48話 窮地
暗き室内を照らすは紅蓮の炎。それは封印されてもなお溢れ出る邪竜王の魔力の残滓。
炎に四方を囲まれ、その中央に輝くは蒼き宝石。球体の形状をしたそれは、淡く輝きを放ち、点滅するように光の強弱を繰り返し演出しているかのようだ。
その宝玉を、竜人グレイドスは口元を愉しげに歪めながら見上げていた。それは、室内に異物が紛れ込んでもなお変わらない。
彼は背後に現れた招かれざる客人に、振り向かぬまま言葉を紡ぐのだ。
「どうだ、美しいだろう?邪竜王様の魔核は不完全な今ですらこれほどの輝きを放っている。
これほどの純粋な、圧倒的な力を貴様は感じたことがあるか、人間。貴様の死出の土産には、贅沢が過ぎるというものだろう」
「……貴方が、全ての元凶ですか」
背後にて槍を構える少年――リアンに、グレイドスは会話にもならぬと息を吐き、身体をゆるりと彼の方へと向き直す。
厳しい表情で睨むリアンだが、彼の形相など気にした様子もなく、グレイドスは身に纏う外套を翻しながら返答した。
「元凶とは何のことだ。心当たりもない上に、それは俺の台詞だと思っていたが」
「それはっ……」
メイアのことを口にしようとして、リアンはぐっと堪える。
どのような手段を用いたのかは分からない以上、人質という選択肢を相手に与えるような言動は慎まなければならない。
極力、メイアとの関係を匂わせないことを心掛ける必要がある。メイアを救う為に、今もマリーヴェルが時間を必死に稼いでくれているのだ。それを水泡に帰すような真似だけはと、リアンは己の感情を抑えるように、強く強く槍を握りしめる。
「飛竜、陸竜、よくもまあこれだけの数を殺してくれたものだ。邪竜王様の多量の魔の力が核へと戻っていく様は見ていて壮観だった。
しかし、ここまで来たということは、竜だけではなくメイアを退けたということだろう。使えると思ったが……所詮は人間か」
メイアを虚仮にする言葉も、リアンは必死に歯を食いしばって耐える。
マリーヴェルの発言ではないが、今の状況はまさしくリアンにとって好都合だ。相手がメイアが敗北し、命を落としたと勘違いしてくれると、絡め手を使われずに済む可能性が高まる。
怒りは胸に、頭は冷静に。ここまでリアンが自身を制御出来ているのは、偏にマリーヴェルのおかげだ。
彼女が背を支えてくれたから、冷静でいられる。マリーヴェルは言動全てで、リアンを守ってくれていた。
「竜達は倒し、貴方の仲間達もここにはもういません」
「その通りだ。それで、お前の目的はなんだ?竜を殺し尽し、ここまで来たのだ。それなりの理由があるのだろう」
「……貴方を、倒しにきました。理由を語るつもりも時間もありません。大切なモノを守る為に、僕は貴方を倒します」
「問答無用で殺しに来た、というのは悪くはないな。下らぬ立て前を並べ立てる屑より余程好感が持てる……相応の実力を伴っていれば、の話だがな。
良いだろう、人間。俺は今、実に気分が良い。邪竜王様の復活は意図せずして加速した。僅かな足しにしかならぬだろうが、貴様の命も、邪竜王様に捧げてやろう」
掌を掲げ、グレイドスは拳大より一回り大きな火球を生みだし、リアンに向けて放り投げるように放つ。
それは人間一人を燃やし尽すには十分過ぎる程の火力が込められているが、グレイドスの本気の力には程遠いものだ。
人間ならば、この程度で殺せるだろうという侮りが込められた攻撃に、リアンは最初にして最大の好機と即座に判断する。
これこそが、サトゥンに教えられた魔人の最大の隙にして打ち勝つ為に活かす必要がある瞬間だった。
サトゥンと戦ったあの日、リアンは打ちのめされながら第一にそれを叩きこまれた。レグエスクもそうであったように、ケルゼックもそうであったように、魔人のように人を超越した存在は例外なく人を見下している。
故に、脆弱な人間相手に最初から全力でかかってくる奴など存在しない。奴らは人間を余裕綽々で捻じ伏せること、それが至極当然のことだと認識しているからだ。
故に、相手の力量を読もうともしなければ、観察など行うこともない。驕りと傲慢が生み出したその隙を、逃さずに突くこと、すなわち先手にて己に持てる最大限の一撃を解き放つことこそが肝要。
グレイドスの放った火球は、リアンに近づくにつれて包み込むように広がっていき、リアンからグレイドスの姿が見えなくなる程だ。
だが、逆に言うならば、グレイドスから見てもリアンの姿が完全に視界から消えることになる。その好機を、決して逃す訳にはいかない。
リアンは腰を深く落とし、槍を真っ直ぐグレイドスのいた方向へ構え、息を深く吐きだし、意識の全てを攻撃のみに割く。
そして、火が己が身体を包み込む瞬間、リアンは全身全霊の力を脚へと込め、大地を蹴って爆発的な加速を付けて走り出した。
否、走るというよりは飛んでいるといったほうが正しいか。超低空飛行で、リアンは恐ろしき速度をつけて、槍をグレイドスの胸へと向ける。
炎の嵐から飛び出してきたリアンに、グレイドスは驚き目を見開くが、身体はついていかない。完全に侮っていた為、何の迎撃の態勢も心の用意もしていなかったのだ。
瞬きする間もなく、リアンの槍はグレイドスの胸へと深く突き刺さることになるだろう。
だが、リアンはそれを不十分と考える。それだけでは、恐らくグレイドスには大打撃を与えられない。
故に、リアンは集中する。あの時の瞬間を思い出せ。あの日、何度も転がされては繰り返し掴もうとした感覚を、サトゥンに叩きこまれたあの力を。
奔る槍はどこまでも速く鋭く。他の武人が見れば感嘆する程の、最高の一撃を繰り出したリアンであったが――その槍が、グレイドスを貫くことはない。
グレイドスの胸に吸い込まれた槍は、その外套の下の強靭な竜麟に阻まれ、鈍痛な衝撃が手に伝わると共に、リアンは己の一撃が失敗したことを悟る。
その槍をグレイドスは右手で掴み、口元を愉悦に歪めて呟くのだ。
「良い一撃だ。人間にしておくには貴様も惜しいな……だが、この程度で俺の相手が務まると思ったか」
「くっ……」
「貴様もメイアと同じだ。なまじ人間であるが故に、その技量と力を無駄にし死んでいくことしか出来ん。
人間にしてはなかなか良い槍を使っているが、それでも俺の薄皮を斬る程度だ。俺は、他の竜共や出来そこないの竜人とは違うのでな」
グレイドスは槍を握ったまま、リアンに向けて左手を薙ぐように振り抜き、至近距離から真空の刃を飛ばす。
己が身体を刻まんとする刃をリアンは瞬時に屈んで避け、槍を掴んだまま身体を低空へ滑らせ、槍を引きながらグレイドスの膝へ回し蹴りを繰り出す。
その蹴りをグレイドスは子供の児戯とばかりに跳躍して回避し、ついでとばかりに槍から手を離し、数歩分後ろへ着地する。
「俺は邪竜王様が自ら生み出された唯一の真の竜人なのだ。この身体は邪竜王様と同じ真竜の鱗で覆われている。
外の役立たず共と一緒に考えて貰っては困る。とはいえ……メイア同様、俺に一撃を入れたとなると、貴様にも利用価値があるか。
どうだ、人間。どのような理由があってこの地に来たのかは知らぬが、下らぬ人間など止めて邪竜王様に従うつもりはないか?」
「何を……」
「強さこそ全て、それが我が主、邪竜王様のお心。貴様には人間にしておくには惜しい力が在る。
人間など止めてしまえ。さすれば、貴様には人間では味わえぬ快楽を与えてやろうではないか。己の望むままに他者を蹂躙し、恐怖で縛り、泣き叫ぶ人間の血を嗜む。
この世界の全てを、邪竜王様は手にされるのだ。貴様はその為の駒として己が心の望むままに殺しを愉しむがいい。どうだ、悪い話ではなかろう?」
グレイドスの言葉に、リアンの心に抑えきれぬほどに迸る熱が生まれる。
目の奥がちかちかと点滅し、頭の奥底が激しく痛む。それは温厚な彼が生涯でこれほど抱くことはなかった悲しき感情の昂ぶりだった。
己が目前で戯言を並べ立てる男に、怒りが抑えられない。そんなものの為に、そんなものの為に、この男は。
怒りで我を忘れそうになるリアン。それは彼が望まぬ在り方、英雄の姿だ。怒りを以って戦うこと、憎悪だけに捕らわれる姿。そんなものにリアンは憧れた訳ではない。
思い出せ、原初の誓いを。憧れた人の背中を。自分は何のために槍をとった。
ただ、憧れた。見ず知らずの自分達の為に、力を振るい弱者を守るあの人の背中に、心奪われた。
ああなりたいと、思った。こんな自分でも、いつの日かあの人のようになりたいと、強く願った。その為に幾千幾万と槍を振るった。
そうだ、怒りに捕らわれるな。心を落ち着かせろ。この槍は、あの人に授けられた槍は、憎き敵を貫く為の槍じゃない。
神槍レーディバル。あの人に――サトゥン様に与えられたこの槍は、誰かを守る、その原初の誓いを貫く為に。
怒りを殺し、強き意志を瞳に燃やして。リアンは真っ直ぐにグレイドスをにらみ返し、心の強さで跳ね除けるのだ。
「お断りします。僕の槍は、そんなことの為にあるんじゃない。
誰かを傷つけ自分の力を誇示する為じゃなく、大切な人達を守る為に――この指一本動く限り、僕は貴方を止める為に槍を振るい続けます!」
「ふん……やはり人間は愚かだ。気に入らんな、その目。まさかとは思うが、俺を前に勝てるなどと希望を抱いている訳ではなかろうな。
よかろう、気が変わった。貴様は利用する必要もない、その目障りな存在全てを俺の手で灰燼と化してやろう」
殺意を溢れさせ、グレイドスは両の掌から紅蓮の炎を生じさせ、それをリアン目がけて解き放つ。
今度は先程のような侮った炎ではない。純粋にリアンを殺す為だけを目的とした、殺戮の炎だ。天に向かって伸びるように燃え盛る炎から、まるで触手のように無数の刃がリアンへとうねり襲いかかる。
不規則かつ蛇がのたうちまわるように暴れまわりながら襲い来る炎の鞭を、リアンは足を絶えず動かしながら、槍で払い続ける。
炎蛇の一撃は恐ろしい程に重く、足と手、どちらかを止めてしまえばたちまち飲まれて焼き尽くされるだろう。
しかし、対応は出来ている。そしてリアンには少なくとも持久力が尽きて負けることはあり得ない。
何とかこの攻撃を凌いで反撃に、そう思考するリアンを嘲笑うように、グレイドスはリアンを殺す為の牙を解き放つのだ。
炎の蛇を生じさせる源となっている炎。それを空高く解き放ち、宙へと固定したグレイドスは、両の手を再び炎で包む。
そして、彼の手に握られたのは、烈火のように燃え盛る紅蓮の大鎌。逆らう者全てを断罪する刃をリアンに向けて翳し、口元を歪めてグレイドスは更なる刃でリアンに追い打ちをかける。
振りあげられた死神の刃から放たれるは、全てを切り裂く鎌鼬。炎の蛇に動きを抑制されているリアンに、それを回避するのは不可能だ。
風の刃はリアンの命を絶たんと真っ直ぐに奔り、リアンは槍での対応が間に合わないと見切り、必死に身体を動かそうとするが――
「うああっ!」
「……ほう。腕の一本は刎ね飛ばしたと思ったんだがな。人間にしては本当によくやる」
肩口から溢れる血液に、グレイドスは少々不満げな表情を見せる。確実にリアンの肢体を奪いにいった一撃を、リアンは紙一重で致命傷から逃れたのだ。
だが、その代償はなかなかに重い。風の刃は、リアンの右肩を裂き、そこからはリアンがかつて流したことのない量の血液が流れ始めている。
激しい痛みを健気に歯を食いしばって抑えるが、溢れ出る血液を止めることは出来ない。それはリアンの死へのカウントダウンだ。
このまま傷を放置して戦い続ければ、いくらタフなリアンといえど、一時間と持たないだろう。動きまわれば猶更だ。
たったの一撃でリアンを追い詰めてみせた相手、それがグレイドス。竜人の頂点に立ち、邪竜王が唯一己の力で生み出した最強の戦士。
彼は苦痛に歪むリアンに、見下すように視線を送る。絶対強者が哀れな獲物を見つめるように。
「――楽には殺さぬ。ゆっくりと肢体を削がれ、絶望の声を響かせながら死んでゆけ。邪竜王様に逆らった自身の愚かさを悔いるがいい」
剣と剣がぶつかり合うが、それが囮であることをマリーヴェルは見抜いている。
淑女のくせに、随分と足癖が悪いことを嫌というほど理解している。大の大人の肋骨など簡単に持っていく程の威力の蹴りが、間髪入れずに放たれることも、読めているのだ。
視覚の外から放たれる蹴りを、マリーヴェルは引き戻した左の月剣で受け流し、その場でくるんと宙で一転する。
猫のようにしなやかに立ちまわるマリーヴェルだが、その表情と様相がこの戦いの厳しさを物語っている。苛立ちに歯を噛み締めながら、マリーヴェルは二本の剣を手の中で転がすが、メイアはそれを笑って指摘する。
「私の距離感を狂わそうとしても無駄ですよ。その戦闘法を貴女に教えたのは誰でしたか。
貴女の癖、立ちまわり、全力時の剣撃の速さ。全てを私は知っている――失敗しましたね、マリーヴェル」
「……何がよ」
「貴女は技量の差から、対人戦闘にはリアンより自分の方が分があると判断して、私と対峙したのでしょう。
成程、確かにその通りです。貴女は対人に関してはリアンよりも遥かに経験を積んでいる。人間という領域に関しては、決して間違いではない判断です」
悠然と剣を構え、メイアは『ですが』と前置きして説明を続けていく。
「私と対峙することを考えたならば、それは悪手ですよ。リアンとは違い、貴女が剣を握り始めたときから私は貴女に全てを教えてきたのです。
故に、貴女の剣はリアンよりも私にとっては分かりやすく、読みやすい。剣を交える前から、貴女のやろうとする全てが見えてしまう。
貴女は誤った。私に勝とうとするならば、この場にリアンを残すべきでした。二人がかりでくるにしても、単独でやるにしても、彼の方が私への勝機はあった筈ですよ。今更ですけど、ね」
言葉を切り、メイアはマリーヴェルに向けて追撃をかける。
風魔法によって恐ろしく速度の乗った一撃。マリーヴェルは舌打ちを小さくして、剣を構える。この一撃を、マリーヴェルの力では受け止めることは出来ない。
故に、彼女の選択は避けるかいなすか、メイアの重圧によって選択肢が自然と狭められてしまう。数多の手で変幻自在に立ちまわるマリーヴェルにとって、対峙する相手から己の選択を狭められるのは何より苦しい状況だ。
だが、メイアは常にそうやってマリーヴェルの領域を奪っていく。剣を一つ振るうにも、その位置取りにも、マリーヴェルの選びうる最適解を先に抑えてしまう。
リアンのように他者を圧倒する程の力があれば、強引に戦況を覆すことが出来たかもしれないが、マリーヴェルは技量で戦うタイプ。
絶対的な一撃で状況をひっくり返すのではなく、盤上の駒を一つずつ確実に進めて敵をおいつめる狩人のような戦闘スタイルなのだ。
その盤上で、自分の行動を読まれて先を抑えられてしまう。苦し紛れの選択だけを選び続け、劣勢においつめられ、逃れる方法が導けない。
結果、メイアを抑えられず、こうも一方的にボロボロにされてしまうのだ。風魔法で剣を防がれ、その隙を縫うようにメイアがマリーヴェルの腹部を蹴り飛ばす。
威力を押し殺す為に、蹴られる瞬間前に踏み出したが、完全にその威力を潰すことは出来ない。
顔を歪める程の激痛が走り、身体をくの字に折るマリーヴェルだが、そこで足までは止められない。止めれば最後、メイアの剣が彼女の首を狙って奔るからだ。
痺れる指先を誤魔化すように強く剣を握り、メイアに向けて剣を振るう。闇雲でも構わない、今は追撃させない為に弾幕を張れればいい。
必死のマリーヴェルの選択は功を奏し、振るった星剣がメイアの追撃の剣にぶつかり、その衝撃でマリーヴェルは吹き飛ばされるように地面を転がる。
だが、それは距離が取れたということ。痛みが残る腹部、痺れる手足。あまりに劣勢だが、決して諦めず、剣を構えるマリーヴェル。その姿に、メイアは初めて表情を変える。瞳に以前色はないが、それは少し人間味が感じられる表情だ。
眉を顰め、マリーヴェルに向けて、剣を向けて訊ねかける。
「……私との差が理解出来ぬ訳ではないでしょう。早く楽になりなさい、マリーヴェル。苦しむ時間が延びるだけですよ」
「何、勝ち誇ってるのよ。まだ私は、生きている。口を動かす暇があるなら、かかってきなさいよ」
「この殺し合い、既に詰んでいることが分かりませんか。貴女では私には勝てない、貴女の剣は私を超えられない」
「そうね……確かに、アンタやっぱり強いわ……でもね、私は負けられないのよ。例え勝てなくても、超えられなくても、今のアンタに負ける訳にはいかないのよね」
手足の痺れは抜けきらない。それほどに重い一撃をもらってしまった。
けれど、マリーヴェルは強気な姿勢を崩さない。自分がボロボロだと相手に見抜かれていても、それでも心だけは負けを認めない。
星剣、月剣を構え直すマリーヴェルに、メイアは表情を歪めたまま訊ねかける。
「そこまでして、私に劣っていることを認めたくはないのですか。貴女では私に勝てないことを、受け入れられませんか」
「私もさ、初めはそうだと思ってたんだけど……ちょっと、違うのよね。いや、アンタに負けたくないって理由も多分にあるんでしょうけれど……
私、守るって決めたのよ。あの子の――リアンの心を、守るって、誓っちゃったのよね。
アンタが死んだと思って、泣いてるリアンの顔を、見ちゃってさ……絶対にリアンの心は、私が守ると決めたの」
マリーヴェルの言葉に、メイアは驚愕に表情を変える。その空洞な瞳に、僅かばかりの色が灯り。
そう、マリーヴェルが負けられない理由。その一番の理由は勿論、メイアを救いだす為だ。大切な友を救う為に、その心に違いはない。
だが、その理由を支える強さの根源。それはあの日、表情を絶望に染めたリアンの泣き顔だった。
誰よりも優しく、他者の為に槍を取った少年が、初めてみせた絶望。自分とは違い、他人の為にどこまでも強くなれる少年の純粋な心、それを守らなければと奮い立った。
きっと、ここで自分が負けてしまえば、リアンはメイアと戦わなければならないことになる。
あの心優しい少年が武器を手に取った理由をマリーヴェルは知っている。誰かを守る為に、自分も誰かを救う為に強くなりたいと純粋に願い歩き続けた彼を、マリーヴェルは眩く思った。
いつだって誰かを想い、行動し続けた少年の心に惹かれた。他人の為に怒り、他人の為に涙し、他人の為に強くなり、そんな自分を誇れる少年と、共にいたいと願った。
その少年の槍は、守るべき大切な人の為に向けられるべきではない。守りたいと願うメイアに、傷つける為に槍を向けてしまえば、きっと彼の心は壊れてしまう。
――させてたまるものか。リアンの心は、純粋な想いは、絶対に誰にも汚させない、壊させない。
雛鳥を守る親鳥のように、ボロボロになっても立ちあがり、剣を離さないマリーヴェルの姿。
その在り方が、メイアの脳を激しく揺さぶる。突然襲い来る頭痛に、メイアは表情を苦痛に歪めて頭を押さえる。
マリーヴェルの必死な姿に、心の奥底から何かが揺り起こりそうになる。まるでもう一人の自分が、彼女の姿に応えるように立ちあがろうとしているようで。
激痛に苛まれながら、メイアは歯を食いしばって冷酷な判断を下す。この少女は、危険だ。さっさと排除しなければ、危ないと。
剣を握り直し、メイアはふらふらのマリーヴェル目がけて疾走を始める。胸の中で暴れるもう一人の自分を抑え込みながら、この痛みから解放される為に。
だが、その脚は止まることになる。走るメイアの顔を目がけて、激しい光を放つ光球が放たれたからだ。
それは人を傷つけることが出来ない灯りの役割しか持てない神魔法だ。だが、目を眩ます程度には十分過ぎる役割を持つ。
視界に直接入れては危険だと、メイアは足を止め、その光球を斬り伏せる。そして、その魔法を放った少女を睨み、言葉を紡ぐ。
「なんのつもりですか、ミレイア。戦う力のない貴女が」
「こ、これ以上私の大切な妹に手を出すというのなら、例えメイアさんが相手でも許しません!わわわ、私が相手です!」
震える脚を隠そうともせず、声をあげるミレイアに、メイアは更に頭痛が激しくなるのを感じた。
戦う力の無い少女ですら、立ちあがり自分を止めようとしている。その姿が、メイアの中で何かを目覚めさせようとしている。
最早正気を保てなくなりそうな程の頭の痛みに、メイアは立ちくらみながら、剣をマリーヴェルからミレイアへと向ける。
冷静な判断は出来ない。とにかく今はもう遊ぶ時間すら拙い。とにかく一人ずつ、確実に殺してグレイドス様の元へ戻る。
そうすれば、きっとこの痛みは治まる筈だ。もう一人の『自分』も、完全に息の根を止める筈だ。そう考え、メイアは大地を蹴る。
ターゲットが自分からミレイアに切り替わったことを知り、マリーヴェルはボロボロの身体を動かしながら必死に声を張り上げる。無論、ミレイアに向けて、だ。
「馬鹿ミレイ!逃げて!」
「ひっ……」
「よくも邪魔をしてくれましたね、ミレイア。いいでしょう、妹の苦しむ姿を見たくないというのなら、まず先に貴女を殺してあげます」
風を纏い、ミレイア目がけて剣を振り下ろすメイア。
その剣撃は神速、武人ですらないミレイアには軌道すら目に捉える事が出来ない。
瞬きする間に彼女の首が飛ぶ。そんな最悪の未来に、マリーヴェルはミレイアの名前を必死に叫ぶ。それはどこまでも悲痛な叫びで。
マリーヴェルの声を背に、メイアは迷わず剣をミレイアの首へと奔らせる――だが、その剣は、ミレイアまで届くことはない。
ミレイアの身体へ届こうかという刹那、彼女の前に現れた蒼い障壁がメイアの剣を弾き飛ばしたのだ。
「なっ……」
恐ろしい程に頑強な魔法壁に攻撃を遮られ、メイアはその表情を隠すことなく驚愕と動揺をにじませる。
当然だ。風魔法を纏い、全力を込めた一撃が、突如現れた魔法壁に阻まれたのだ。神魔法にこのような魔法は無い、ミレイアが使用した筈がないのだ。
すなわち、このようなことが出来るのは、第三者の介入に他ならない。一体誰が――メイアは魔法壁を使用した者を探そうとするが、その者は探すまでもない。
魔法壁を生じさせた者は、既にメイアの目前にいたのだ。尻餅をつき、怯えるミレイア、彼女を守るように立つ者から感じられる強大な魔力。
その者は力強く、大地に四本の脚で立ち、メイアをくりんとした大きな瞳で見据えながら、凛とした声で言葉を紡ぐのだ――そう、鳴き声ではなく、人の言葉を。
「――破邪の術式、リリーシャの巫女ならば使えるのであろう?ほれ、さっさとメイアの奴に唱えてやらぬか」
「り、リーヴェ!?え、えええええ!?あ、あなた、人間の言葉っ!?」
「妾のことよりも、メイアのことが大事ではないのかえ。ほれ、急がぬか。妾の防壁もそこまで長くは持たぬぞ」
ミレイアの道具袋から飛び出した、黄金の毛並みを持つ彼女の飼い猫リーヴェ。
普通の猫よりも一回りも小さい子猫たるリーヴェが、ミレイアを守るためにその身を盾にしてメイアに立ち塞がり、さも当然のように人間の言葉にてミレイアに指示を出す。
その声が聞こえていたのは、間近にいたミレイアのみ。マリーヴェルは声が届かず、メイアに対してミレイアから離す為に剣撃を繰り出し、メイアもそちらに意識をとられている。
つまり、狙うのは今しかない。頭が混乱でいっぱいになっているミレイアに、早く早くと猫パンチでてしてしと要求するリーヴェ。
混乱の極地に頭が辿り着いてしまっているミレイアだが、命じられて応えてしまうのが彼女である。
野営などで、魔物の侵入を防ぐ為に用いる破邪の術式。それをメイアに向けて解き放つのだ。
「女神リリーシャよ、この地を神の力にて清め払いたまえ――」
「っ、何をっ」
身体から光を放つミレイアの異変にメイアは気付くが既に遅い。
メイアの足元に光り輝く魔法陣が現れ、彼女を包むように暖かな眩い黄金の光が解き放たれていく。
光に包まれていくメイアを眺めながら、呆然とするミレイアに、リーヴェはくああと小さく欠伸をして、言葉を紡ぐのだ。
「性悪女神の加護ならば、数分程度ならメイアの自我を取り戻すことができよう。もっとも、完全に正気にするには、術者を殺すしかないがの」
「正気に……メイアさんが、正気に戻るんですの!?」
「時間稼ぎに過ぎぬ。ほれ、メイアが目覚めるぞ」
光に包まれたメイア。苦痛に表情を歪めながら、しかし彼女の瞳には、確かに色を取り戻して。
その場に跪き、呼吸を荒くするメイアに、マリーヴェルとリーヴェを抱いたミレイアが近寄っていく。
そんな二人に、メイアは顔をあげ、力なく微笑む。それは、いつもの彼女の優しい顔で。喜びを胸に込み上げさせようとする二人に、メイアは力なく懇願するのだ。それは、二人の希望を壊すのには十分過ぎる言葉で。
「マリーヴェル、ミレイア……お願いします。今のうちに、早く私を……私を、殺して下さい」
呼吸を乱しながら、苦痛に耐えながら必死に吐きだしたメイアの願い――それは、どこまでも残酷過ぎる願いで。
意地があんだよ、男の子にも女の子にも飼い猫にも。次も頑張ります。
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。




