第183話『押さない・駆けない・勝算がない』
テトリカたちが図書館から出てくると、空はすっかり濃紺に染まっていた。
「思ったより長居してしまったな。今日はこの辺りで宿をとろう」
「宿ってえ、兄ちゃん金はあんのかい」
「ない。だが、ヌタの森でしか採れない貴重な薬草を持っている。あらゆる病に効き、古代には万能薬と言われた代物だ。調べたところ、クァルターナでは相当な高額で取引されているらしい。数日、少なくとも3日分の生活費は稼げるだろう」
「行き当たりばったりだなオイ……」
先行きの怪しさに溜息をつくレム。そうして彼らは、薬草を買い取ってくれる商人探しと夕食の調達のため、『中央バザール』に向かうことになった。
――中央バザールとは、歴代の皇帝が住まう宮殿へと続く大通りに、白い布の屋根を張った屋台が立ち並ぶ、クァルターナ最大の夜間市場のことである。
出店する商人たちはみな店頭にランプを下げるため、昼よりも明るいと言われているクァルターナ名景の1つであり、売るものも売り方も商人の自由。
情報や技術など形のないものを売る者や、路傍の石を通貨とする変わり者もおり、市場全体がおもちゃ箱のような輝きと魔性に満ちていた。
そして、
「ウワー! すっげ、くっせー! 見ろよレム、あれ焼いてるの蛇じゃネ!?」
それにまんまと心を奪われたのがジャックである。彼は琥珀の瞳をめいっぱい輝かせ、テトリカよりも先に行こうとして首根っこを掴まれた。
「ぐえ」
「大の男が大声ではしゃぐな、恥ずかしい。共に行動する私たちの身にもな……」
と、そのときだった。突然、2人の正面から溌剌とした青年の声が響いて、テトリカの説教をかき消した。
【うおーーー!! こないなところに売っとるとは思わんかった! おっちゃんもったいないな〜、コウギョクサラマンダーはもっと高値で売れんねんで? これの10倍でもええくらいや! まぁ、今回はこれで買わしてもらうけどな〜、アハハハハハ!!】
「ん? なんダ?」
拡声器を使っているのかと思うほどの大声に、ジャックが目を瞬かせて出元を探す。するとその首から手を離したテトリカが、短く、重たくつぶやいた。
「――奴だ」
「え?」
「なんで、ンなところにいるんでぃ……」
テトリカは自分の腰に下げた短刀を一瞥し、レムは背負っていた斧の留め具に指を這わせる。
固唾をのみ、頬を固くし、睨むように2人が見ていたのは、昆虫や小動物の死骸を並べた露店の前――そこにあった、大小2つの人影だった。
小さいほうは、5歳くらいの少女だった。水色の長い髪をツインテールにし、白のワンピースをまとっている。趣味の悪い品揃えには興味がないようで、完全に露店の反対を向き、バザールのきらめきに見入っていた。
大きいほうは溌剌とした声の主、20代前半くらいの青年だった。褐色の肌に絢爛な白の衣装をまとい、夏の太陽のような金髪を輝かせていた。
そんな彼らを中心とした、見えない結界があるかのように。周囲の人々は、2人と大袈裟に距離をとって通りを歩いていた。
それは、サラマンダーを手に無邪気に振る舞う大人への危機感――それ以上の強い忌避によって行われているように思われた。
わけがわからないまま、見よう見まねで鉄槍に手を伸ばすジャックに、後ろのテトリカが息を殺して告げた。
「隣の子供はよくわからないが……あの男は件の『100万人殺し』、アバシィナ=イェブラハだ……!」
「――! エッ、い、いまここで倒すのカ?」
「ああ。……『皇帝選議』は最も賢い人間を皇帝にするための大会だ。そのフィールドにおいて、アバシィナ――100年近い年月を呪術の研究に捧げ、禁術で若返り、なおも知識を追い求めるあの呪術師は猛威を振るうだろう。そして……」
「誰よりも皇帝に近えのに、アイツが皇帝になっても誰も幸せにならねえときた。だから、『皇帝選議』が始まる前に潰しちまいたいんだろぃ」
「そういうことだ。だが……」
テトリカの白い頬を、ひと筋の汗がつたう。彼の視覚と聴覚はアバシィナに一点集中していた。バザールの眩しさもざわめきも、今のテトリカには届かない。ただ彼は、激しさを増していく自分の鼓動を感じとっていた。
――血の気の引いた商人に、アバシィナが硬貨を握らせる。片手にサラマンダーの死骸を、片手に付き添いの少女の手を握って、『次はどの店に行こうか』などと仲睦まじい親子のような会話を繰り広げる。
一帯の商人たちが、うちには来ないでくれと祈っているのも知らずに。
そう、彼らは祈るしかないのだ。アバシィナに抗う術を持たないから。大犯罪者だと知りながら、国家の癌だとわかりながら、彼がどうか悪い気まぐれを起こしませんように、と祈り続けることしか出来ないのである。
と、
【わたし、あっちに行きたい!】
ふいに、少女がテトリカたちのいる方向を指さした。瞬間、辺りの空気が張り詰める。アバシィナは少女の指を目で追って、テトリカたちを視界に捉えた。
南国の海のような、透き通った碧の目が見開かれる。
「――ッ!」
全身が粟立つテトリカ。彼はすぐさま短刀を抜き、臨戦態勢に入る。が、
「エッ、ひさしぶり!? なんや、なんでここにおんねや!?」
「……は?」
アバシィナが放った言葉に、テトリカは思いきり眉をひそめた。
その横を駆け抜け、後ろにいたレムにぐっと詰め寄るアバシィナ。通りすがる後頭部めがけ、振り向いたジャックが鉄槍を振りかざす。が、
「……待て」
絞り出すようなテトリカの声に、ジャックの瞼がぴくりと動く。方向を変えた鉛色は、バザールの熱気を切り裂くに終わった。
「……っ、なんだヨ! 倒すんじゃなかったのカ!?」
「そうだ。だが、どういうことだ……なんだ? 久しぶりって……グリズリーは、私に何か隠しているのか? まさか、アバシィナ側の人間なんじゃないだろうな」
「っ、なワケ……」
「ともかく、アバシィナに対する彼の動向を」
「そうしてるうちにレムがやられちまったらどーすんだヨ!?」
声をひそめながら、怒気だけは込めて、相手の言葉尻を奪い合う熾烈なやりとりを交わす2人。それを目の端に、レムは眼前の男を冷えた眼差しで見下ろした。
「……」
腕を振るえば届く距離。留め具にかけられた、無骨な親指に力がこもる。
そのときが来たら、すぐに得物を振れるように――そんなレムの思惑に、アバシィナは気づいていないようだった。彼は唾を飛ばす勢いでまくし立てた。
「なんや、あんさんも出してもらったんか!? まさか脱獄してきたんちゃうやろなー!?」
「……脱獄?」
「あ〜、ちっと黙ってくれねえかぃ。俺にも俺の事情があんだよ」
訝しむようなテトリカの視線を受け止め、苦々しくささやくレム。
今のレムたちはフラムなどの非戦闘員も含めて、全員遭難した傭兵団ということになっている。テトリカと円滑に付き合っていくために、監獄周りのことは一切伝えていないし、これからも知られるわけにはいかなかった。
内心焦りを覚えるレム。彼の鋭い眼光を浴び、事情を察したらしいアバシィナは『ほーう?』と悪い笑みを浮かべながら自分の顎を撫でた。
「しゃーないなぁ! 黙っててやるわ!」
「どうも。それよりお前さん、さっき連れてたあのガキはなんでぃ。いつのまにこさえたんだ?」
「ん? あぁ、いや! 実はわしの子ちゃうねん。我が子のように可愛がっとるけどな〜、これには深ぁい深ぁいわけが……」
と、足元に目を向けたアバシィナが驚愕した。
「あれっ、エラー!? どこに行ったんや!?」
「あぁ?」
なんと、先程までアバシィナのそばにいた少女が、忽然と姿を消していたのである。
「エラー! エラー!」
左右、前後と慌てたように見回すアバシィナ。しかし彼の周囲7メートルには、一切の遮蔽物が――アバシィナの近くを歩こうとする人間がいない。
見晴らしのいい領域にいれば、少女がその範疇にいないこと、7メートル以上先へ行ってしまったのだろうことは一目瞭然だった。
アバシィナは頭を抱える。
「しまったーーッ! いなくなってもうた! またメアリィにちくちくチクチク言われてまう……なあレム、一緒にあの子を探してくれへんか!? 頼む、かわいいかわいい娘のような子やねん!」
「……いいぜ。1度は同じ……牢屋で過ごしたよしみだからなぁ」
「ホンマか! すまん、恩に着る!」
そう言って、人の波に飛びこんでいくアバシィナ。歩く厄災の登場にバザールの客たちがワッと散らばると、アバシィナはその中心で少女の名前を呼び始めた。
「……エッ、オレたちも探したほうがいいのカ?」
「いいや、そいつは後で構わねえ。つってもあのアバシィナが可愛がってんだ、ガキのほうもろくなモンじゃねえだろうし、悠長にはしてらんねえが……今のアイツは、焦って注意が散漫になってるはずだ。この隙にアイツをやっちまう」
いよいよ留め具を外して、両手に斧を握るレム。熊を思わせる恵体を、朝に漂う霞のような静けさで操って、彼はアバシィナの背後に迫った。研ぎ澄まされた呼吸が、レムを空気と調和させて存在感を殺しきる。
息を呑むジャックたちに見守られる中、レムはゆっくりと斧を振り上げて――。
「……?」
ふと。バザールを包んだ静寂に、レムは動きを止めた。
その眼前、何かを見つけたアバシィナが静寂の中央へ飛びこんでいく。すると黙していた人々が我に返り、一斉にその場から逃げ出し始めた。
男性が、女性が、若者が、老人が、肩や足をぶつけながらレムの横を通りすぎていく。謝罪の言葉を残すでも、申し訳なさそうな顔をするでもなく、周囲と押し合って、のけ合って、必死の形相で何かから逃げていく。
そうして遮蔽物が取り払われると、レムたちにもその惨状が明らかになった。
「――」
レムも、ジャックも、テトリカも、声が出なかった。
ただ立ち尽くす3人の前で、アバシィナが行方不明だった少女――エラーを抱き上げた。エラーの膝には、転んでつけたような生々しい擦り傷が出来ていた。
大粒の涙をこぼし、エラーが小さな肩を震わせて訴える。
【お兄ちゃんがぁ……お兄ちゃんがぁ……ぶつかったのに、謝ってくれなかったぁぁ……!】
そう涙ながらに縋りつくエラーの周囲。露店や人が寄せ合い、ひしめき合っていただろうそこには、何も残っていなかった。巨人にえぐられたように窪んだ地面が1つと、その外に数人分の散らばった肉塊があるのみであった。
「……なん、ダ?」
閃光がまたたくような一瞬、ずきりと痛んだ頭を押さえ、ジャックがぽつりと紡ぎ落とす。その声に触発され、ようやく動いたテトリカの思考は、目の前の事実を1つ1つ順番に拾い上げていった。
「彼女が……消したのか? ここにあった屋台と……人を、まとめて……私たちが見ていない、一瞬の隙に……?」
その原因が能力か呪術かは不明。発動条件、効果範囲、回数上限すべて不明。
だとすれば、とるべき行動は1つだった。テトリカは歯噛みし、アバシィナたちから後ずさった。幸い彼はエラーにつきっきりで、こちらには気づかなかった。
「……撤退する。ここで彼らは殺せない――そして、グリスリー」
懐疑的な色をした視線が、レムの背中に突き立てられた。レムは振り返らず、頬をぴくりと震わせただけだった。
「撤退が済んだら、聞かせてもらおうか。貴様らが隠していることを、すべて」




