52話 休息
光差し込まぬ洞穴の奥深く。その魔族は生まれて初めて味わう感情に身体を支配されていた。その感情は、恐怖。
絶対強者である筈の魔族にとって、恐怖とは弱者に植え付けるだけの感情であった。人間を嬲り、心に恐怖を与え、その姿に愉悦を零す。
言うなれば、恐怖とは人間を嬲る娯楽にかかせない最高のスパイスという認識だった。自身には何一つ関係のない感情だと、決めつけていた。
だが、今、彼は己に近づいてくる青年の足音に完全に怯えきり、身体が竦んで動くことすらままならない。
この感情を恐怖以外、何と表現するべきだろうか。弱者が強者に、狩られる者が狩人を恐れるように。彼の立場は今、いつもの蹂躙すべき立場から蹴り落とされてしまったのだから。
「抵抗は終わりか?――下らんな。その程度の実力で、貴重な人間共を自身の愉悦の為に嬲り殺していたのか」
「ひ、ひいいい!」
一歩、また一歩と近づいてくる黒髪の青年の言葉に、心が恐怖で狂いそうになる魔族の男は、情けない悲鳴をあげる。
だが、そんなもので死神の足は止まらない。先程、魔族の男の右腕を切り飛ばした大剣を軽く振って、再び底冷えするような声を男に投げつけるのだ。
「俺様が世界を支配したとき、人間には俺様に対し、怯え心から平伏する重要な役割が在る。言ってしまえば、俺様の支配する民共だ。
更に言うならば、人間は俺様の所有物に他ならない。そんな俺様の人間を、貴様は下らぬ愉悦の為に数百人もの屍を積み重ねた。
ふん……考えるまでもない。重罪、万死に値する。例えどのような理由があろうと、人間を殺し玩ぶ貴様のような塵は、疾く消さねばならん」
「き、貴様が言うのか!同じ魔族である貴様がっ!」
「同じ?馬鹿を言うな、小物が。俺様は悪に確固たる美学を持っている、それを貴様如きと同列扱いにされるとは……また一つ、貴様の罪が増えた。
もはや語る気すら失せたわ――消え失せろ、俺様の支配する世界に貴様のような人間を害する塵は必要ない」
それが、男の最後に耳にした言葉だった。黒き死神が解き放った一閃は、魔族の身体を頭蓋ごと真っ二つに切り裂いて。
絶命した魔族の男、その亡骸にも青年は微塵も興味など持ち得ない。血のついた大剣を振り払いながら、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「……誇りも美学も持たぬ悪共が。まあいい、紛い物を全て消し去ってしまえばいいだけのことだ。俺様の野望の為……唯一無二の悪として咲き誇る為に」
青年は用は済んだとばかりに洞穴から転移を行い、その場から瞬時に消え失せた。
その洞窟に積み重ねられた百を超える魔物の死骸と、魔族の男の哀れな亡骸を置き去りにして。
「あのね、私達は魚を釣りに来たのよ。魚釣り、分かる?アンタが夕食は魚が食べたいからとりにいこうって言ったんでしょ?」
「むははははは!何を分かり切ったことを言っておるのだこやつは!」
「アンタが微塵も分かってないから言ってんでしょ!その手に持ってる訳の分かんない禍々しいものはなによ!釣り竿持ってこいっつったでしょ!」
太陽が真南からゆっくりと下っていく頃合い。
キロンの村の傍を流れる渓流にて、怒鳴り合う二人。否、一方的にマリーヴェルが怒鳴ってサトゥンが笑い飛ばしているといういつもの光景だ。
その光景を苦笑しながら眺めるのは、リアンとメイアだ。マリーヴェルの突っ込みに同意見なだけに、二人は止めることもできない。
昼食を終え、午後の仕事や鍛錬に戻ろうとしたリアン達に、突如サトゥンが思いついたように言った一言、それは『魚を食べたい』というものだった。
いきなりサトゥンが思いついたように行動するのは日常茶飯事、しかも今回はそんなに無茶苦茶な訳でもないため、リアン達は同意して彼と共に午後から釣りをすることにしたのだ。
ただ、グレンフォードとロベルト、そしてライティとミレイアはここには来ていない。
ロベルトとグレンフォードは最近マンツーマンで何やら特別メニューをこなしているらしく、辞退。ライティもそれに付き合っているので、同様だ。
ミレイアは教会での仕事があるので、これまた辞退だが、正直なところ逃げたという方が正解だろうか。サトゥン遊ぶところ乱あり、極力巻き込まれない為に理由をつけて逃げたミレイアである。
よって、残るメンバーであるサトゥン、リアン、マリーヴェル、メイアの四人で釣りに訪れた訳なのだが、早々にサトゥンがマリーヴェルに怒鳴られている。
釣り道具を持っている村人に釣り具を借りて、現地集合した四人だが、ただ一人別行動で集まったサトゥンの持つ竿、まずこれがおかしい。
リアン達の持つ物は、丈夫かつよくしなる木材を使ったものであるのに対し、サトゥンのそれは何故か深紫に染まり明らかに太い。長さもリアン達の竿の三倍はあり、明らかにおかしい。
竿から溢れ出る禍々しい気配から、その竿がどう考えてもサトゥン自作のものであることは明白。釣り竿というより、槍と言った方がいいのではないかと思える巨大竿に、マリーヴェルがたまらず突っ込みの怒声をあげているというわけだ。
彼女の突っ込みに対し、サトゥンは自信満々の笑みを浮かべ、胸を張って反論する。反論と言うよりも主張だろうか。
「ぬははははは!勇者が小魚など釣っていては村の子供達を落胆させてしまうではないか!
私が吊り上げるのは巨大竜をも遥かに超越する巨体を持つ大魚よ!故に竿も、私自ら独自のモノを精製したのである!」
「そんな馬鹿でかい魚がこんな渓流にいる訳ないでしょうが!」
「釣りあげた暁には、村人全員で魚祭りを開催しようではないか!くはははは!楽しみに待っているがよい、村人達よ!」
自分の話を何一つきいちゃいない勇者様に匙を投げ、勝手にしろとばかりにマリーヴェルは話を切り上げてリアンの隣に腰を下ろす。
不機嫌なマリーヴェルを宥めながら、リアンは三人分の釣り竿の準備をする。餌付けした釣り竿をマリーヴェルへと渡す。
そして、メイアの分も餌をつけようとしたリアンだが、メイアは微笑みながら首を振ってそのまま釣り竿を受け取る。
「メイア様、その釣り竿はまだ餌が」
「大丈夫ですよ、リアン。私も騎士だった頃、何度か釣りを行っていた経験があります。針だけあれば、餌は必要ありませんから」
そう告げて、メイアは渓流の前に立ち、真剣な表情をして釣り竿を構える。
そして、まるで剣を鞘から解き放つように釣り竿をしならせ、針を水面へと投げ入れ、着水したかどうかの瞬間に、舞うように竿を引き上げる。
まさに一瞬の出来事。ひきあげた糸の先、針の先には魚が身体の一部を刺し貫かれたようにひっかけられ、釣りあげられていた。
その魚を用意してきた水桶に入れ、メイアはにこりとリアンとマリーヴェルに微笑む。最早釣りではなく鳥類の狩りと化しているメイアの一芸に、マリーヴェルはじと目を送って無言の抗議。『それ、釣りじゃないでしょ』と言いたいが、無垢なメイアの笑顔に、何も言えなくなる。
恐らく、メイアにとっての釣りは鍛錬の一部と化しているのだろう。達人の考えることは分からないとマリーヴェルは首を振り、リアンに渡された釣り竿を使い、『真っ当』に川へ糸を垂らして当たりがくるのをのんびり待つ。
リアンもまた、マリーヴェルにならうように糸を垂らして静かな時間を過ごす。穏やかな時間、ゆったりとした平和。
こんな時間も悪くは無いと、二人がゆるりと感じ入っていたが、当然、そんな時間が長続きする訳もない。ここにはあのサトゥンがいるのだから。
巨大な釣り竿の先に、サトゥンが付けた餌を見て、二人は絶句する。
サトゥンが糸の先につけた餌、それはどう考えても五メートルは超えるであろう長さを持つミミズのような魔物。
太さもリアンの胴回りをゆうに超えるほどの巨大ミミズを付け、サトゥンは意気揚々と釣り竿片手にそのミミズを川の中へ放り投げる。
そんなデカブツを川に投げれば、暴れることは至極当然。水中でもがきまわる巨大ミミズを楽しげに見つめながらサトゥンは口を開く。
「ふんむ!やはり活きの良い魚を釣るには、活きの良い餌を用意せねばならぬ!
がはははは!先程山奥の土を掘って見つけた特大の餌であるぞ!これならばどんな巨大な魚も喰いついてくれるという寸法よ!」
「いや、魔物でしょ。どうみてもあれ、魔物でしょ。ていうか、ここで糸を垂らすんじゃないわよ馬鹿勇者!魚が逃げちゃうじゃない!
その馬鹿みたいな魔物を餌に魚釣りしたいなら、遠くでやりなさい遠くで!あっちいけ!」
「断る!私一人で離れて魚を釣るなど寂しいではないか!一緒にいたいのだ!一緒に魚を釣りたいのだ!一緒に遊んで欲しいのだ!」
「子供かアンタは!」
リアンを挟んでぎゃあぎゃあと口論を繰り広げる二人に、微笑ましく笑うリアンとメイア。
サトゥンの余波のせいで、リアンとマリーヴェルは現在のところ仲良く釣果ゼロ。サトゥンも当然釣れる筈もなくゼロ。
唯一メイアが猛禽類の狩りの如く、水面付近の魚を狙い撃ちし続けて四十匹を超えてはいるが、果たしてこれを釣りといってよいものか。
魚が釣れず、軽く溜息をつきながらも、マリーヴェルは釣り竿を離すことは無い。人一倍負けず嫌いな彼女だ、サトゥンの妨害を乗り越えても絶対釣り上げてやると決意しているらしい。
実に彼女らしいなと思いつつも、リアンも彼女と並んで糸を水面に垂らしたままのんびりと過ごすことにする。
ここ最近、戦いが続いていたのだ。こういう時間を過ごすことも必要だろう。もしかしたら、サトゥン様はそう考えて今回の提案をしてくれたのかもしれない。
さすがサトゥン様だと目を輝かせるリアンだが、当然サトゥンがそんなことを微塵も考えている訳が無い。彼は心の底からみんなと遊びたい一心だったのである。どこまでも自分の心に沿って生きる勇者様だった。
そして並んで釣りを始めた二人だが、その静かな時間の中で、リアンがマリーヴェルに話しかける。
「マリーヴェル、ありがとう」
「唐突ね。何に対して?」
「メイア様を救ってくれたこと。あの日のこと、まだお礼を言ってなかったから。
マリーヴェルは、僕がメイア様と戦わないで済むようにしてくれたんだね……」
リアンの言うあの日、それはマリーヴェルが操られたメイアを一人で相手にしたときのこと。
どちらがメイアの相手をするか、その判断をマリーヴェルは即座に下した。リアンとメイアは戦わせないと、リアンにメイアへ槍は向けさせたくないと、そう誓って。
優し過ぎるリアンは、きっとメイアに槍を向けてしまえば、そのことで心を傷つけるだろうとマリーヴェルは感じていた。
彼を守りたい。彼の心を守りたい。その気持ちが、マリーヴェルに迷いなき決断を下させたのだ。
言ってしまえば、あれは自分の我儘で。だからこそ、マリーヴェルは首を振って否定する。自分が願い想って決めたことを、誰かのせいになんてしたくはないから。
「私がやりたくてやったことよ。それに、お礼を言うのは私の方。
リアンがグレイドスを倒してくれたから、メイアは救われたんだもの。私のもう一人の『姉』を助けてくれて、本当にありがとう」
「トントの街でもそうだったけれど、僕はマリーヴェルに守って貰ってばかりだね……マリーヴェル、僕、頑張るから。
いつかきっと、今度は僕がマリーヴェルを守れるようになるくらい、強くなるから。だから、見ててね」
「……男の子しちゃって。そうね、楽しみにしてるわ。と言っても、それ以上に私は強くなるんだけどね」
リアンから顔を逸らしながら言い放つマリーヴェル。彼に今、自分が浮かべてる表情を見られるのは、ちょっと恥ずかしいだろうから。
真っ直ぐに人から想って貰えること、それは本当にうれしいことだ。真っ直ぐに守りたいと特別な男の子に言われること、それは本当に幸せなことだ。
自分の中に生まれた想い、その正体が何なのかなどと今更誤魔化すつもりはない。自分は間違いなく、彼に恋をしている。生まれて初めての恋心。
誰かを想うことがこんなに胸が高鳴ることだなんて、知らなかった。けれど、悪くない気持ちだと思う。このどきどきは、心地よい高鳴りだ。
この気持ちをもっともっと感じていたい。そしてそれ以上に、彼にもこの気持ちを共有して欲しいと思ってしまう。
故に、マリーヴェルは決意を新たにする。このままじゃつまらないから。これだけじゃ物足りないから。自分だけがこんな気持ちでいるなんて、不公平だ。
自分が想う以上に、リアンに自分のことを想わせてやる。自分が彼に恋する以上に、リアンに自分へ恋させてやりたい。
それがきっと、自分らしく誰かを好きになるということ。恋も戦いも同じ、負けるのは大っ嫌いだ。誰にも負けないくらい魅力的になって、リアンを振り向かせてみせる。それがマリーヴェルの、『らしい』彼女の第一歩だった。
そんな彼女の胸の想いに気付いているのか、メイアはマリーヴェルに笑みを向けている。
ライバルは強敵だ、これ以上ないくらいの。でも、負けるつもりなんてサラサラない。正々堂々、正面から。マリーヴェルは負けないくらい笑みを零してメイアに言葉を投げるのだ。
「メイア!私、ぜーーったい負けないから!」
「私もですよ、マリーヴェル。この勝負、譲れません」
二人の会話が理解出来ず、きょとんとするリアンだが、そんな彼を置き去りにして二人は楽しそうに笑いあう。
恋の嵐が当人知らぬ間に吹き荒れる中、そんな甘い空気をぶち壊してこそ勇者サトゥン。
釣り竿片手に高笑いしていた彼が、突如真剣な顔になり、竿を両手で握り腰を深く落としたのだ。刹那、竿が恐ろしい程に水面の方へ曲がったのだ。
「ぬうううううううううううううううううう!大魚、きたれり!この手応えは間違いない!」
「え、うそ、本当にきたの!?」
「わ、わ、サトゥン様、大丈夫ですか!?僕も一緒に……」
「不要であるぞ、リアン!この程度の魚一匹一人で釣れずして、何が勇者か……ふぬうううううう!」
言葉こそ大言を吐いているが、ずるずると押されているサトゥンに一同は驚愕する。
力はグレンフォードをも凌駕するほどのサトゥンが、魚に力負けしているのだ。一体どれほどの巨大な魚が掛かったというのか。
ごくりと息を呑む三人、その期待に応えるかの如く、サトゥンは川岸ぎりぎりにて己が力の全てを解放する。
「負けるかああああああああああああ!勇者サトゥンを、勇者サトゥンを、舐めるでないわああああああああああああああああ!」
己が身体を黒き炎、魔力で包み込み、サトゥンは釣り竿を全力で引き上げる。まさに全力、まさに真剣、まさに本気である。
サトゥンの踏み込む足場に亀裂が走り、最早足場が崩壊かと思われた刹那、サトゥンはぎりぎりのところで釣り上げに成功する。
彼が全力で引き上げた魚、それは一体どれほどの巨大な魚なのか。三人は慌てて渓流を覗き込み、糸の先にぶら下がっているモノを確認する。
「ぽひー」
その先には、魚ではなく鳥がいた。確かに超巨大だ。巨大竜をも超えるサイズ、だが鳥だ。雛鳥だ。加えて肥満気味だ。
水に濡れたその巨大鳥、ポフィールは口に巨大ミミズを咥えたまま、サトゥンに釣り上げられたような状態で静止している。
眼前の光景に言葉を失う三人だが、やがて止まった時が動き出すように、ポフィールが行動を起こす。
どうしてもミミズを食べたかったらしく、ポフィールは不機嫌気味にミミズのついた糸を全力で引っ張り返す。その力は当然竿へと伝わり。
「ふぬぅぅぅぅぅぅぅぅうううううううう!?」
ポフィール、巨大ミミズ、そして竿を握りしめたサトゥンは勢いのついたまま渓流の中へと潜っていく。
意地でも釣り竿を手放さなかったサトゥンの覚悟は買いたいが、それが完全に裏目に出ることとなる。サトゥンが消えた川岸、そこに呆然と立つことしか出来ない三人。
互いに顔を見つめ合い、やがて誰からということもなく、釣り具を片づけ、釣った魚を手分けして村へと運んで行った。何も見なかったことにして。
サトゥンが村に戻ってきたのは、それから三時間後のこと。何があったのか、ほぼ全裸に近い下着姿になっていたが、家に戻るや否や、元気そうにリアンの母であるレミーナの用意した魚料理に舌鼓を打っていた。
また、水浴びを終えたポフィールはいつもより羽毛のふかふか具合が増加し、飼い主のレミーは大層喜んだとか。今日もキロンの村は平和である。
ポフィール「フィーーーッシュ!」 満足みたいです。次も頑張ります。
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。
幕間二話入れるつもりでしたが、次の章は村の日常のお話なので、特に入れる必要ないことに気づき、新章入りました。
また、新章の章題をつかうため、序章の章題を変更しました。ご報告まで。




