36、姫殿下は民に清き『ありがとう』をお求めになり
春という季節は、フィロシュネーにとって明るくて、心浮き立つ季節だ。
そんな季節を迎えた都市グランパークスの青空は、まるで空そのものが鮮やかなサファイアのように輝いていた。
広場の端には出店が並び、出店に囲まれるようにして飲食ができるスペースがある。そんな空間に、踊り出したくなるような陽気な音楽が流れていた。
砂時計型の木筒を横に寝かせて両サイドに貼った膜を叩く太鼓と、つるりとした陶器みたいなお椀の形をした太鼓が仲よく音を寄り添わせて。
長さがまちまちの細長い竹筒を横に並べて紐でくくった笛が楽し気にメロディを響かせ。
弓で弾くタイプの弦楽器が、優雅な音を奏でている。
――たくさんの楽器が個性的な音を合わせて、ひとつの音楽をつくっている。
「夕方には、劇も演じられるのですよ」
「観てみたいわ」
お城にいた頃は、いつも決まったホールで、父のお気に入りの劇団が、父に許された内容の劇を見せていた。フィロシュネーが劇を観る時は、観客は王族だけか、父と二人だった。そんな日々も、懐かしい。
前に妹王女が石を投げられたステージの側まで歩いたフィロシュネーは、ミランダから『お小遣い』の袋を受け取り、サイラスを手招きした。
「サイラスにも、お小遣いをあげましょう」
フィロシュネーは、ずしりと重い袋から綺麗な貨幣を選んだ。あまり触れたことのない貨幣をつまむと、わくわくした。
何をやっているのか、と注目が集まる中、ゆったりとした動作でサイラスが膝をつく。
背でふわりとマントが揺れるのが空気の流れを感じさせて、フィロシュネーは一瞬、目の前の英雄に見惚れた。
「いいこと? このお小遣いは、ハルシオン様がくださったの。ですから、感謝はハルシオン様になさってね」
(ハルシオン様を討伐なさらないでね)
心の中でそっと呟く。父の配下なのだから大丈夫、と思いながら。
(だって、だって。生まれ変わりだから、という理由で死なないといけないって、理不尽じゃない?)
死ぬと呪いが解けるので、世界のためなので。そんな理由で、死なないといけない?
それは正義なのだろうか。フィロシュネーは、そんな理由で誰かが死なないといけないのは、おかしいと思うのだ。
「姫がいただいた時点でお小遣いは姫のお金。姫が判断してご自身のお金を俺にくださるなら、俺が感謝すべきはやはり姫ではないでしょうか」
「あなたって変なところで理屈っぽくてめんどくさい」
吸い込まれそうな黒の眼差しが、心なしか敬意や好意を感じさせる温度でフィロシュネーを見ている。薄い唇が笑みの形に端をもちあげるから、フィロシュネーは嬉しくなった。
(わたくしは、この英雄を喜ばせることができる)
けれど、返された言葉はちょっぴり残念だった。
「ありがたき幸せ。わん」
「い、犬の鳴き真似をなさらなくてもよくってよ」
(せっかく格好良いと思ったのに)
フィロシュネーは残念な気持ちになりながら、サイラスに「手を出しなさい」と命じた。大きな手のひらに袋ごと乗せてあげると、まるで雇い主の気分。
「おい、聞いたか。あの黒の英雄が犬の真似してる」
近くから噂する声が聞こえる。
見られているし、聞かれてもいる。そして、見聞きした者は「黒の英雄がこんなことをしているのを見たぞ」と知人に言って広めるのだ。世に伝わる彼の武勇伝は、こうやって人々の間に広まっているわけで。
「サ、サイラスぅ? 人前で迂闊な振る舞いをすると、せっかくの名誉が傷つくのではなくて?」
「わん?」
「わん、ではありません」
「楽しそうなところすみませんが、そろそろよろしいでしょうか、姫殿下?」
ミランダがくすくすと笑って、壇上へと促した。
フィロシュネーはミランダに手を引かれるまま、広場に特設された壇上にあがった。
開催を提案した立場ということで、演説をすることになっているのだ。
「聖女様!」
「我らがグランパークスの姫……」
都市グランパークスの民が手作りらしき黒い旗を振って声援を送っている。
「黒旗は、姫殿下に忠誠を捧げる者の旗だそうですよ」
ミランダは苦笑する様子で教えてくれた。
「空国の者としては、取り締まるべき動向なのですが。個人的には、黒旗を振ってみたくなる気持ちもわかります」
商会長なんて、率先して旗を振ってしまいそう。そう呟くミランダの声は、優しかった。
空色と青色の間で揺れる黒い色は、くっきりと目立って見えた。
旗を振る人は、皆、目が合うと明るく顔を輝かせた。
まだ日は高くて、空が青い時間。
おひさまはあたたかで、画家が筆を楽しく遊ばせたような白い雲がゆったり、ゆったり、高い空を流れていく。
鳥が群れをなして飛んでいく。
息を吸いこむと、世界の匂いがする。
たくさんの視線を意識すると、すこし緊張してしまう。
胸で鼓動がとくん、とくんとリズムを刻んでいる。
みんなが生きていて、自分もまた、生きている。
――ハルシオン様がひとりぼっちでお花を捧げていた墓地とは、ぜんぜん違う。
わたくしの世界は、他者と響き合う世界。
自分と同じ考えや、自分と違う考えに出会える世界。
誰もいないあの墓地の世界には、こんな『他者に認識される自分』という感覚がない。『他者の中に存在する自分』がない。
「凍える季節がおわると、緑が芽吹いて花が咲くのが、ふつうの大地です。けれど、これまでは、ふつうが難しくて、みなさまは苦しい生活を余儀なくされていました」
祈るように神聖につむいだ声は、広場によく通る。
フィロシュネーの声がよく聞こえるようにと、民が口を閉ざし、耳を澄ましているのだ。
「わたくしたちの大地は、これからもっと、豊かになります。やさしい雨が潤いをめぐんで、枝には実がなることでしょう。作物も、たくさん、たくさん、実るようになるでしょう」
移り気な空の青の瞳がキラキラと神秘的に輝いて、皆がその輝きに夢中で頷いた。
これから、良い時代になるのだ。
これから、世の中はよくなるのだ。
――自分たちの世界には、希望があるのだ。
(サイラスは、どうかしら)
彼の黒の瞳は、仄暗い感情を見せる瞬間がある。
諦観。
絶望。
悲哀。
憤怒。
(わたくし、あなたにも希望を見せられる?)
――視線は前に向けたまま、言葉を選ぶ。
「北方と南方は、加護がなくても困らないのだとききました。わたくし、空と青の大地が北と南みたいになるとよいと思うのです」
思い切りよく声を響かせると、わぁっと明るい歓声が湧いた。
そんな言葉がほしかったのだ、と喜ぶ笑顔がいっぱいいっぱい並んでいて、フィロシュネーはどきどきした。
『生活が不安定だと人は不満を覚えやすくなったり怒りっぽくなるものです。人心が荒れる、というやつですね』
サイラスの声を思い出しながら、フィロシュネーは両手を前に出して、奇跡の花びらを舞わせた。
この日のために貯めた花びらを全部つかって民にみせたのは、自分たちの国にあらわれた、明るい風景。
植物の芽だったり、涼やかな音をたてて流れる清流だったり、魔物がいなくなった山でのびのびと過ごす鹿やうさぎだったり。
とある家で赤ん坊が生まれて、一家がみんなで喜んでいたり。そんな、見ているだけで嬉しくなる光景。
(ねえ、サイラス。魔物が減り、暑さや寒さ、お金にも、お水にも食べ物にも、何にも困らなくなったら、みんなが幸せになれますか?)
フィロシュネーは心の中で問いかけながら、歓声にこたえるように笑顔を咲かせた。
「みなさまが奇跡に感謝の気持ちを捧げてくださると、神鳥さまはお喜びになります。ありがとう、です。そのひとことが、奇跡を行使する力となるのですわ」
「フィロシュネーは『ありがとう』を求めます。どうぞみなさま、フィロシュネーに清きただひとことの『ありがとう』をくださいまし」
呪術王はハルシオン様です。
けれどわたくし、「ハルシオン様が呪術王だから」という理由だけで、彼の討伐はさせません。
過去をもう少し探ってみたい。呪いに関して調べてみたい。
もしかしたら、ハルシオン様を殺さずに呪いを解く方法もあるかもしれないじゃない?
お父様、お兄様、……サイラス。
わたくしは今、そう思っています。




