番外編『マオラオ=シェイチェン生存録』④
約1年後――正しくは、『孤児支援プロジェクト』の開始した日からあと7日で1年という秋のある日。山の中で暮らす生活にもすっかり慣れたケイは、いつものように2限目の授業を進行していた。
2限目は言語、北東語の授業であった。書き取りをするメイユイ、ユンファの前に立って、ケイは黒板に文字を書いていく。1年前は下手くそだった板書も、今では見違えるほど綺麗にでき、授業進行にもかなりの余裕が生まれつつあった。
しかしそれとは裏腹に、ケイは密かな焦りを覚えていた。というのも、ケイがシグレミヤから出るための船が、まだ6割程度しか作れていないそうなのだ。
もちろん、シグレミヤ初となる長距離用の造船である。時間がかかるのは仕方のないことで、覚悟もしていたことだ。
しかし、もうすぐプロジェクトの開始から1年が経つ。ケイ1人が教師を務める試用期間が終わり、本格的に学校の運営が始まってしまうのだ。
そうなれば今度は、今以上の数の生徒と教師を迎えることになる。誰かと接触する機会が増え、ケイがニンゲンとバレる確率もぐんと上がるのだ。
つまり、造船の期間が伸びれば伸びるほどケイにとって不都合で――1年で6割完成という今の状況は、考えられる中でもかなり好ましくない状態なのである。
また、彼が焦る理由はもう1つあった。
この教室の状況からわかるように、マオラオの北東語学習が予想を越えて進んでいないのである。
こうなると、マオラオを逃す先はシグレミヤと同じく南西語を公用語としている大南大陸しかない。だが、大南大陸は呪いと知恵と格差の国だ。11歳の子供が1人で生きるには向いていないし、文化も天候も外国人には厳しすぎる。
こうなるのだったら、無理にでも授業に出席させるべきだったか――。
いや。ただでさえ嫌悪している種族の言語を無理やり学ばせるのは悪手だろう、メイユイとユンファは本来北東語を学ぶ必要がないのだし、任意にしたのは正解だったはずだ。失敗は自分がマオラオの興味を惹いてやれなかったことだろう。
いったい、どうしたら彼に北東語を学びたいと思わせられたのだろうか。
【……ケイ先生?】
【……はっ】
後ろから名前を呼ばれて、ケイは我に返った。どうやらかなり思考に没入していたらしい。振り向くと、メイユイが不思議そうな顔でこちらを見ていた。
【大丈夫……でありますか?】
【えっ、ええ。すみません。気が抜けてしまったみたいで……ええと、どこまで書いたかな?】
ここ数分の記憶が飛んでしまい、昨晩用意したメモを慌てて確認するケイ。黒板に書いたものと照らし合わせ、急いでチョークを走らせていると突然、教室を出てすぐの昇降口の引き戸が、力いっぱい叩かれる音がした。
【……?】
聞き慣れない力強いノック音に、教室にいた全員が各々の作業を止める。
来客だ。しかしおそらく、マオラオでもトンツィでもない。トンツィはこんな乱暴な叩き方はしないし、マオラオも同様の上既に帰っていて、今頃は暁月大社でこの授業を欠席した代わりの勉強をこなしているはず。
――今扉の前にいるのは、この学校とは関係がない人物だ。
そう直感したとき、ケイに緊張の糸が張った。
これは対応するべきだろうか。留守を決め込んでやり過ごすべきだろうか。幸い昇降口の扉には鍵をかけているが――逡巡するケイの前、いまいち状況がわかっていない様子のメイユイがずいと椅子を引いた。
【私が見てくるでありますよ】
【いえ、待ってください。私が……】
【俺が出ます】
立ち上がったのはユンファだった。いつも喋りかけられても最低限しか答えないのに、珍しく自分から喋り、動き出した彼にケイとメイユイは驚いて少年を見る。少年はためらいのない足取りで席を離れ、教室の扉に手をかけた。
【念のため……板書を消して荷物を隠してください。……あと、地下室に隠れててください。メイユイは……まぁ、面倒だから隠れてくれ】
【面倒だから!?】
ストレートな悪口にショックを受けるメイユイ。一方、ケイはユンファの口から飛び出た言葉に驚きが隠せなかった。
【どうして……】
どうして、地下室のことを知っているのか。いつ何故バレたのか。ユンファはどこまで知っているのか。長い思考が始まりかけるが、ユンファが昇降口の鍵を開ける音を聞き、彼の指示に従ってこの教室の『痕跡』を消し始めた。
すると、『何が何やら』と言いたげな顔をしていたメイユイも、慌て始めたケイを見て焦りが伝播したのか、急いで机の上を片付け始めた。少しして、
【ここが君の教室か】
教室の扉が開かれ、1人の役人とユンファが中に入ってきた。
【今日は君だけなのか?】
【はい、今日の授業は午前中だけだったので。ボク以外はみんな帰りました。ボクはまだ勉強がしたかったので、無理を言って残らせてもらったんです】
【子供1人を残すのか? 不用心な教師だな】
【いつもは残ってくれるんですよ。ただ、今日はプロジェクトの引き継ぎとかで忙しいみたいで】
そんな2人のやりとりを、ケイとメイユイは地下室から聞いていた。
メイユイはというと、ケイの腕の中に収まりながら必死に口を押さえている。急展開と地下室の存在に驚いているようだったが、空気を読んで疑問の全てを飲み込んでいた。そんな彼女の気遣いに助けられながら、ケイは苦い顔をする。
【……】
この役人、やたらユンファに探りを入れている気がする。もしや自分がニンゲンであると気づいたカンナギ家か、シェイチェン家からの回し者だろうか。
ユンファもユンファで上手いことかわしているようだが――まさか、こちらの事情を把握しているのだろうか。などと考えながら、じっと耳を側立てていると、
【ところで――この学校で過ごしていて、何かおかしいと思ったことはないか?】
【おかしい?】
【たとえば、教師から妙な……たとえば、食べ物の匂いがするとか】
【――!】
ケイの顔が強張る。確信した。自分の正体が政府に勘づかれている。
訪問者の言っている匂いというのは、鬼族がニンゲンから感じとるフェロモンのことだろう。訪問者は大方ユンファが『匂う』と答えたらクロ、そうでなければ一考の余地あり、と考えているのだ。が、ユンファはそれに気づけるだろうか。
一応、毎朝魚を焼いた焚き火の煙で臭い消しを行なってから出勤しているので、素直に答えられても大丈夫だとは思うが――。
【……インクの匂いがすることはあります。よく手を汚しているので】
【インク。そうか、わかった。……突然訪ねてすまなかった。今日は失礼する】
【……!】
ケイは息を呑んだ。耳を澄ませると、1人分の足音が遠ざかるのがわかった。それでもしばらく息をひそめていると、地下室の隠し扉がノックされた。
【もう出てきていいですよ】
【……はぁっ!】
隠し扉を跳ね除け、顔を覗かせるケイ。山暮らしで鍛えた腕でメイユイを地下室から出してやると、彼は自力で教室に這い上がって扉を閉めた。ずっと息を殺していた2人は、はぁ、はぁと肩を上下させる。
【し、死ぬかと思ったであります……】
【す、すみません……! ユンファくんも、巻き込んでしまってすみません。対応してくれて、ありがとうございます】
【いえ】
当たり前のことをこなしたような平然さで、そっぽを向くユンファ。かなり難しいことをやり遂げたと思うのだが、彼に達成感や優越感などはないらしい。
おそらく彼の高いポテンシャルがそうさせているのだろうが、彼の性格や年齢を考えれば働きすぎている。もう少し誇ってくれると、子供に助けられた大人は肩身を潰されずに済むのだが。ケイは苦い笑みを浮かべた。
しかし、それにしても――。
【君は……いったいどこまで知っているんですか?】
【……地下室があることと、先生がニンゲンだってことだけです】
【エッ!?】
大声を上げたのは床にへたり込むメイユイだった。かなり勘づいていたユンファと違って、メイユイは心からケイが同族であると信じていたらしい。
【そう、ですか。いつ……気づいたのかお聞きしても?】
【……地下室は去年の時点で気づいていました。掃除のときに、ここだけ足音の響き方が違うなって。開け方はわかりませんでしたし、開けようとも思いませんでしたが。ニンゲンだって気づいたのは、まぁ……初日から薄々と】
【初日から……】
【だって、シグレミヤの文化に疎いじゃないですか。最初はただ世間離れしてるだけかと思ってましたが……いつでしたっけ。メイユイから暁月花札を教わったんでしょう。……あれはおそらく、国民のほとんどが知ってる遊びですよ】
【あ、あぁ……なるほど】
トンツィに新聞を買ってきてもらって、シグレミヤの出来事は常に把握し会話から正体を悟られないよう気をつけていたつもりだったのだが――まさか、そんなところから看破されるとは。意外すぎて、悔しいよりも感服の気持ちが強くなる。
【まぁ、先生側の事情がわかってなかったので、知ってるってことは黙ってるつもりだったんですけど……そろそろ、事情を教えてもらってもいいですか】
【……】
【先生がニンゲンでも何でも構いません。俺はニンゲンに恨みはありませんから。でも、厄介ごとに巻き込まれるわけにはいかない。……これからの俺の動き方を考えるためにも、この学校の事情は知っておきたい。ですから、教えてください】
――青い瞳に貫かれ、ケイは口をつぐんだ。
この学校はケイを、マオラオを助けるのが創設のもっともたる理由だ。勉強の教え方や評価の仕方は平等のつもりだが、メイユイとユンファが二の次になっていることは否定できない。純然な事実だ。でも、それを本人に伝えていいのだろうか。
ユンファは聡い子だ。もしかすると既に気づいているのかもしれないが、それを肯定されるのとされないのとでは、心の持ちようが違うのではなかろうか。
メイユイは更に気がかりだ。さっきのことも理解が追いついていない彼女の、誰よりも純粋に学校生活を楽しんでいる彼女の足場を、ひっくり返すような真似をしていいのだろうか。このまま何も知らずに卒業させてあげるべきじゃなかろうか。
ケイが言い悩んでいると、メイユイが意を決したように口を開いた。
【――先生】
【……はい】
【よくわからないでありますけど……私は先生のこと好きでありますよ。先生は私にお友達をくれましたし、先生もお友達であります。困ってるなら助けになりたいであります。……怖くないでありますよ。気楽に、打ち明けてください】
【――わかり、ました】
ケイはゆっくりと頷き、このプロジェクトの目的を2人に打ち明けた。これが正しい選択なのかはわからなかった。けれど、ケイが隠し事をしていると知っても、事情を聞こうとしてくれた2人に向き合いたかった。
……トンツィとは今夜また会うつもりだ。彼にはそこで謝ろう。そう決意する。
【――なので、今は船の完成を待っている状態なんです】
ほぼ全てを打ち明けると、ユンファとメイユイはしばらくの間黙り込んだ。この山奥の小さな学校が、国家反逆にも等しい目的に関わっていたのだ。理解が追いつかないのは当然だろう。焦らず答えを待っていると、ユンファが静寂を割った。
【大体の事情はわかりました。俺たちはこのまま知らないふりを続けます】
【……エッッッ、知らんぷりでありますか!?】
【だって、命を賭ける義理はないだろう】
【な、なんっ……】
【……でも、政府に告げ口する仲でもない。いずれバレることをバラしに行くのも面倒だしな。……このままプロジェクトに巻き込まれたふりをして、どう転んでも俺たちは罪に問われないようにする。……じゃないと、天満組にいられないぞ】
【そ、それは嫌であります! が……】
わかりやすく小さくなるメイユイ。助けになりたいと言った手前、裏切るようで気分が悪いのだろう。ちらちらとこちらを見る色違いの目に、ケイは思わず笑う。
【――大丈夫ですよ。君たちが『いつも通り』を選んでくれるだけで、私はとても助かります】
【そう、ですか……いや、お使いくらいはしても捕まらないはずであります! 街への用事は任せてください! ……ところで、その……マオラオ先輩は先生がニンゲンってこととか、この学校のことは知ってるんでありますか?】
【……いえ、彼はまだ知りません。当分は、教えるつもりもありません】
瓶底メガネの内で、ケイは目を伏せる。
トンツィから言いつかっているのだ。マオラオは真面目な子だから、この計画がマオラオを発端に始まったものであると、本人に気づかれてはいけないと。
自分のためにケイやトンツィの命が懸けられていると知ったら、プロジェクトから降りてしまうかもしれないからと。だから、
【2人も、彼には秘密にしておいてください】
そう言うと、メイユイとユンファは『わかりました』と受け入れた。そして、授業を再開するにも微妙な時間となってしまったので、今日はそこで放課となった。
――その日、トンツィは約束の時間に現れなかった。




