第184話『昨日の敵はだいたい今日も敵』
翌朝。まだ日の昇りきらない南の海を、1羽の白い鳥が飛んでいた。大南大陸に生息している鳥・ポストバードである。
おつかいを任された子供のように、首からポシェットをぶら下げたその鳥は、先の見えない霧の海を迷うことなく羽ばたいて、濃霧の中から1隻の船を見つけた。
甲板を見下ろし、適当な人間を探すポストバード。すると突然、2つの方向から銃弾が飛んできた。威嚇射撃だった。
悲しきかな、こういった歓迎に慣れているポストバードは、その場でくるんと身を捻り、すれすれのところで銃弾を避けた。
そしてマストと甲板に、1つずつ人の影を確認する。
マストの少女は機関銃を、甲板の少年は拳銃を持っていた。こちらを危険な呪獣、あるいは誰かが差し向けた鳥型の兵器ではないかと警戒している様子だ。
近づくのは困難な状況。しかし何があっても手紙を届けるのが、ポストバードという生き物の性質であり、郵便機関で飼育されている所以であった。
どうやって無事に届けようか。考えあぐねて、船の上を遊覧していると、少年が耳を押さえて何かを喋り出した。無線機を使っているようだった。少しして船の中から出てきた美丈夫が、空に輪を描くポストバードを見上げた。
「あぁ、ポストバードね。大南大陸で管理されている鳥よ。世界中に手紙を届けられるの。手紙を出した人間はともかく、あれ自体に害はないから安心して」
そう言われると、ひとまず少年が銃を下ろした。少女は相変わらずだったが、剥き出しの殺意は収めたようだった。『下手な真似をしなければ生かしてやる』ということらしい。ポストバードは滑空し、甲板の手すりに足をつけた。
「でも、大南大陸に文通するようなお友達いましたっけ? 俺ら。っていうか、大南大陸って呪いの国でしょ。呪いって前に、ジュリさんが手紙を貰ってかかったことがあるんスけど……これもそういう類のもんじゃないっスか?」
「どうかしら。ポストバードは専用の郵便機関を通さないと使えないから、その可能性は低いと思うけど……」
「……まぁ、警戒しといて損はないでしょう。確かあの手紙は、宛名の人間が受け取るのが発動の条件だったはず……今回宛てられてなさそうな人が取るのがよさそうっスね。たとえば」
「私でしょう」
「ジュリさんとか」
少年と、新たに現れた眼鏡の青年の声が重なった。眼鏡の接近には気づいていたのか、特に驚いた様子もなく少年が振り返った。
「手紙が出された時期を考えると、先日まで氷漬けだった私が最も可能性が低いはずです。まぁ、相手が直近のこちらの情報収集を欠いていたら話は別ですが……」
「ふっ、これでまた呪われたらウケますね。多分、不幸を呼び込むなんかが憑いてますから、教会とか行って早めに浄化してもらったほうがいいっスよ」
「……よく考えると、前回手紙を受け取ったときもペレットくんがいましたね。これで呪われたら、その『不幸を呼び込む何か』は貴方なのでは?」
軽口を叩きながら、ポシェットを開ける眼鏡。取り出した封筒の宛名を確認すると、そこには彼の名前が――ジュリオット=ロミュルダーの名前が綴られていた。丸みを帯びた小さな文字で、しかし見間違えようもなくはっきりと。
グシャッ!
美丈夫に手紙を押しつけるジュリオット。無言で頭を抱える彼をよそに、美丈夫は差出人の名前に目を落とし、その双眸をわずかに見開いた。
「ギル=クライン……」
「え? この、可愛らしい文字が? ギルさんって文字書けましたっけ?」
「アタシが覚えさせたから、自分の名前だけは書けるはずだけど……でも、ギルの文字じゃないわね。これは……」
《ミレーユの字よ》
ペレットの無線機が震えた。声の主はマストの少女だった。翡翠色の目で眼下の封筒を見下ろしている。少女と封筒にはかなりの距離があるのだが、彼女は驚異的な視力で文字を1つ1つ捉えているらしかった。
「ミレーユさんの字らしいっスよ」
ペレットは無線機をスピーカーモードに切り替える。
《田舎から出てきたあの子に、一般常識を教えたのは私だもの。見間違えようがないわ。何故、ギル=クラインの名前で送ってきたのかは知らないけれど》
「……なんとなく予想はつくわ」
美丈夫が嘆息して封を切る。それを見届けたポストバードが手すりから飛び立とうとすると、手に淡い紫色の光をまとわせたペレットが、軽く空気を握るような仕草をした。瞬間、ポストバードは空中に縫い止められたように動かなくなった。
「ふー」
安堵の息をこぼすペレット。その横で美丈夫が、形のいい眉をひそめる。
「なにそれ」
「えっと……簡単に言えば、空間の圧縮です。全方位から少しだけ圧をかけて、身動きがとれないようにしてるんスよ。最近思いついた技で」
「……それってもしかして、貴方が昨日やたらとみずみずしい林檎ジュースを配ってたのと関係ある?」
「ご明察。いやー、人と林檎以外に試すのは初めてで不安だったんスけど、潰れなくてよかったー。あ、俺に構わずどうぞ。この鳥に変な細工がされてないか調べるだけなんで。フィオネさんたちは手紙読んでてください」
ひらひらと手を振って、ポストバードの羽毛の中を探り始めるペレット。
その背中に『あ、そう……』と応えると、美丈夫ことフィオネは、腹をくくったらしいジュリオットと共に、ギルからの手紙を読み始めた。
5分後。身辺調査が終わったペレットは、解放感からぐったりとしたポストバードを抱えて戻ってきた。
「どうでした? 手紙の内容。こっちは大丈夫そうでしたよ。少なくとも、目に見える危険はありませんでした。呪いとかはちょっとよくわかんないっスけど」
「ミレーユ代筆の、ギルからの救援要請だったわ。遭難したから助けてほしいって内容が、可愛い字と横柄な口調でつらつらと書かれてた。珍しくメンタルが堪えてるみたいね。いまはフラムとミレーユを連れて、大南大陸の闘技場にいるみたい」
「えぇ……あれ、ジャック……さんと、髭の人は?」
「ジャックとレムは、『皇帝選議』って行事の参加者を支援するためにギルたちと別れたそうよ。……なんのつもりかしらね」
手紙を折りたたみ、ポケットに入れるフィオネ。彼は、『皇帝選議?』と首を傾げるペレットをぐいと引き寄せると、耳元の無線機を数回タップした。
「こちらフィオネ。今から進路を大南大陸に変更するわ。マオラオ、静養中悪いけど甲板に来てちょうだい。セレーネと監視課は海面にも注意して。生物の影が見えたらすぐに戦闘課に報告を。見間違えでも構わないわ。……よし、ありがとう」
「びっくりした……なんスか、今度はなに企んでるんスか?」
「後で説明するわね。そうだ、その鳥もう少し捕まえておいてくれる? いま、その子に持たせる手紙を書いてくるから。ジュリオット、一緒に来てちょうだい」
「うわ」
ジュリオットの腕を掴み、長身痩躯を雪ぞりのように引っ張っていくフィオネ。互いの姿を遠くに見送りながら、ジュリオットとペレットは顔を見合わせた。諦観と困惑。2人は言外に『嫌な予感しかしない』と語り合っていた。
*
数分後、やや霧が晴れてきたころ。冷たい風がペレットの肌を撫でると同時、無線機がセレーネからの全体通信をキャッチした。
《報告。前方、広範囲に障害物を発見。海面全体に尖った岩……いえ、違う……光が反射して……氷よ! 海面が凍ってるわ!》
「……?」
意味がわからなかった。ここは大南大陸近海、この世でもっとも温暖な海域のはずだ。海氷などあるわけがない。
しかしペレットは、理解に要する時間を捨てて舳先のほうへ駆け出した。そして南の海に広がる、異様な光景を目の当たりにした。
それは、報告を聞いて最初に浮かんだイメージとは異なっていた。
否、セレーネの報告は正しかった。彼女はそこにあるものを正しく述べていた。しかし直感的に想像したような、氷のプレートとはかけ離れていた。そこにあったのは、うねり、踊り、水飛沫を上げる海を、まるごと凍らせたようなものだった。
「……」
少しの思考の末、調査の許可を仰ごうと無線機に触れた。が、背後に感じた馴染みのある気配に、ペレットは操作を止めて振り返った。
「マオラオくん」
「なにしてんの」
眉をひそめた小柄な少年は、ペレットの腕のポストバードを見つめていた。ペレットもまた、自分が何をさせられているか不明だったので、適当に答えた。
「フィオネさんが、今日の夕食にしようって」
「食えるんかそれ。珍味ってやつ? 美食家の考えることはわからんなあ」
即席の冗談にも乗るマオラオは、瞬きをして紅玉の瞳を淡く光らせる。
「さっき言ってたんはあれか」
全てを見透かす『監視者』の目で、凍りついた海を観察するマオラオ。程なくして、
「えらい、デカいタコが凍っとるな。あれが呪獣か? 誰かに凍らされたんか、フィオネが言うてたあの……大南大陸の呪われた気候? が、局所的な極寒を起こしたんか……近くに人とか物の動きはないな」
「タコ……ほかは? なんかありました?」
「ちょっと待って……ん? これ船の竜骨か? うん、船がひっくり返ってんな。ほんで沈みかけの状態で凍って……うわぁ、ひどいなー。乗ってる人間も全部凍っとる。――って、あ。これ、ヘヴンズゲートの人たちや。みーんな服が真っ白」
「え」
聞き慣れた単語に面倒ごとを感知するペレット。口にしたマオラオも同じ心境のようで、『監視者』を解除すると渋い顔で海氷を見つめ出す。しかし、
「慣れたというか、慣れてしまったというか……」
「アイツらと鉢合わせたくらいじゃ何も思わんようになってしまったな。でも、このパターンは初めてや。なんでアイツら、先回りした上に死んでんねや……?」
不思議と冷静に、2人は考えを巡らせる。とそこへ、手紙を仕上げたらしいフィオネが封筒を携えてやってきた。
「こっちにいたのね、ご苦労様。何かわかった?」
「いや、まぁ……腰据えて話したほうがええやろな……ってことは」
「そう。じゃあ、後で食堂に集まってもらうとして……そこの貴方、これ頼めるかしら」
フィオネが話しかけたのは、ペレットの腕のポストバードだった。『ギル=クライン』と宛てられた封筒と、2枚の紙幣を見せながら何故か対話を試みている。
「何の手紙っスか? これ。ポストバードは専用の郵便機関を通すってフィオネさん言ってましたけど、鳥に直接依頼して出せるもんなんスか?」
「さぁね。まぁ、最悪ギルのところに届かなくてもいいわ。別のちょっとした実験も兼ねてるから」
悪戯好きの子供のように笑って、何故かポストバードの足に紐を結び始めるフィオネ。その笑みに恐怖しつつ、ペレットが甲板の手すりに放してやると、ポストバードは何度もセレーネのほうを確認し、やがて魔の大陸へと飛び立っていった。
最後にポストバードが聞いたのは、こんな会話だった。
「で、あの手紙にはなんて?」
「ジャックとレムが支援する候補者に、貴方たちも協力しなさい。それからギルとアタシ、ジュリオットとペレットを支援者としてエントリーさせなさい、って」




