92話 夢幻
深き海底からゆっくりと浮き上がるように、サトゥンの意識は覚醒を迎える。
長らく閉じられていた瞼がゆっくりと開かれ、サトゥンの視界に映し出された光景は煌びやかな天井だった。
それは、サトゥンたちが滞在していたエセトレア城の客室、その一室のもの。そして、背中に伝わる柔らかな感触と体にかけられた薄布から、自身がベッドの上に横たわっていることを知る。
なぜ、自分がベッドの上に寝ているのか。まだはっきりとしない意識の中で思考する中で思い浮かぶ戦いの記憶。シスハと戦い勝利したこと、そして何よりも思い返されるのは刃に貫かれるリアンの姿。
その光景がサトゥンの意識を恐ろしい速さではっきりとさせた。完全に目覚めたサトゥンは、勢いよく上半身をベッドから飛び上がるように跳ね起こした。
シーツは上半身から落ち、衣服を身に纏っていない磨き抜かれた体が曝け出されるが、そのようなことを気にしてなどいられない。
起き上がった彼は慌てて周囲を見渡す。そして、ベッドの横に座っていた人物――グレンフォードと目が合い、サトゥンは落ち着きを取り戻すことなくグレンフォードに訊ねかけるのだ。
「リアンは……リアンは無事なのか、グレンフォード!」
「気持ちは分かるが、まずは落ち着けサトゥン。意識を失ってからお前は一週間も眠り続けていたのだ。目覚めたばかりで興奮するのは体に良くないだろう」
「私の体などどうでもよいわ! それよりもリアンだ! リアンはどうなったのだ!」
取り乱しながらグレンフォードに問いかけるサトゥン。そんなサトゥンの姿に苦笑ぎみに、グレンフォードは顎で彼の背後を見るように指示する。
グレンフォードの指示する方向へ、サトゥンは慌てて体を回転させて振り返った。隣に並ぶベッド、その上でサトゥン同様に横たわるリアン。
彼もまた上半身を起こし、サトゥンを見つめながら優しく微笑んでいた。その身体には深い傷も欠損した部位もなにもなく。
いつものように柔らかな表情で笑ってくれるリアンの姿に、サトゥンの感情の堰は限界を迎えたようだ。
「お、おおおおっ! リアン、リアンっ! 無事なのだな!? 命に問題はないのだな!?」
「はい、サトゥン様。ミレイアさんやサトゥン様、みんなのおかげで」
「そうか……本当に、本当に、よかった……この、馬鹿者が……勇者を、心配させるなどっ……英雄としてあるまじき、行為であるっ……」
顔をくしゃくしゃにし、涙を零し、鼻を啜り。整った顔が台無しになるほどに感極まって嗚咽を漏らすサトゥン。
その姿にサトゥンの想いの全てが凝縮していた。彼がどれほど仲間を想っているのか、どれほど心配したのか。
驚きながらも、サトゥンが泣きやむよう必死に声をかけるリアン。そんな二人を微笑ましく笑いながら、グレンフォードは席を立って言葉を紡ぐ。
「他の者たちにサトゥンが目覚めたことを伝えてくる。皆、お前のことを案じ続けていたからな。それまでの間、リアンとゆっくり話をするがいい。色々と話したいこともあるだろう」
それだけを言い残し、グレンフォードは室内から去って行った。
残されたサトゥンとリアン。二人は並んだベッドの上で向きあって言葉を交わし合う。
「話を終えているということは、リアンは私よりもかなり早く目覚めていたのか?」
「はい。あの戦いから今日で七日が過ぎていますが、僕は戦いの翌日に意識を取り戻しました。ミレイアさんに診てもらい、命には別条はないけれど、大事をとって安静するように言われています」
「そうだったのか……本当に、本当に本当に本当に命は大丈夫なのだな?」
何度もリアンに健康状態を問いかけるサトゥン、そんな彼にリアンは問われる度に微笑んで無事だとしっかり伝え直す。
彼らの同様の会話は、サトゥンの心から不安が取り除かれるまで何度も何度も繰り返される。それはとても優しい時間だった。
リアンの大丈夫だという繰り返しの返答にようやく安心できたのか、サトゥンはいつもの元気を取り戻して高笑いしながらリアンにきっぱり言い放つ。
「ふははは! 無事ならば良いのだ、全く勇者に心配をかけおって、この馬鹿者が! いいかリアン、覚えておけ! お前はこの先なにがあろうと決して寿命以外で死ぬことは許されぬ! お前が死んでしまったら私はこの先どうやって生きていけばよいのだ! 私の勇者計画ではお前の孫を立派な英雄に育て上げるまでの予定でびっしり埋まっておるのだからな! いいな! 約束しろ! 私を置いて決して死ぬな! 私を一人にするな! 絶対に約束であるからな! 絶対にだぞ!」
「はい、お約束します。僕はサトゥン様を置いて、決してどこにもいきませんから」
「うむ! ならばよし! ふはははは! 勇者と英雄は永遠に離れぬ存在なのだ!」
リアンの返答に満足し、ばたばたと腕を振り回して子供のようにはしゃぐサトゥン。
そんなサトゥンの姿に、リアンもまた心から幸せそうに微笑む。サトゥンが死なず、今、こうして目の前に存在していること。そんな当たり前の日常が在ることをリアンは安堵していた。
目の前でサトゥンがシスハに殺されそうになったとき、サトゥンが失われるかもしれないと思ったとき、リアンは身を挺して彼を庇った。
目覚めた後、そのあまりに後先考え無しの危険な行動にこれでもかと仲間たちに説教されてしまった。自分の愚かな先走った行動によって、全てが台無しになってしまったかもしれないのだから。
反省もしなければならない。今後は二度と同じことを繰り返してはならない。けれど、今はこの幸運を喜ぼう。誰一人欠けることなく、こうしてサトゥンと共に生きられる今を迎えられたことを。
子供のようにはしゃぎまわっているサトゥンだが、ふと気付いたのか、真剣な表情に戻ってリアンに訊ねかける。
「そういえば、戦いから一週間経ったと言っていたが――街の人間たちはどうなったのだ。そしてあの小娘は……シスハはどうなった?」
サトゥンの問いかけの内容、それはエセトレアの街の人々の安否とシスハのことだった。
彼の問いかけに、リアンは慌てることなく説明を始める。それは彼自身、目覚めてから仲間たちに教えられたことではあるのだが。
フリックの洗脳魔法が解け、エセトレアの人々は眠りから目覚めるように意識を取り戻していた。ただ、彼らの記憶は曖昧であり、紅結界内での出来事が夢の中の光景のようにおぼろげであるらしい。あれだけの人間が強制的に動かされながら、死者が出なかったのはまさしく奇跡だろうとはリュンヒルドの談。
あの戦いの後、治療を終えたリアンと気を失ったサトゥンとシスハを連れ、仲間たちはリュンヒルドたちと合流したそうだ。城下町の外から紅結界が解かれ、サトゥンたちの勝利を確信したリュンヒルドたち……もとい、ティアーヌは用意していた策を実行に移した。
それはエセトレア国の実権をフリックから正当後継者であるソラルへと移すこと。ソラルがクシャリエ女王国の担い手、アレン・ラバトリとして身を隠し続けたのはこの日のためだった。
フリック・シルベーラという狂気の男の支配から国を脱却させること。弟の無念を晴らすこと、そのためにソラルはアレンとして強国クシャリエに身を寄せていたのだから。
フリックの身柄を拘束し、ティアーヌから渡された『記録石』とソラルの存在によって、エセトレア城でフリックの罪が集められた臣下たちに公開された。
記録石にはフリックが各国の王を殺そうとしたこと、グランドラを殺害し人形としていたこと、その全てがしっかりと記録されている。
この映像をもとに、ティアーヌたちは震える臣下たちに問いただしたのだ。『お前たちはフリックの味方なのか否か』と。
臣下の多くはフリックの子飼いであり、彼に惜しみなく協力した者たちだ。本来ならば切り捨て罪を与えなければならないが、まだ彼らには利用価値があった。彼らには『ソラルこそが正当な後継者である』と民に伝えさせなければならない。
ゆえに、ソラルを王位につけるためにティアーヌは大義を武器に脅迫したのだ。『ソラルを正当な王と認めないのならば、お前たちはフリック同様、他国の王の命を奪おうとした罪をその身で償って貰う』と。
ソラル一人ならばまだしも、大国五国の王を敵にして生き延びられる道理はない。恐怖に身を震わせながら、フリックの子飼いの臣下たちは一人また一人と折れ、ソラルに忠誠を誓った。
また、フリックに従わず幽閉されていたり閑職に追いやられていた臣下たちはソラルの復権を涙を流して喜んだ。彼らはこの瞬間を夢見て生き続けていたのだから。
こうして、褒められた手法ではないがクシャリエやランドレンの後押しもあり、暫定エセトレア王が誕生した。ソラルを王につけることはティアーヌやギガムドにとって『政治的利益』が大いに存在するため、当然純粋な善意によるものではないのだが。
今回の騒動によって国の形は大きく変わることになる。ただ、一つだけ言えることは、サトゥンや英雄たちの働きによってエセトレアの無辜の民、その多くの命が救われたということだ。
そして、もう一つの問い、シスハに関してだがリアンも『僕も詳しくは分かりませんが』と前置きしたうえで語り始める。
闘技場内から光の奔流が収まったのを確認し、英雄たちは戦いが終結したと考え戻ってみると、そこには気を失ったサトゥンとシスハの姿があったらしい。
サトゥンは勿論のこと、シスハもまだ息があったようだ。リアンを傷つけられ、サトゥンを追い込んだシスハを助けることも散々悩んだようだが、結局仲間たちはシスハを連れ帰ることにしたそうだ。
各国の王の判断のもと、シスハは厳重に拘束され、強固な魔法牢へと入れられた。そして、サトゥンよりも三日早く目覚めたのだが、様子がどうもおかしいらしい。
意識を取り戻したシスハは誰の呼びかけにも応じず、ただ虚空を眺めているだけ。自ら食事も取ることもできず、その様はまるで魂が抜け落ちてしまったようだと。
ゆえに、何を尋問されようと答えられないので、各国の王は困り果てているという。シスハはレーヴェレーラの巫女という確かな地位を持っているため、彼女が起こした凶行は国家間の責任問題となるのだ。
なぜ、彼女がエセトレアの人々を殺そうとしたのか。なぜ、彼女がフリックに手を貸したのか。なぜ彼女がサトゥンを狙ったのか。その全ての情報が未だ謎のままとなってしまっていた。
リアンの話を聞き、サトゥンは少し考えるような仕草を見せながら、やがてポツリと言葉を紡ぐ。
「……本当に抜けがらなのかもしれぬな。今の小娘の中に、あの忌々しい女は入っておらぬのかもしれん」
「抜けがら、ですか?」
「うむ。私はあの小娘と戦っていた訳だが、その力は恐ろしく強大であった。だが、それと同時に納得できぬものがあったのだ。あやつの力は、一人の人間が持つ物にしてはあまりに大き過ぎる。奴の力は『魔神級』だったのだからな。最初は奴の正体を私と同じ人間界に訪れた魔人なのかとも疑ったが、奴の体は確かに人間のものであった。だが、人間があれだけの力を内包していては確実に長く持たないのだ」
「長く持たないというのは」
「強き力を発揮するためには、強き体を必要とする。お前たちも闘気を使いこなすために体を鍛え上げているのと同様、魔力を使いこなすには相応の器が必要なのだが……あの小娘から放たれる魔力はあまりに異常過ぎた。例えばライティとラージュ、二人は人間でも最高峰の力と器を持っているが、あの小娘は明らかに人間という領域から逸脱した力を行使していた。あれだけの力を使えば、並みの魔人ですら耐えられぬ。そうなれば、可能性は二つ。あの小娘が人間に擬態した『魔神』と並ぶ存在であるか――肉体のない存在が入り込み、人間の体を使い捨てにしているかだ」
サトゥンの立てた予測は二つ。だが、声の力の込め方から明らかにサトゥンは後者であると言っているようなものだ。
思い返せば、シスハは人間の身でありながら冷酷なまでに人間という存在を見下していた。同じ人間という存在でありながら、あれほどまでに自分と同じ生き物を下等だとみなせるだろうか。
また、シスハはサトゥンの他にミレイアへも執着していた。彼女を次の巫女とすること、何よりもその体を利用するとはっきり明言していたはずだ。
シスハの振るう力、そして言動から導き出される答え。それはシスハという人間の中に別の何かが存在していたのではないかということ。
サトゥンの立てた仮説に対し、リアンが首を小さく傾げながら訊ねかける。
「人の中に入り込むなんて……そのようなことが可能なのでしょうか?」
「無論可能だ。それは人間に限ったことではない、魔人であろうが魔物であろうが、中に存在する魂を屈服させ、その中に強引に入り込む術は幾らでも存在する。現に私がキロンの村で似たようなことをやってのけているぞ?」
「村で、ですか?」
「うむ。初めてお前と出会ったとき、魔獣に殺された者たちを蘇らせただろう? あれは正確には生き返らせたのではなく、私が用意した新たな素体に対し、消えかけていた魂をねじ込み適合させる術式だ。すなわち、素体と浮いた魂さえあるならば人間の体に別の者が入り込むことは可能なのだ。現に魔人界には屠った強者の体を転々としている変わり者もいてな」
「はあ……魔人界って凄いんですね」
「そうだぞ! 私は凄いのだ! ふはははは! もっと褒めろ!」
「あ、あれ?」
魔人界の人間離れしたことを感嘆したつもりだったが、どうやらサトゥンの中では魔人凄いイコール自分凄いという方程式が成り立ってるらしい。
一瞬きょとんとしたものの、どこまでもサトゥンに甘いリアンはサトゥンが喜ぶならそれでいいかと突っ込むことを放棄してしまっている。
ひとしきり満足気に笑った後、サトゥンは説明を続ける。
「もし、シスハが現状そのような状態であるならば、いくら問い詰めても何も吐かぬだろうな。奴は私との戦いにおいて人間の限界を超えた力を使用したはずだ。おそらくシスハの中に潜んでいた者は消えている。これ以上は『限界』だと見切り、『シスハ』を捨てたのだろう。口にするのも忌々しいがな」
「では、巫女シスハの中にいた何者かの正体とは、魔人ということでしょうか?」
「それは私にも分からぬ。ただ、奴がこれで終わったとは思えん。奴の私に対する憎悪は異常だった。奴とはまた対峙することになる……そんな予感がしてならん」
「でも、サトゥン様はそのシスハに勝利されたんですよね? 僕は気を失ってしまったのでその後のことは分からないのですが」
「む……ふはは! 無論である! 私は最強であるからな!」
「わあ、やっぱりサトゥン様は凄いです。ところでサトゥン様はどのようにお勝ちになられたんですか?」
「…………どのように、だと?」
リアンの突然の問いかけに、サトゥンの動きが急激にぎこちなくなる。
そんなサトゥンの様子の変化にリアンは気付くことなく、目を輝かせたままで訊ねかける。
「あのときまで、僕たちは逆境でした。完全にシスハに追い詰められていました。ですが、僕が倒れたあと、サトゥン様は一人でお残りになってシスハを倒してみせたのですよね?」
「う……む……まあ、そうだが」
「どんな風に倒したんだろうって、サトゥン様が目覚めるまでどきどきしながら考えていたんです。他の人に訊いても何も教えてくれないし、サトゥン様に直接訊けとしか言ってくれませんし……ですので、教えて頂ければ、と」
どこまでも純粋ににこにこと訊ねかけるリアン。いつものサトゥンなら『そうか! そんなにも勇者の戦いが知りたいか!』と胸を張ってどう戦ったのか丸一日かけて説明するところだが、今のサトゥンは非常に困り果ててしまう。
なぜなら、彼とシスハの戦いの内容、これは勇者として胸を張れるところが何一つもない。
リアンが傷つけられたことに憤怒し、我を忘れるほどに激昂し、シスハを殺すつもりでサトゥンは戦ってしまった。言ってしまえば、最後の仲間たちから『声』を送られる瞬間まで怒りに身を任せて感情のままに戦ってしまったのだ。
それは勇者を目指すサトゥンにとって何よりも格好悪いことだ。勇者とは他の為に戦う者、勇者とは誰かの為に戦う者、勇者とは想いを背負って戦う者。
あれだけラージュやミレイアの前で勇者の素晴らしさを語っておきながら、いざシスハとの戦いでは殺意に身を委ね暴走したなどと言える訳が無い。
そして、サトゥンは己が命を削り、魔核を暴走させて力を引きあげた。それはすなわち、自分の死をも覚悟して戦っていた。
自分のためにサトゥンが命を削ろうとしていたなどと、リアンがそのことを聞けば絶対に悲しむ。間違いなく悲しむ。誰よりも悲しむ。
他の誰でもなく、リアンにそんな姿を知られる訳にはいかない。何としても隠さなければならない。覚悟を決めたサトゥンは覚悟を決めて隠し通すことを決めた。だが、彼は致命的に嘘が下手くそな男であった。
「シ、シスハはあれだ、その……私の圧倒的勇者オーラに動きを封じられ、その隙に倒したのだ!」
「圧倒的勇者オーラ……凄い響きですね、サトゥン様にそのような技が」
「い、いや、隠していた訳ではないのだが、あれは奥の手の中の奥の手、我が秘術だったのだ! 人前で無暗に見せられぬ勇者の隠された力が解放され、シスハはその輝きに降伏したという訳でな」
「降伏したんですか? 先ほどはその隙に倒したと……」
「そうであった! いや、その通りだ。私の抑圧的魔人オーラによってシスハを拘束して、その隙に我が拳が敵を射ぬき、吹き飛ばしたという訳だ、うむ、そうに違いあるまい」
「抑圧的魔人オーラと圧倒的勇者オーラは違うんですか? 様々な技を使いこなすなんて、やっぱりサトゥン様は凄いです」
「ふ、ふははっ! そ、そうであろう、そうであろう!」
サトゥンの生まれて初めて並び立てる嘘は恐ろしくバレバレであったが、相手がリアンだったのが幸いだった。
彼の話を微塵も疑ってないリアンだからこそ、何とか隠し通せているが、他の者が絡んでしまえば彼の嘘がばれるのも時間の問題となる。
どうやら仲間たちはリアンにサトゥンの怒りによって変貌し戦った姿を秘密にしてくれているらしい。ならば後はリアンに内密の内に話を通し、隠し通す。
とにかくサトゥンはリアンを傷つけたくない一心だった。ばれたくない一心だった。だからこそ、完全に余裕を失っていた。まるで悪戯を親に隠し通そうとする子供のように。
どたどたと多人数が室内に近づく音が聞こえ、その扉が盛大に開かれ、その先頭だったミレイアの第一声――その言葉に冷静に対応出来ないほどに、必死で。
「サトゥン様! お体の方は無事ですの!? どこか痛みなどはありませんの!? あなたもリアンさんに負けないほど危険な状態で――」
「待てええええええ! その話、少し待てええええいっ!」
ベッドから美しく、アクロバティックに跳びあがり、四回転半を決めながらサトゥンは駆け寄ろうとした英雄たちの前へ立ち塞がる。何としてもリアンの耳にあの日のサトゥンのことを入れるのを防ぎたかったようだ。
だが、サトゥンは肝心なことを忘れていた。否、気付こうともしていなかった。今、彼の体を包むものはシーツだけだということを。
上半身も下半身も何も着ていない彼が、シーツを跳ねのけるほどの動きで宙を舞い、ミレイアたちの前で着地する。
そうするとどうなるか。決まっている。全裸である。一糸纏わぬ筋肉がサトゥンを心配して集まった英雄たちの前に立ちつくしているのである。人間には超えられぬ圧倒的何かをぶらさげて、だ。
突然の状況に頭が真っ白になる英雄たち。時が止まる室内。ゆっくりと真っ赤に染まりあがる女性陣の顔色、逆に真っ青になる男性陣の顔色。
張り詰めた空気は、恐ろしき混沌と共に破裂の瞬間を迎えるのだった。耐えられなくなったマリーヴェルが目を背けながら悲鳴をあげた。
「いやーーーーー! 変態変態変態変態変態変態変態! 最低! 本当に最低! 信じられない!」
「いやいやいやいや! 何してんだよ旦那! なんつーもんぶら下げてお出迎えしてんだよ!?」
顔を真っ赤にして剣を抜こうとするマリーヴェルと、隣のライティの視界を必死に隠して声を荒げるロベルト。
流石の彼等もまさか扉を開ければ全裸の勇者がお出迎えなど微塵も想定していなかっただろう。
彼らは意識を保てているだけまだましな方だ。正面からサトゥンの全裸を見てしまったミレイアは何故かうずくまって泣いているし、メイアに至っては気を失っている始末。どうやらマリーヴェルよりもメイアはその手の耐性が拙いらしく、一撃で意識を持っていかれてしまった。
阿鼻叫喚の地獄絵図にも、サトゥンは状況が理解できず首を傾げるばかり。どうやら自分が全裸であることを未だ把握できていないらしい。
「むう、お前たちに何を騒いでおる! まだリアンは安静の身だというのに、騒ぎ立ててはいかんだろう!」
「全裸の変態にそんな常識説かれたくないわよ! 何であんた下着すらはいてないわけ!?」
「何、全裸だと!? ……おおお? いつのまに私は全裸になっていたのだ!」
「気付いてなかったのかよ!? 普通目覚めてすぐ気付くだろ!」
「いや、確かに体に受ける風が心地よいとは思っていたが。ふむ、まあ、問題あるまい」
「問題しかないわよ!? 早く服を着なさいよ服を!」
「服がどこにあるか分からぬのだ。そもそも本当になぜ私は全裸なのだ?」
「お前が目覚める瞬間まで、俺が体を水布で拭いていたからだ。そういえばお前が目覚めたことを報告する事を優先して、服を着せるのをすっかり忘れていた。すまんな、サトゥン」
「ぬ、グレンフォードよ、気を失っている間面倒をかけたな。ふはは! 構わぬ構わぬ! 勇者たる者、時にこうして肉体の素晴らしさを仲間たちに示すのもまた……」
「いいから服を着ろっ! 心配して損したわ、この変態勇者っ! 馬鹿勇者っ!」
一瞬にして喧騒に包まれる室内の中で、呆れるように大きく溜息をついてリアンに近づくのはラージュ。
サトゥンを中心に巻き起こる騒動を外から眺めながら、ラージュは笑ってリアンに口を開くのだ。
「本当に、面白い男だね。この一週間、沈み込んでいたみんなの暗い気持ちを一瞬にして消し去ってしまったよ。もっとも、流石に褒められた行動ではないけどね」
「それがサトゥン様だからね。サトゥン様の笑顔はみんなに元気を与えてくれる――本当に最高の魔法なんだから」
「ははっ、確かに。サトゥンが騒がしい限り、落ち込んだりしている暇は与えられなさそうだね」
笑いあうラージュとリアン。彼らの視線の先、賑やかさの中心にはサトゥンの笑顔があった。
サトゥンが倒れて一週間。その日から仲間たちは本当の意味で明るさを取り戻すことができなかった。だけど今、サトゥンが目覚めてやっとみんなにいつものらしさが戻った気がした。
どんな形でも、みんなに『いつもの日常』を与えてくれるサトゥン。そんな彼が意識を取り戻し、ちゃんと戻ってきてくれた今をリアンは誰よりも喜ぶのであった。
それからの一週間は目まぐるしく過ぎていく。
意識を取り戻したサトゥンであったが、彼はミレイアから一週間は絶対安静を命じられていた。
無事だと何の問題もないと訴え遊びに行かせろと叫ぶサトゥンだが、じと目のミレイアから『言うこときかないならあの日のことをリアンさんにばらします』と手札を切られ、すごすごと引き下がる他なかった。彼としてはどうしてもリアンにあの戦いはばれたくないらしい。
結局サトゥンは一週間の間、リアンと共に客室のベッドで安静にし続けるしかなかった。だが、彼らが暇をすることはなかった。
仲間たちは勿論、各国の王たちが入れ替わりでサトゥンのもとを訪れ、雑談に興じてくれたからだ。
王たちはサトゥンによってエセトレアが救われたことに感謝の言葉を告げ、何度も頭を下げた。それはまさしく物語の勇者のような扱いであり、サトゥンはこの一週間、天にも昇る幸福な時間を過ごすことができたようだ。
安静と言っても、体を使って暴れ回らないというだけだ。毎晩サトゥンは各国の王や仲間たちを交えて宴会の日々を送っていた。勿論、お酒を好まない組は早々に就寝していたが、この一週間でロベルトが何度も厠に駆けこんだことだけは記しておく。ロベルト・トーラ、弟分や妹分の盾となり、宴会に強制参加させられる良い男である。
一週間の時は過ぎ、サトゥンの体もリアンの体もミレイアから無事お墨付きをもらったことで帰国の準備を始める。本来ならば七国会議の開催期間はとうに終えており、王たちも早々に自国に戻らねばならなかったのだが、彼らはサトゥンが完治するまで滞在を長引かせたのだ。
それは彼らなりのサトゥンや英雄たちへの誠意であると共に、これからのエセトレアとの友誼を結ぶ上で大事な時間だったのだろう。
エセトレアがフリックの支配から脱却し、ソラルを王に据えたことで、隣国のローナンやランドレン、クシャリエは戦争の危険を潰すことができたとともに、鎖国からの解放で新たな貿易相手を手に入れることができた。
すなわち、エセトレアの民を救ったことは、各国の王としても一人の人間としても心から喜ばしいことなのだった。
そして、とうとうサトゥンたちがメーグアクラスへと戻る日がやってきた。
彼らはエセトレア城下街の郊外に集まり、各国の王たちに見送られていた。暫定エセトレア王となったソラルがサトゥンたちに改めて感謝の言葉を紡いでいる。
「ありがとう、サトゥン、そして英雄たちよ。君たちのおかげでエセトレアの民の命は奪われることもなく、そして他国と戦争に発展する事もなかった。君たちはこのエセトレアにとって救国の英雄だ」
「ふはははははは! 構わぬ構わぬ構わぬぅ! 力なき人々の命を救ってこそ勇者! 人々の幸せを守ってこそ英雄! 我らは我らの為すべきことを果たしたまでだ! だが、この大陸の英雄として名を残させてほしいとそこまで言われてはしかたあるまい! 勇者サトゥンとその英雄像をこのエセトレア城下街に設置することを許そうではないか! いや! 城下街だけとは言わず、エセトレア全ての国に勇者英雄像を作るべきである!」
「おい、サトゥンの旦那、謙遜するどころか無茶苦茶要求してるぞ。いいのかよ、あれ」
「あ、あはは……」
勇者としてどこまでもちやほやされたい、実に彼らしい要求だなと各国の王は誰もが納得して笑っている。
金銭や地位などではなく、本当に子供のように純粋に褒められたいもてはやされたい、それがサトゥンの原動力なのだと王たちは完全に理解している。
裏表のない、どこまでも子供のような真っ直ぐな男だからこそ、彼らはサトゥンを認め、友として友誼を結んだのかもしれない。
そんなサトゥンに、ティアーヌやギガムドも別れの言葉を交わしていく。
「レーヴェレーラのことは私たちに任せて頂戴。シスハの身柄を手札にして、色々と突いてみるわ。もっとも、あちらはシスハを切り捨てるかもしれないけれどね」
「うむ、国家間の問題などは私にはよく分からんが、頼むぞティアーヌ」
「ええ。欲を言うのなら、そちらのお嬢さんもレーヴェレーラへの圧力の手札として欲しかったのだけどね」
そういってティアーヌは視線をクラリーネへと向ける。だが、ティアーヌの視線から守るようにマリーヴェルが間に立ち、きっぱりとティアーヌの要求を拒否する。
「駄目よ、これは私たちの戦利品だもん。約束は約束、しっかり守って貰わなきゃ。キロンの村でこれでもかってくらい、こき使ってあげるんだから」
「ふははは! 英雄のものは勇者のもの! 今日からお前は女神リリーシャの騎士ではなく、勇者サトゥンの騎士としてキロンの村で誠心誠意働くのだ! 悪いがティアーヌよ、クラリーネにはキロンの村で私とともに子供たちと鬼ごっこをする役目を与えねばならぬのでな!」
「……まあ、そういうことらしい。私の持つ情報はこの二週間で話した通りだ。力になれず済まないな」
「構わないわよ、言ってみただけだから。それに、レーヴェレーラがあなたに追手を刺し向ける可能性も否めない。ならばより強き者であるサトゥンたちの傍にいたほうが安全だわ」
「怖いことを言わないでくれ。私は彼らを下らぬ争いに巻き込むつもりはないのだから」
笑うティアーヌと、大きく息をつくクラリーネ。彼女は約束通り、マリーヴェルと共にキロンの村へ向かうことになった。
そして、共にキロンの村へ向かうのはクラリーネだけではない。ソラルは視線をリアンの横に並ぶラージュに向けて、確認するように口を開く。
「ラージュもサトゥンと共に行くのだな。お前が残ってくれるなら、新魔法院の院長の座を用意しているのだが」
「申し訳ないね、ソラル。どうやら僕は肩の凝りそうな魔法院より、『こっち』の方が性に合っているらしい。僕も彼らと共に行き、自分を見つめ直そうと思う。本当にらしくないとは思うけれど、僕も彼らのようになりたいと思ってしまったから」
「彼らのように?」
「――『信じてくれた者の期待に必ず応える者、どんな状況でも人々の希望となる者』。彼らが約束通り僕たちを救ってくれたように、僕もまた誰かを救えるような、そんな男に……ね」
きっぱりと断言し、ラージュは仲間たちに改めて頭を下げて『これからもよろしく』と笑う。
そう、ラージュは英雄としてサトゥンたちと共に歩く未来を選んだ。約束通り、サトゥンと仲間たちは力を合わせてラージュを絶望から救ってみせた。
そんな彼らに恩返しがしたい。何よりもそんな彼らのようになりたい、それがラージュの胸に湧いた感情であった。
リレーヌのためだけに生き、リレーヌを救うためだけに過ごしてきた少年が胸に抱いた新たな夢。それが英雄になることだった。
そんな彼を仲間たちは笑顔で迎え入れる。仲間たちと握手を交わしてゆき、破顔するラージュだが、無事にすんなり終わることはなかった。
無論、騒動を起こすのはいつだって勇者サトゥンの役割である。彼は胸を張り、声高らかに笑いながらラージュにあることを突き付けるのだった。
「ふはははは! お前が我らと共に英雄の道を歩むのは当然の未来である! 英雄ラージュよ、お前の覚悟、決意、心より祝福する! だが、お前が英雄として道を歩くのは構わぬが……何か忘れているのではないか?」
「うん? 特に忘れ物はないと思うけれど……あ痛っ」
首を傾げるラージュに対し、サトゥンの痛烈なデコピンが炸裂する。
もだえるラージュに対し、サトゥンは『私怒ってます』というように声を荒げて言葉を続ける。
「馬鹿者! お前一人で我らについてくるなど認められるか! お前はこれまで何のために戦ったのだ! リレーヌの為だろう! そのリレーヌを置いていこうとするなど私は決して許さぬぞ! リレーヌはどこへいったのだ!」
「あ、ああ……彼女はティアーヌに任せている。フリックの支配から解放され、やっと彼女は自由な人生を歩むことができるんだ。もうフリックにも僕にも捕われる必要はない。彼女には彼女の幸せを……あ痛っ」
「戯け! それをリレーヌが望んだのか! 本当に彼女の意見を聞いたのか! それはお前が勝手に決めつけてることではないのか! どうなのだ! 勇者の物語はいつだって最高に幸せな結末を迎えねばならぬのだ! 我々はエセトレアの人々の命を救う為に戦ったが、それと同時にお前の笑顔を取り戻すために戦ったのだぞ! お前はリレーヌと共に在ることが一番の幸せなのだろう! それを諦めてどうする!」
「で、でも……」
「サトゥンの旦那、サトゥンの旦那。こいつ、リレーヌが意識を取り戻してから一度も顔を合わせてないんだぜ。もし拒絶されたらと思うと、怖くて会えないって」
「あ、こ、こらっ、ロベルトっ! この裏切り者! それは誰にも言わないって約束がっ」
「やはりリレーヌの本意を確認しておらぬではないか! 私はお前が幸せになるまで、英雄として道を歩き出すことは決して認めぬぞ! 少なくともリレーヌに己の意思をしっかりと伝えるまでは絶対に!」
ロベルトからの密告を受け、サトゥンは俄然勢いを増してラージュを責め立てる。
サトゥンの言う通り、ラージュの行動はリレーヌの解放という名の逃げだった。彼も何だかんだいってまだ子供なのだ。
怖かった。操られていたとはいえ、仕方なかったとはいえ、リレーヌと共に在った自分をどのように思っているのか確認するのが怖かった。
もしフリック同様、自分もまたリレーヌを利用した人間だと彼女に蔑まれたら正気でいられる自信がなかったのだ。
怖い。怖い。拒絶されるのが怖い。リレーヌに触れたくとも、その真意に触れることが怖くてたまらない。
ゆえに、ラージュは今日まで逃げ続けた。リレーヌが意識を取り戻し、その順調な様子をティアーヌから伝えられても、直接会う勇気が最後まで持てなかった。
だが、ここで逃げる道をサトゥンが完全に封じてしまった。彼らと共に行くには、リレーヌから逃げることは許されない。
そんなラージュに迷う時間は許されない。待ってましたとばかりに、ティアーヌが『打ち合わせ通り』口を開いて告げるのだった。
「では直接彼女の意思を確認してみましょうか。『偶然』、リレーヌもここにいるみたいだし」
「なっ!?」
ティアーヌの合図と共に、彼女と共に見送りに来ていた付き人の一人がゆっくりと顔を隠していたフードを取る。
フードの下から現れた少女――リレーヌの姿に、ラージュは驚愕する。それこそ心臓が止まってしまいかねないほどに、だ。
どうやらこの状況にもっていくことは、ラージュ以外の誰もが知っていたらしく、そんな彼の姿を微笑ましく笑っている。
ここにきて完全に一杯喰わされたことを悟り、顔を顰めるラージュだが、そんな彼の背中を後押しするように、サトゥンが軽く彼の背中を押して優しく言葉を紡ぐのだ。
「別に難しいことなど求めておらん。お前は自分の『本音』をリレーヌにぶつけるだけでよいのだ」
「本音……」
「そうだ。己を偽ることなく、正直な気持ちを伝えるがいい。お前がリレーヌにどうしてほしいのかを、率直に伝えればよいのだ。後悔だけは残さない、その気持ちを強く持つことができたなら、自然と伝える言葉は一つとなろう」
不安そうなラージュに、サトゥンは自信を分け与えるように頼もしく笑って送り出す。
サトゥンたちに背中を押され、ラージュはリレーヌへと一歩進み出る。だが、未だ彼女を直視する勇気は持てない。それでも、ラージュは言葉を伝える決意を固める。
リレーヌに伝えよう。君はもう、何も縛られることは無いと。もう自由だと、僕にもフリックにも縛られない生き方を、自由を望んで欲しいと。
ティアーヌのもとで治療に専念し、心を完全に取り戻したならば、もう一度笑ってほしい。たとえその笑顔が傍で見守れなくとも、それが自分の幸せだから。君の笑顔を取り戻すために、僕は今まで生きてきたのだから。
そう、伝えようとした。伝えるはずだった。離れ離れになっても、リレーヌの幸せの為ならば、笑って見送れるはずだった、けれど――その言葉は最後まで言えなくて。
代わりに出た言葉は、どこまでも自分に正直な言葉だった。リレーヌの迷惑になるかもしれないと分かっていても、傷つけるかもしれないと分かっていても、それでも――
「――どうか、僕と一緒に来てほしい。この言葉が君の重荷になることは分かっている。だけど、だけど、それでも僕は……僕は、君と別れたくない。リレーヌ、君と一緒がいい。君とどこまでも共に、生きていたいんだ。どこまでも自分勝手だと分かっていても、それでも、僕は……君と離れ離れになるのは、嫌なんだ」
抑えきれない感情は涙となり、ラージュの頬を伝ってゆく。これまで自制してきた想いが止められない。
それは少年の何一つ偽りない本音だった。リレーヌと共に生きたい、例え迷惑だと思われても、それでも望まずにはいられない。
傍にいることでリレーヌを傷つけるかもしれない。彼女がそのようなことは望まないかもしれない。拒絶されるかもしれない。それでも、ラージュは願わずには、求めずにはいられなかった。
たとえ格好悪くても、子供のように必死に声に出さずにはいられなかった。家族として初めて自分を愛してくれたリレーヌを、ラージュは心から愛していたのだから。
この想いがリレーヌにとって余計なものとなるかもしれないと分かっていても、それでもラージュは必死に訴えるのだ。子供のように泣きじゃくり、何度も何度も、共に生きたいと。
そんな彼に、リレーヌはゆっくりと歩み寄り、そしてそっと屈み、視線を彼と合わせる。そのときラージュはリレーヌの表情を初めて視界に入れた。
その顔は、笑っていた。
フリックの手によって失われた、リレーヌの優しい笑顔。それはラージュが何よりも大好きな太陽のような温かい笑顔。
リレーヌもまた、目尻にいっぱいの涙を溜めながら、ラージュの手を両手で優しく包み、そっと言葉を紡ぐのだ。
それは、これまで操られ続けた無機質なものではなく、『リレーヌ・シルベーラ』という一人の少女の意思が込められた優しい言葉で。
「私も、ラージュと一緒にいさせて下さい。あなたといつまでも共に生きることが、私の夢だから」
「リレーヌ……君は、心を……」
「……私、全部覚えていたよ。ラージュが私のために、必死に戦い続けてくれていたこと、覚えていたよ。ありがとう、ラージュ。こんな私のために、沢山頑張ってくれて――本当に、ありがとう」
それがラージュの限界だった。彼はリレーヌの腕に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。
だが、それは決して悲しみの涙などではない。泣きながら、ラージュは笑っていた。リレーヌもまた、涙を零しながら微笑んでいた。
この日、離れ離れになっていた家族が一つになる。少年は最愛の姉を救うために戦い続け、少女は最愛の弟の想いに応えてみせた。
フリック・シルベーラという狂気の男によって運命を狂わされた二人が、ようやく夢見た瞬間に辿り着くことができたのだ。
その光景を、英雄たちは微笑んで見守るだけ。この光景こそが、英雄にとって何よりの報酬。この瞬間のために、彼らは戦い続けたのだから。
ラージュとリレーヌが抱き合う光景を祝福しながら眺めていた仲間たちだが、感情を抑えきれない男がここにも一人。
「ぐすっ……ふぐぅっ……よかった……本当に、よかった……そうだ、私はこの光景を、求めていたのだ……ぐすっ」
「あ、あの……サトゥン様、お顔が物凄く大洪水を引き起こしていますけれど……」
「気にするな、ミレイアよ……これは喜びの涙、拭うことなど勿体無い……このまま流させてくれ……」
ぐすぐすと嗚咽を漏らして大号泣する大男がここに一人。ラージュたちの光景の横で咽び泣く筋肉がここに一人。
ミレイアとしては、涙よりも鼻水をどうにかしてほしかったのだが、本人の希望ということもあり、そっとしておくことにした。絶世の美系が台無しどころではないほどに涙と鼻水塗れだが、見なかったことにするあたり、ミレイアの温情が窺い取れる。
結局、ラージュやリレーヌが泣きやむよりもサトゥンが泣きやむ方が遅くなってしまったのだが、それも後日の笑い話だ。
リレーヌも共にキロンの村へ向かい、そこでミレイアを主治医としてゆっくりと万全になるまで療養することになった。彼女は長年に渡り操られ続けたのだ、自分の力で体を精いっぱい動かすにはまだまだ時間がかかるためだ。
話もまとまり、別れの時間を迎える。出発の頃合いとみて、リュンヒルドが代表して各国の王へと別れを告げる。
「それでは我らは国へと戻ります。と言っても、後日すぐに顔を合わせることになるでしょうけれど」
「だな。エセトレア復興とレーヴェレーラへの対応、王としてやることは山積みだ」
リュンヒルドの言葉に合わせてベルゼレッドも笑って続ける。
そう、今回の騒動は完全に終わりを迎えた訳ではない。結局、フリックの狂った野望に手を貸したレーヴェレーラ神聖国、そしてシスハの狙いは分からず仕舞いだったのだから。
ただ、エセトレアの人々を救えたこと、ラージュたちが笑顔を取り戻したこと、これらが今回の大きな報酬だろう。
最後の別れの間際、ソラルはサトゥンを呼び掛け、手に持っていた物を差し出した。それを受け取り、サトゥンは首を傾げる。
「これは……石板か? ふむ、何やら文字らしきものが刻み込まれているようだが」
「城の地下深くに封じられていたものだ。これに幻を見せられて、我が父とフリックは凶行に及んだらしいのだが……何をどう調べても、奴等の言う幻を見ることは叶わなかった。魔に長けるラージュやサトゥンならば、もしかしたらその幻を解析する事ができるかもしれないと思ってな。受け取って貰えるだろうか。もしそれを見ることができたならば、レーヴェレーラの連中の狙いが少しは分かるかもしれない」
「それは構わんが……この石板はいったいどんな幻を映し出すというのだ?」
「フリックや先王曰く、『人間の罪と世界の終焉、女神の裁き』だそうだ。それを見れば人間の愚かしさが分かると言っていたが……」
「がはは! ならば私が理解する日は決してこないではないか! 人間ほど素晴らしく美しく愛すべき存在など他におらんというのに!」
楽しげに笑うサトゥンに、ソラルもまた笑うしかない。
人間賛美とでもいうのだろうか、本当にサトゥンは人間を心から愛しているのだなと彼は感じていた。
王として、人間の汚い部分はよく知っており、完全にサトゥンの言葉に同調はできないが、そんなサトゥンの生き方を眩く思う。人間を信じるということは、本当に心強き生き方なのだから。
いよいよ別れの時間を迎え、サトゥンは大空へ向けて大声を発する。呼び掛ける名は勿論、彼らをこの地へと運んでくれた桃色の巨鳥だ。
「ポフィィィィィィィルゥ! キロンの村へ帰るときが来たぞ! 早々に戻ってくるがいいっ!」
サトゥンの叫びが大空に響き渡ったかと思うと、待つこと数十秒、大空の向こうから巨大なデブ鳥が物凄い勢いで飛んできた。
その姿を見つけて大きく手を振って迎え入れるサトゥンだが、他の人間はサトゥンの周囲から完全に避難していた。この数秒後、どんな光景が待っているのか容易に予想できるからだ。
そんな仲間たちの期待に応えるように、ポフィールはサトゥン目がけて急降下……もとい落下した。それはもう、容赦なく。
見事にポフィールに踏みつぶされたサトゥンに、ポフィールは溜まった愛情を発露するかのようにゴロゴロとサトゥンの上を転がりまわる。シスハの一撃をも上回りそうな破壊力に、仲間たちはサトゥンの無事をそこはかとなく祈るだけだ。
そして、満足したらしく動きの止まったポフィール。その足元からもぞもぞと顔を出したサトゥンが何でも無いように言葉を紡ぐのだ。
「ふはは、長い間放置してて寂しかったようだな。愛情がいつも以上に重く感じるわ」
「……いや、実際重くなってねえかポフィールの奴。明らかに来たときより一回りでかくなってる気がするんだが……」
「成長期なんだね、ポフィール」
「そういう問題なのか……」
ライティの頓珍漢な回答に首をかしげつつも、ロベルトをはじめ仲間たちはポフィールの背に乗り込んで行き、帰国の準備を始める。
全員がポフィールの背に乗り込み、準備が整ったことを確認し、サトゥンは最後の別れの言葉をティアーヌたちに告げる。
「それでは世話になったな! また会おう、ティアーヌ、ギガムド、そしてソラルよ!」
「ええ、次は政治抜きで会いましょうね。可能なら王としてではなく、一人の女として、ね」
「また酒を酌み交わす日を楽しみにしているぞ、サトゥンよ。お前たちと過ごした日々は決して忘れぬ」
「また会おう、勇者サトゥンと英雄たちよ。お前たちの救ってくれたエセトレア、必ずや見違えるほどに発展させてみせる」
「ふはは! ではさらばだっ!」
そう告げて、サトゥンは両腕を突きあげ、空を飛行してポフィールの頭の上に乗った……つもりだった。
だが、いくら待てどもサトゥンの足は大地についたままで、彼は空を飛ばない。その光景に不思議に思ったマリーヴェルはサトゥンに対して声をかける。
「何いつまでも遊んでるのよ。早くポフィールの上に乗りなさいよ、置いていくわよ」
「うむ……うむ? ちょっと待て……よし、いくぞっ! とおおおおう!」
そう告げて再び両腕を突きあげて声を発するが、いくら待てどもサトゥンの体は一ミリたりとも空を飛ばない。
いつまでも昇ってこないサトゥンに、マリーヴェルだけではなく英雄たち全員がポフィールから見下ろし何事かとサトゥンへ視線を送る。
そんな英雄たちの視線を受けながら、サトゥンは何度も何度も首をひねっては腕を突き上げ空を飛ぶような仕草を繰り返すだけ。
遊んでいるように映ったのか、痺れを切らしたマリーヴェルがサトゥンの首根っこを掴んでポフィールの上へ連れて行こうとしたそのときだった。
両腕を空へと突きあげたまま、サトゥンは眉を顰めて英雄たちにとんでもない言葉を紡ぐのだ。
「……空が飛べぬ」
「……は?」
「いや、これは空が飛べぬというよりも――」
サトゥンの一言にキョトンとする仲間たちを余所に、首を傾げ続けながら、サトゥンは更にとんでもない爆弾を放つのだ。
彼の口から放たれた衝撃の言葉に、英雄たちの驚きの声は空を貫くことになる。
「――理由は分からぬが、どうやら魔力を用いる能力全てが使えぬらしい。どうしたものか」
どうやら騒動の嵐は未だ終わりを迎えることはないようだ。
エセトレアを始まりとして巻き起こった旋風は、次々に周囲を巻き込んで加速していく。それこそ世界中で暴れ狂うほどに、巨大に。
これにて七章は終りとなります。本当に……本当に長い章でした。三か月近くもかかってしまいました。
ここまで書きあげることができたのは、皆様のおかげです。
ここまで長くなってしまっても、見捨てずに応援下さった皆様、共に物語を紡いで下さった皆様。本当に、本当にありがとうございました。
ようやく皆様と七章終りをこうして迎えられたことを、幸せに思います……もっと計画的に話を進めてれば、もっと早くできたのでしょうが、いえ、本当にゴメンナサイ。
皆様の声、本当に励みになりました。沢山のメッセージ、本当にありがとうございました。折れずに最後まで七章進むことができたのは、本当に皆様のおかげです。
これからですが、連載を少しお休みして、ゆっくり八章を書こうと思います。今度は無計画に進めず、きちんと計画を立てて、終わりまで筋道を立てて書くつもりです。いや、本当に七章は無計画に書き過ぎました……反省ばかりです。
しっかり反省をいかし、次章へ活かしたいと思います。頑張りますっ。
次章である八章もしっかり物語は続きますが、これからも皆様と共に歩んでいければと思います。何卒お付き合いのほどよろしくお願いいたします。
優しく、楽しく、温かく。そんな物語を目指して最後まで頑張ります。本当にここまでお読み下さり、ありがとうございましたっ。
※活動報告に書籍版ミレイアのキャラデザをアップしております。よろしければ是非。




