ。傘持ってきた? 持ってきたよ。夕方雷雨になるって天気予報で言ってたじゃない。
天気予報なんざ見とらんわ。お前と違って忙しいんじゃい。
祐一は受話器の向こうでおっとり笑った。じゃあ今凛ちゃんのところに迎えに行くね。
祐一がやってきたので階段を使って1階のエントランスまで降りた。
さあ、傘を開きましょうかという段階になってメールを1通送ってないことに気づいた。
「祐一、ちょっと忘れ物。10分くらいで戻ってくるから」うなずく祐一をはた目に階段を駆け上がった。
で、メールを打ち終わって戻ろうとした途端に部下が緊急連絡をしてきたのだ。
稼動したばかりのシステムに重大な欠陥が見つかった。脳裏に被害総額が8ケタで浮かんだ。祐一のことなど頭から消し飛んだ。
それから1時間原因の究明に奔走したが、結局思ったよりも大したものではなく、明日午前いっぱい調整をすればいいレベルだった。胸をなでおろした。
で、祐一のことを思い出したのだ。
慌ててエントランスに下りると祐一が応接コーナーにポツンと座っていた。
「ごめんね、待たせて」と言おうとしたのに祐一の顔を見た瞬間に全然違うことを口にしていた。
「なにやってるの?」
◇
祐一、鳩が豆鉄砲くらったような顔。
「何やってるの? って凛ちゃんを待ってたんだよ」
「だからって1時間もたってるのよ。フロアに見に来るなり先に帰るなりすればよかったじゃないの! ぼーっとそんなところで待ち続けて。馬鹿じゃないの?」
「え……。いや。凛ちゃんの携帯に電話したんだけどなんか電源切ってるみたいだったから。僕が階段を登ってフロアに見に行ってる間にエレベーターで降りてくるかもしれないでしょう? そしたらはぐれちゃうじゃない?」
う、そうだ。電源切っていた、と内心焦ったが引っ込みがつかなくなっていた。
「そんでそんなところで座ってたの?馬鹿じゃない? 馬鹿でしょ。そういうところがみんなに『ぼんやりさん』って言われちゃうところなのよ。社内に使ってない傘なんていくらでもあるんだから何とかするわよ。子供じゃあるまいし。ほんとムカツクわそういうところ。」
祐一は悲しそうな顔をした。
なんでそんなこと言っちゃったんだろう、と今でも思う。
所在なげに応接コーナーの椅子に座って、組み合わせた指先を見ている祐一に気づいた瞬間、すごく罪悪感を覚えちゃったんだ。で、自分のせいだって認めたくなくて祐一のせいにしたんだ。なんて天邪鬼で不器用な自分。たった一言「ごめんね」と言えば済むことだったのに。
ところが次の瞬間祐一はにっこりとした。
「そうだね。今度からはそうするよ。凛ちゃんも子供じゃないもんね」
そして自動ドアから外に出ると『ぽんっ』と傘を開いた。
「帰ろうね。凛ちゃん」
雨は相変わらずの勢いだった。謝りそびれたアタシは黙って祐一と傘に収まった。プッシュ式の大きな紺色の傘。アタシたちを雨から守るのに十分な広い傘。
歩きながら祐一は言った。
「ところで凛ちゃん。何かトラブルでもあったの?」
こうこうこういうわけで。ことによっては数千万の被害がでるトラブルで、とアタシは勢いこんでしゃべった。
だから祐一を待たせたのはわざとじゃないのよ。止むを得なかったのよ。弁明したい気分だった。
「そうなんだあ。それは大変だったね。被害が少なくてほんとうによかった。今日は買い物できなかったから地元のラーメン屋さんで食べて帰ろうね。凛ちゃん」
お疲れ様。今日は特別にラーメンに餃子とビールをつけようね。
傘骨に貼られた布に叩きつけられる雨粒。ヒールを踏み入れる度に跳ね返る水溜り。祐一がアタシの方に傘を向けてくれているのがわかった。
アタシは黙って祐一の手先を握った。祐一はただ前を向いている。
なぜ。
なぜ今まで一人で生きてきたような気でいたんだろう。
祐一がいなければアタシは課長になれなかったんじゃないだろうか。次々やってくる難題課題にこれほど安定した気持ちで立ち向かえたりしなかったんじゃないだろうか。
あの人は、何が投げ入れられても同じ水位を保つ、海のような人でした。
でももういない。
彼が帰ってくるときは、アタシに別れの話をするためなのだ。
3つとも五徳の汚れを削り終わった。
もう、朝の8時だった。
【次回】五徳はきれいになったけれど何も変わってはいなかったんだ。




