118話 処理
その戦場はまさしく悪夢と言って過言ではないだろう。
第二軍をリックハルツより任せられている副将ボズンは呆然と立ち尽くしていた。
その顔色は青を通り越して白くすらある。それほどまでに現状は絶望の中にあった。
あちらこちらから兵士たちの悲鳴、絶叫が聞こえてくるが、今の彼の頭にあるのは、自身の身の安全だけだ。
「ひいい! ぼ、ボズン様、助け……ぐえっ!」
「とにかく森を抜けるんだよ! こんな『化け物』で溢れかえってる場所に留まっていちゃいくつ命があっても足りねえだろうが!」
『蔦』に捕まった兵士を見捨てるように蹴り飛ばし、ボズンは精鋭を集めて森を駆け抜ける。
周囲には蔦に雁字搦めにされて動けなくなっている兵士たちで溢れかえっているが、そんなものに構っている暇はない。
彼の周りを固める兵士は、もはや五十人といない。千人を超える兵士のすべてが、この『森』に飲まれてしまった。
息を切らせながら、ボズンは今までの経緯を振り返る。どうしてこうなってしまったのか、と。
リックハルツと別れたボズンは、予定通りに渓谷沿いに進み、キロンの村へ向かうための最後の森へと入った。
そこを抜けてしまえば、村は目前、あとは適当に村人を殺し尽してリックハルツを待てばいい。そんな風に気楽に考えていたボズンだが、彼の計算のすべてを森が狂わせた。
第二軍が足を踏み込ませた森は、一言でいえば異常であった。
これまでの森とは異なる、明らかに以上成長を果たしている紅の木々が生い茂り、この世の物とは思えない気配で充満している。
明らかに異常を感じさせる場所だが、命令を下された以上、足を踏み込まない訳にはいかない。
これだけの兵を率いているのだ、何が出ても問題はないと高をくくっていたボズンだが、その森が地獄であると理解するのに時間はかからなかった。
この森の植物は、人を食うのだ。
森に足を踏み入れた兵士たちが深くまで進んだのち、植物たちは兵士たちを捕えんと牙を剥いた。
次々と弦を動かし、兵士たちを拘束していく。
抵抗をしても、あまりの数の暴力に対抗すらできない。仲間を助けようとした兵士が一人、また一人と縛られていく。
そして、恐ろしいことにこの木々が実らせている花、これが更に厄介だ。
花から広がる香りは、人間から思考力を奪ってしまう。花粉をもろに受けた兵士たちは、まるで催眠術にでもかかったかのように、意識を奪われてしまう。
次々とからめとられる仲間たちに、一人、また一人と兵士の心は恐怖に駆られてしまう。こうなれば集団は脆いもの、ましてや彼らは傭兵上がりであり、訓練された兵士ではないのだから。
「くそがっ! やっぱり罠だったんじゃねえか! これなら俺もリックハルツ様のところに残るんだった! おら、走れ走れ走れ!」
叱咤を飛ばしながら、ボズンは森を抜けるためにわき目もふらず走り続けた。
彼の必死の祈りが届いたのか、紅の森はとうとう終わりが見えた。
彼の視線の先には、森の終わりを示す木々の切れ目が見えていた。胸に安堵を抱え、ボズンは仲間たちを見捨てて全力で駆け抜けた。そう――そこに地獄の門番が待ち構えているとも知らずに。
「お疲れ様――疑似的なものとはいえ、『深紅の森』を正しく抜けてみせたこと、褒めてあげましょう。ご褒美に愛の鞭はいかが?」
そこには、鞭を構えて悠然と微笑む紅の美女が佇んでいた。
その足元に百を超える兵士を地に這いつくばらせている姿を見て、ボズンは己の運命の終わりを悟るのだった。ああ、やはりこっちは貧乏くじだったと悪態をつきながら。
第二軍がほぼ壊滅状態に陥ってしまった『深紅の森』。
まるで魔界の森のように変貌を遂げてしまったように彼らは感じているが、実は普通の森とは何ら変わってなどいない。
森はいつもと変わることなく、青々とした木々で生い茂っているし、人を襲う植物など存在すらしていない。
「植物が、植物が迫ってくる! うわああ!」
「おい、お前ら何を言ってるんだ!? どいつもこいつも意味不明なことを……がっ!?」
「耐性のある人は強制退場、ってね」
『正気』を保っている兵士を見つけ、ロベルトがその兵士の頭部を強く蹴りつける。
これで彼が倒してのけた兵士の数は二十人くらいになるだろうか。
周囲にて『縛られた』という幻覚に溺れる兵士たちを観察しながら、ロベルトは息をついてあきれ果てる。
「主の望み通りの幻覚を見せる魔植物……ね。カルヴィヌの姐さん、えっぐいモンを使いこなすもんだ。三千の兵士がこんなにもあっさり片付くのかよ」
周囲に植えられた花々を見つめながら、ロベルトは感嘆するしかない。
これらは、先日ロベルトが村人と協力して周囲に沢山植えた花々だ。種をカルヴィヌに与えられ、魔力を与えた花々は一気に開花してこのような惨状を生むことに成功している。
この魔植物は生き物に幻覚を見せる。と言っても、魔人界では魔耐性のある魔物ばかりでほとんど効果をみせないそうなのだが、この人間界においては絶大な効力を生んでいた。
カルヴィヌの頼もしさ、末恐ろしさを感じていると、木々を飛び越えてマリーヴェルが姿を現した。
「一通り見回って、意識のある連中は全部気絶させてきたわよ。そっちは?」
「こっちもあらかた終わってるよ。あとはメイアさんがリックハルツを倒せるかどうかだが」
「倒すに決まってるでしょ。メイアが剣技で負ける相手なんてこの世に存在しないもの」
誇らしげに笑うマリーヴェルに、ロベルトもつられて笑う。
技術においてはグレンフォードすら上回るメイアが、剣で後れを取るなどありえない。
「それにしても、罠にも随分かかってくれてたな。村人と頑張って作った甲斐があったもんだ。足縄ひっかけとか落とし穴とか」
「幻覚に併せて罠だもの、連中は正気を保てなかったでしょうね。私としては、正面から叩き潰しても負ける気はしなかったけど」
「三千の敵を正面からだなんて勘弁してくれよ……俺は絶対嫌だね」
「小市民っぽさは変わらないわね。今のアンタなら、百人くらいに襲われても勝てるでしょ? グレンフォードにそれができるくらい、十分に鍛えられてるわよ」
「うるせー、俺は一生小市民でいいんだよ」
自身の力を過小評価し過ぎるロベルトだが、マリーヴェルの言う通り、彼の強さは十分英雄クラスと呼べるものだ。
現に彼はエセトレアで世界最強の魔法使いを打破している。並の兵士では彼の相手にすらならないだろう。
英雄の中で一番成長したのは仲間の誰もが認めるところだ。そんなロベルトに肩を竦めながら、マリーヴェルは言葉を続ける。
「第二軍が『この』森を回避することを想定して、サトゥンたちを配置したのが無駄になっちゃったわね。頭が切れる指揮官なら、そっちに向かうと踏んでたけど」
「サトゥンの旦那に、ノウァに、リアンか。まあ、そっちに行ってたらもっと悲惨だったわなあ……最近のリアン、ノウァの奴と正面から打ち合えるくらい化け物じみてきてるからな……」
「そ、そうね! 最近のリアン、凄く格好いいわよね! この世界で一番格好いいなんて、ロベルト、アンタ分かってるじゃない!」
「いや、そこまで言ってねえよ!?」
「今朝も戦いに向かう私やメイアを真っ直ぐ見つめて、『絶対に怪我だけはしないで』って言ってくれてね、それがもう本当にドキドキして……」
「微塵も訊いてねえよ!?」
頬に手を当てて嬉しそうにするマリーヴェルに、ロベルトは絶叫染みた突込みを入れる。
昨日、恋が実ってからというもの、リアンのことになるとマリーヴェルはこうなってしまう。言い切ってしまうと、非常に駄目になる。
これまで長い間、散々もやもやした気持ちを抱えていた彼女が、想いを叶えたのだ。それを分かっているだけに、ロベルトも最初は優しく聞き流していたのだが、あまりの惚気が酷過ぎた。
「おい、頼むよマリーヴェル! このメンバーでお前まで『旦那側』に行っちまったら、俺はどうすりゃいいんだよ! リアンと二人っきりのときはどれだけ『ポンコツ』になってもいいから、それ以外のときはしっかりしてくれ! じゃねえと俺とミレイアの胃がやばいことになる! 潰れるなんてレベルじゃねえぞ!」
「何か失礼なことを言われてるわね……私をサトゥンと一緒にしないでくれる? まあ、リアンが格好いいことは後でしっかり本人に伝えればいいとして……どうする、カルヴィヌのところに戻る?」
「そうだな、その前にリアンたちに戻るように伝えたほうがいいだろう……って、速っ!!」
ロベルトの言葉を聞き終える前に、マリーヴェルは木々を飛び乗り森の奥へ去っていった。おそらく、リアンのもとへ向かったのだろう。
恋によって大きく生まれ変わった少女を見届けながら、ロベルトは力なく呟くのだった。
「恋は女を変える……いや、変え過ぎだろ……ライティ、お前は変わらないでくれよ」
そんなことを漏らすロベルトだが、彼は一つだけ分かっていなかった。
ライティは出会った時にロベルトに一目ぼれしていたため、最初から変貌を遂げていた立派な『女』だったということに。
また、その頃のリアンと言えば。
「ふはははははは! どうだリアン、私の背筋はそこの貧相とは一味も二味も違うであろう! 勇者とは背中で語る者! この背中に誰もがついてきたいと思わせる魅力を秘めておるのだ!」
「ふん、そのような洗練されていない無駄な背筋に俺様の背中が負けるはずが無かろう。これぞ戦いの為だけに磨き上げられた魔王の背筋よ。リアンよ、俺様の背中に見惚れるがいい」
「すみません、どちらも立派な背筋だとしか……」
上半身裸になったサトゥンとノウァの背筋対決の審査員として波風の立たない意見を述べることに尽力していた。
勇者サトゥン、魔戦士ノウァ。敵が一人も向かってこないため、退屈過ぎたらしい。
「見て分からぬとな!? ぬう、ならばリアン、見て分からぬならば触れてみるがよい! 我が背筋を遠慮なく触り、そこの勘違いに絶望をくれてやるがよいぞ!」
「抜かせ筋肉達磨が。リアン、俺様の背筋に触れ、そこの世間知らずに現実を突きつけてやるがいい」
「え、ええええ……」
触ることに躊躇していたリアンに、強引にでも触らせようとした勇者と魔王が剣姫の怒りに触れて大地に沈められるのは、これより三十秒ほど後のことであった。
次回更新は3月26日(土) 夜を予定しています。




