31、あなたは、英雄になるのよ
吸い込まれそうな星空が「晴れ」という天気を物語る、夜。
カントループ商会が仮の拠点化している都市グランパークスに戻ったフィロシュネーは、自室で神鳥の奇跡を観ていた。
子供たちがくれた花びらの見せる真実は、過去の英雄を映し出している。
――いつかのサイラス。英雄と呼ばれる前の少年を。
ぴくりとも動かなくなった仲間を背負って、自身も満身創痍の少年が一歩、一歩進んでいく。
足元はぬかるんでいて、足跡がぬっとりと後に重苦しく残されていた。
透明な汗と赤い血が混ざってしたたり、荒い息は疲労を語る。
時間は、夜だった。
分厚くて陰気な暗雲が、星や月の明かりを遮っている。
冷たく乾燥した風は、死に抗う体温を冷やしていく。
地響きのような音が、後方から近付いてくる。
追われている。逃げている。
身を隠す場所は、なかった。
馬のいななき。人の声。
武器の金属刃が奏でるしゃらりとした音。それが、恐ろしい。
「いたぞ!」
少年は、抗戦のために仲間を大地に寝かせた。
仰向けに横たわる仲間は、目を見開いている。呼吸をしていない。どう見ても、息絶えていた。
仲間の瞼を閉じさせて、形見である剣を抜き放つ。
しゃん、という涼やかな音が鳴り、夜気を切り裂くように鋼の線が奔る。
踏み込みは足元を大きく沈ませた。
柔らかで、ぐにゃりと沈むぬかるみの地面だ。
この足元は戦いに適した硬さではなくて、優れた体幹でもバランスを崩しやすくて、踏ん張りが利かないだろう。武術に通じないフィロシュネーでも、そう思った。
「小僧! 追い詰めたぞ!」
大人の声は、勝利を確信して疑わない声だった。
仲間がいる。追い詰めた側だ。体力的にも身体的能力でも、上である。
そんな優位に裏付けられた、死刑の執行役のような声だった。
斬撃の軌跡が暗い夜の地上に月を招いたみたいに閃く。
上から振り下ろされる大人の剣に対抗せんと下から駆けあがる剣身は、聞いているだけで身がすくむような衝突音を奏でた。
――キン、と表すには、重すぎる。
そんな殺伐とした防戦の音に、悲鳴のような驚愕の呻き声が連鎖する。
「なっ!?」
上からの一撃に下から抗う不利を思えば、いっそ異常とも言える膂力。
そんな少年の剣が、殺意の剣を跳ねのける。切っ先はそのまま軌道を変えて、反撃の刃となる。
「あぁぁっ!!」
1秒にも見たない攻防の末、少年の刃は悲鳴を生み出して、攻撃を仕掛けた側の男の大腿から鮮やかな赤を噴出させた。
生命活動に必須の赤い色。
それが地面をしとどに濡らす中、怒号があがって複数の敵の剣が次々と少年に襲いかかる。右から。左から。背中から。
敵は、1人ではないのだ。それは残酷な現実だった。
囲まれて、多勢に無勢。フィロシュネーは、その光景に震えた。
死んでしまいそう。
殺されてしまいそう。
少年が傷ついていく。
血塗れた膝が折れて、ぬかるんだ地面について、倒れ込む背が大人の靴に踏みつけられる。
敵のひとりが少年の仲間の死体を蹴り飛ばす。少年が怒りの声をあげる。
「……あなたは、英雄になるのよ」
死なないで。
死なないで。
震える声で、フィロシュネーは首を振った。
これは、過去だ。過ぎ去った時間だ。
もう終わった出来事なのだ。そう自分に言い聞かせながら。
「あなたは、負けないのよ。あなたは、死なないのよ」
味方がいない。
助けがない。
生きるためには、自力でなんとかしなければならない。
今現在のフィロシュネーが過去の映像に向かって何を言っても、意味などない。
そう思いながらも、言葉をかけずにいられない。
「わたくし、聞いたことがあります。英雄はどんなにピンチでも、奇跡みたいに勝利するの。絶対ぜったい、最後には勝つのです……」
だから、勝ちなさい。
だから、生きなさい。
移り気な空の青を揺らして呟くフィロシュネーは、目を見開いて言葉を止めた。
映像の中の少年と、一瞬目が合った気がしたからだ。
絶望と怒りに染まった漆黒の瞳がほんの一瞬、フィロシュネーを見た気がしたのだ。
フィロシュネーは励ますように語りかけた。
「あなたは、負けないのです。あなたは、生きるのです。あなたは、英雄と呼ばれる男になるのです」
神聖な気分で、祈るように言葉を捧げて。
――その瞬間、映像は終わった。
奇跡が幕を閉じたとき、フィロシュネーの背は汗でじっとりと濡れていた。
あれは過去の出来事なのだと思っても、恐怖は心に染み付いて、心臓はばくばくと騒いでいた。
千々に乱れる情緒を持て余してバルコニーに出ると、夜空は美しく、空気は澄んでいた。
芽吹きの季節特有の優しい自然の香りがする。
ここは、あの映像の世界とは別世界のように、安全だ。
フィロシュネーはそう思いながら、残りの花びらをつまんだ。
眠るはずの時間にひとりで、本来知ることのできない過去を覗く行為は、刺激的だった。
まるで、神様にでもなったよう。
(――……あ)
奇跡を行使しようとしたとき、ふと人影に気付いてフィロシュネーは視線を落とした。
バルコニーの下で、星空を鑑賞するフィロシュネーを見上げている男は、つい先ほどまで過去を覗いていた対象――夜に溶け込むような『黒の英雄』。そう呼ばれるようになった、サイラスだ。
視線が上と下でぱちりと出会って、フィロシュネーの胸でどきりと鼓動が跳ねた。
過去を覗き見していた後ろ暗さが背に湧く。そんなフィロシュネーの視界に、サイラスが汗をぬぐうのが見えた。
手には剣が握られていた。
素振りでもしていたのかもしれない。
(あなたの大切な村、わたくしが潰してしまったわね)
どうにもならない現実に持て余した未消化な感情を、体を動かして解消しようとしていたのかもしれない。フィロシュネーはそう思った。
「ごきげんよう。月が麗しい夜ですわね。そう思わなくて?」
誘っても、英雄は月を見ない。
ただ、フィロシュネーだけを見上げている。
「よい子はおやすみする時間ですよ、お姫様」
「わたくし、夜更かしするのが好きなの。夜って、わくわくするわ。眠るのがもったいない……そう思わなくて?」
ああ、あなたは夜に対して趣を覚えるより、生死を思うのでしょうね?
一緒にいる誰かや自分が、朝には死んでいるかもしれない。きっと、そんな夜が当たり前だったのだ。
フィロシュネーは止められるより先にバルコニーから身を躍らせた。下に引っ張られる力を感じて、全身が落ちる。大地の深いところには濃厚な魔力の層があって、そこが地上のあらゆるものを自分のほうへと引っ張っているのだ。
落下する瞬間、フィロシュネーはそれを思い出した。
「っ、――……姫」
地上に落ちる全身を、危なげなく男の腕が抱き留める。
汗の臭いがする。触れる体温が熱くて、肌の内側からどくんどくんと脈打つ生命の音を感じる。
生きてる。生きてる。
――生きている。
フィロシュネーは、自分を抱き留めた男に腕をまわした。
(ああ、あなた、よく生き延びたじゃない? よく成長したじゃない?)
「おてんばというレベルではありませんよ。俺が受け止めなかったらどうするんです」
「あなたは、受け止めたわ」
呆れた気配をのぼらせる黒の瞳は、よくよく見つめると奥に仄暗い感情がわだかまっている。
諦観。
絶望。
悲哀。
憤怒。
「サイラス……よくできました」
フィロシュネーはほわほわと囁いた。
「あなたは、いい子ね。偉いわね。……偉かったわね」
「姫? 寝ぼけておられます?」
奇妙な生き物に出会ったような男の気配が日常感を高めていくので、フィロシュネーはくすくすと笑った。
「そうね、そうね。寝ぼけているわ」
「怖い夢でもご覧になったのですか」
幼い子供をあやすような英雄の声は、優しかった。




