番外編『マオラオ=シェイチェン生存録』⑧
マオラオたちは覚悟を決めて、ケイがいると思しき旅籠屋に入った。そして受付の主人に『若草色の髪をした』『20代くらいの男』が宿泊しているか尋ねる。すると、主人が条件に合う宿泊客に確認をとってくれ、その人物の部屋を教えてくれた。
【霞の間……ここか】
主人から教えられた部屋の名前と、部屋のプレートが一致していることを確認し、マオラオは廊下と部屋を区切る襖に向かって【先生】と声をかけた。
【マオラオです。入ってもいいですか?】
【……ええ、どうぞ】
少しの沈黙の後、ここ半月聞いていなかった声が襖越しに聞こえて、マオラオは息を呑んだ。隣のメイユイも顔を強張らせていた。
【失礼します】
マオラオは襖を開けた。
中は畳の部屋になっていた。障子つきの大きな窓が部屋に光を取り込んでいる。しかし明るい雰囲気とは裏腹に、中央に机、窓辺に椅子、部屋の端に使われていない行灯があるばかりで、寂しい空気が漂っていた。ケイが着のみ着のままやってきたことが伺えた。
ケイは、直前まで椅子に座っていたのか、窓のそばに立っていた。
最後に見たときの彼は、そこそこ健康そうな身体つきをしていたと思うのだが――今の彼は、初めて会ったときの彼のように、着物の上からでもやつれて見えた。
きっとそうなってしまうくらい、精神的に苦しい生活を送ってきたのだろう。マオラオが言葉に迷っていると、メイユイが【先生!】と声を上げて中に入った。
【先生! 体調は!? ご飯はちゃんと食べているでありますか!?】
【え、ええ。ですが、君たちはどうしてここに……?】
瓶底メガネの奥で、困ったように目を瞬かせるケイ。ピンと来ていない様子の彼のに、もしかして、とメイユイと顔を見合わせたマオラオは、
【先生、トンツィが流刑になったって話は知ってますか?】
【……えっ?】
声が裏返るケイ。やはりか。
あれだけ騒ぎになっていたから、てっきり彼の耳にも入っているものと思っていたが――いや。自分たち以外からそのことを聞いていたら、ケイは1人で思い悩む羽目になっていただろうから、まだ何も知らなくてよかった。マオラオは安堵する。
が、ケイはそれどころではなく、
【流刑って、どこへ……?】
【……わかりません。いや、流刑って言ったんですけど、多分トンツィは自力で海に逃げてて……きっと大丈夫だと思います。問題は、多分この国に戻ってこれないことで。だからトンツィの代わりに、オレたちが先生を元の場所に帰そうって決めたんです】
【はい、任せてくださいであります!】
ふんふん、と意気込むメイユイ。対してケイは、何か恐ろしい事実を前にしたような顔でしばらく黙り込むと、
【マオラオくん、まさか】
【……はい。先生がニンゲンってこと、知ってます。あのとき、先生がトンツィの手紙を読んでるとき……妖力を使って、後ろから覗きました。すみません。ほんで脱出のことなんですけど、今最後の準備にとりかかってて――】
と、話していたそのとき。突然、ケイの痩躯がふらりと倒れた。迫ってくる陰に、マオラオは驚く間もなく咄嗟に腕を出す。受け止めた身体には、驚くほど重みがなかった。
【え、先生?】
【先生? どうしたんでありますか……!?】
【……すみません、ちょっと目眩がして。……少し、考えさせてもらってもいいですか】
【……? い、いいですけど……】
ケイの声にさらに覇気がなくなった気がして、不穏なものを覚えるマオラオ。
待っている間に約束の13時になりそうだったので、マオラオとメイユイは1度金治屋に向かい、ユンファを引き連れた上で再度旅籠屋を訪れた。
部屋に入って少しして、ケイは言った。
【元の世界には、帰りません】
【……は】
【えっ!? なんででありますか!?】
ユンファが声を零し、メイユイが机に身を乗り出す。マオラオは固まった。三者三様に驚く彼らに対してケイは、精神が擦り切れたような今までの顔が嘘のように、迷いを捨てた顔で優しく笑った。
【貴方たちの気持ちはとても嬉しいです。その優しい心は、決して失われてはいけない。ですが私の脱出に手を貸したとなれば、貴方たちにも危険が及ぶかもしれません。……どうか、貴方たちには貴方たちのままで、健やかに育ってほしいんです】
【そ……っ】
メイユイが青い顔をして言葉を失う。そして、全員が理解した。
ケイには元々、元の世界に戻りたいという思いがあった。それはトンツィとの約束を、1ヶ月宿屋で息をひそめるという約束を律儀に守っていたことから推察できる。だが、彼はそれをマオラオたちがユンファを呼びに行く十数分間で捨てたのだ。
今の彼にはマオラオたちに頼るしか脱出の方法はなく、元の生活と比較しても、ケイはそれを選ぶことが出来なかったから。
【っ……】
己の力不足を呪う気持ち。ケイの葛藤を組む心。1ヶ月の努力が無に帰した喪失感。いろんな気持ちに苛まれて、誰も何も言えなかった。
少しして、ユンファが口を開いた。
【ここに残るんだとしたら、貴方はどうするんですか】
【……気持ちの整理がついた頃に、神薙城に自首をしにいきます】
【自首って……捕まりにいくんでありますか!?】
【はい。そうすれば政府は、危険分子を手元で監視できて安心するでしょう。貴方たちにも過剰な詮索はしないはず】
【そんな……】
メイユイが声を震わせる。マオラオは言葉を探して部屋の隅を見下ろし、ユンファはケイに説得される気がないのを見抜いたようだった。
【わかりました。……今まで、ありがとうございました。失礼します】
そう言い残して、部屋を出て行った。声は淡々としていたが、襖を閉める音が少し乱暴に聞こえた。それ故に、ユンファが出て行ったあとの静寂が強調される。息をするのも憚られるような沈黙の中、メイユイの啜り泣く声が聞こえていた。
【なん……なんで、そんなこと、しなきゃ、いけないので、ありますか】
【……メイユイさん】
【む、昔の、ニンゲンが、悪かった、だけで、なん、なんで、先生まで……こ、殺されて、しまうかも、しれないんで、あ、ありますよ】
【……ええ。その覚悟は出来ています。……いえ、本当はもっと早くに決断するべきでした。私は、トンツィさんや貴方たちの優しさに甘えていましたね】
すみません、とケイは目を伏せて、
【貴方たちの努力に、報いることが出来ず申し訳ありません。ですが、その努力と優しさと得た知恵は、どうか未来に持っていってください。私のように、貴方たちに心を救われる人が大勢いるはずですから】
【……メイユイはともかく、オレにはそんなの】
【いますよ。貴方ほど面倒見のいい人は、20余年生きてきた私でさえ滅多にお目にかかれません。文句を言いながら、仕方がなさそうに手を差し伸べる貴方に、救われる人がたくさんいます。私が保証しますよ】
【う、うーん……】
褒められたような、ないような。というか、ケイにはそんな風に映っていたのか。確かに、文句を言いながら世話を焼くところがあるのは認めるが。はたから聞くと、とんでもなく面倒臭い男だ。マオラオが困惑していると、ケイは笑った。
そして、
【あぁ、それと。マオラオくんにお願いしたいことがありまして……本当に、個人的なお願いなのですが。神薙城に向かう前に、貴方の『目』で見てほしいものがあるんです】
【見てほしいもの?】
【はい】
そう言ってケイが近づいたのは、障子の張られた大きな窓だった。障子を開けると、シグレミヤの街並みが見下ろせる。遠くの方には海も見えた。
【『無の世界』を覚えていますか?】
【……はい】
マオラオは頷く。『無の世界』。それは初めてケイと出会った日、ケイが説明していた『下半分』のことだ。
どんな手を使っても入れず、ただそこにあることしかわからない謎の空間。ケイが学者として調べていたけれど、研究が破綻して未だわからずじまいの世界。
【今までどんな方法で挑んでも、『無の世界』は見えませんでした。おそらく、干渉を妨害する膜のようなものが境目に張られていたんだと思います。ですが、トンツィさんからの手紙を読めた貴方なら……もしかして、と考えたんです】
【……!】
マオラオは、ケイの言わんとすることを理解した。
確かに、『監視者』は視点を飛ばす妖力だ。何千キロ先の景色だって、自分の後頭部だって見える。もしも見えない膜が張られていたとしても――自分なら、それを貫通することが出来るかもしれない。
【ちょうど、この窓は南――『無の世界』のほうを向いています。ですから、位置もわかりやすいでしょう。……マオラオくん。どうか『無の世界』の真実を……いえ、『無の世界』が見えるかどうかだけでも、私に教えてくれませんか】
【……わかりました】
マオラオは息を呑んで、窓に近づいた。ケイの視線を感じる。メイユイも、声を抑えてこちらを見守っているようだった。
どうか、ケイが少しでも悔いなく神薙城に行けるように。マオラオは遠く、遠く、この世界を半分に隔てる境目よりも遠くを想像して、両目に集中した。
――それは、一瞬だけ見えた。マオラオが目にしたものを聞いたケイは、驚き、そして笑った。
*
それから4日後、ケイは神薙城に赴いた。彼はすぐに逮捕され、彼を匿った人物についていくつかの尋問を受けたそうだが、口を割らないまま処刑された。
その後政府では、破綻した『孤児支援プロジェクト』を続行するか、するとして誰が次の責任者になるか、という話し合いが行われたようだった。
最中、第二王女イツメ=カンナギが前触れもなく失踪し、話し合いが中断され、決定にはかなりの時間を要したようだが――結果、プロジェクトは半年後に再開した。
再開した学校には、マオラオや他の2人も通っていた。しかし、今まで通りにはいかなかった。ユンファとメイユイが仲違いしてしまったのである。
ケイの処刑を受けて、自分が官僚になり、国の体制を変えていくと決めたメイユイ。彼女の思想は、誰よりも頭を悩ませていた反動か、全てが馬鹿馬鹿しくなり、今後ニンゲンとの交流を断絶すると決めたユンファとは相いれなかったのである。
こうして、3人は歪な関係のままさらに半年を過ごした。
――彼らの生活に再び変化が起きたのは、マオラオが13歳、3人が3年生と呼ばれるようになった年のことだった。
かねてより床に伏せていた国王が逝去し、シグレミヤは新たな国王を選ばなければならなくなったのである。
結果から述べると、選ばれたのはカンナギ家の長女・セツカ=カンナギ。彼女がシグレミヤ初の女性の国王として君臨することになった。
しかし、彼女の政治は戴冠前から危ぶまれていた。その理由は史上初の女王だから、前国王が逝去しているからなど様々だったが――人々の予感は的中した。彼女の立てた政策は、なんと2ヶ月ごとに変わったのである。
長年続いてきた『天満組』も彼女の命令によって解体させられ、ハナマルを組長とした『宝蘭組』が新しく作られることになった。それ以外にもいろんな伝統が作り替えられ、怒った国民による暴動が起こるようになった。
だが、それをきっかけに女王の政治は国を圧迫するようになり――たとえば、女王に反対すれば逮捕。街中でニンゲンの話をしたら逮捕。漁獲可能な水域を狭め、漁師がその水域から出たら逮捕――下手をすると死刑になった。
そして矛先はマオラオにも向いた。女王はニンゲンの存在をシグレミヤから抹消するため、マオラオに死刑を命じたのである。
当然、マオラオはこれを受け入れなかった。
マオラオは死刑の前日、隙を見て海に逃げた。何も持たないまま、深夜0時の黒い海をずうっと走っていた。冷たい雨の日だった。
【はぁっ、はぁっ、はぁっ……!】
国王が変わってから、死刑を命じられるのは予感していた。だからここ3ヶ月ほど、1度忘れてしまった海渡りを練習していた。3ヶ月分の練度はすさまじく、雨風に乱れる海の上でも10キロはゆうに走っていた。
だが、冷たい雨は予想外にマオラオの体力と体温を奪った。ふと前が見えなくなって、マオラオは次の1歩を前に出すことが出来ず、転んだ。黒い海が水飛沫を立てて、マオラオの短躯を飲み込んだ。
【っ……!】
海の中は、自分の手足も見えないくらい真っ暗だった。挙句揺れているので、どこが上でどこが下かわからない。『監視者』を使おうとしたが、海の中で長く目を開けているのは困難だった。急なことだったので、息を止めていることも叶わない。
――誰にも見つからない、足音も聞こえないと思って、雨の深夜の中城を出てきたのが間違いだった。 どのみち、死ぬ運命だったのか。急速に掠れる意識の中で、マオラオは自分の運命を呪った。
――。
――――。
目覚めたとき、マオラオはひどい渇きと喉の辛さ、太陽の眩しさを感じた。ごわごわと硬くなった衣服の感触と、靴が脱げた両足を優しい波がさらっていく感触も。
ここは、どこだろう。
視界いっぱいの青空と、腕に触れる砂の感覚から、どこかに漂着したらしいことは確かだった。助かったのだろうか。いや、溺れ死ぬことは回避したようだが、身体がだるくて当分動けそうにない。まだ、塩分過多で枯れ死ぬ可能性がある。
いっそ味方でも敵でもいい。誰か見つけてくれないだろうか。味方なら助けて、敵なら介錯してくれないだろうか。このからからの状態で生きているのが1番苦しい。
そんなことを考えていると、ふいに視界端から人影が現れた。
「あ! 起きた!」
【ッ!】
見知らぬ人物の登場にマオラオは強張るが、これといって何が出来るわけではなかった。だから、その人物の一挙一動に抵抗できなかった。
しゃがみこんでこちらを見下ろし、マオラオに亜麻色の髪のカーテンをかける彼女? は、知らない言語でこちらに喋りかけながら、マオラオの口にコップをあてた。
「飲めそう?」
【……】
何を言っているのかわからない。おそらく飲めと言われているのだろうが……コップの中身はなんだろうか。水か、薬か……それとも毒か。なんにせよ、疲れすぎて口が動かないのでどうしようもない。
マオラオが何も出来ずにいると、少女? はこちらが警戒していると思ったのか、コップの中身を少し飲んでみせた。
「ただの水だよ」
【……】
きっと、飲み物の安全性について語っているのだと思う。マオラオは頑張って口を開けた。これ以上は開かない、という意思表示に気づいたのか、少女はマオラオの口に指を入れた。もう少しだけ開かせて、コップの中身を少しずつ流し込む。
冷たくて甘くてちょっと硬い。シグレミヤのものとは少し違うが、やはり水だった。少しずつでも喉に通すと、渇きと辛さが癒えていくような気がした。
マオラオはこくこくと水を受け入れながら、少女を観察した。
自分とそれほど背丈の変わらない、容姿の綺麗な少女だ。年齢は13か14か。きらきらとした琥珀色の目に、なんだか視線を奪われる。
見たこともない青い服を着ていて、シグレミヤの国民ではなさそうだった。波に押し戻された可能性は考えなくていいらしい。
となると、やはりニンゲンなのだろうか。腹が減る感じはしないが、食欲が湧かないほど自分が疲れているのか、自分の半分はニンゲンの血で出来ているからなのか。とにかく、恩人に襲いかからずに済みそうだ。
などと考えていると、コップの中身がなくなった。
「どう? もっと飲む? もっと飲みたかったら、あっちに日陰があるから連れてってあげる。もっと涼しいところで飲もうよ」
【……】
予想では、どうして漂着したのか聞かれているのだと思う。が、言語の違う彼女にどう説明するべきか。彼女を信用しきっていいものか。マオラオが困っていると、そろそろ少女も気づいたようだった。マオラオが、喋れないことに。
「うーん……」
少女は考えたあと、ぱちんと指を鳴らした。そして、マオラオに手を差し伸べる。
「よし、うちに行こう」
【……?】
マオラオは困惑しながら、腕を少しだけ持ち上げる。すると、少女にぱっと手を掴まれて起こされた。
「うちには頼りになる人たちがいるんだ。言葉に詳しい人も、怪我に詳しい人も、悩みを話しやすい人もいる。だから安心して! 君は、絶対助かるよ」
【……】
「――ウチはシャロちゃん、よろしくね」
少女はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
ここまでお読みくださりありがとうございます! 長くなりましたがこれにてマオラオ=シェイチェン生存録完結です。これから別作品『プリマステラの魔女』の制作に注力するのでしばらく更新停止となりますが、8月くらいには7章の更新を開始したいなと思っております。詳しい日にちは後日、Twitterで発表されると思います。よろしくお願いします!




