第166話『人間は豚肉を加熱しよう』
その後、宝蘭組は事態の収束のため奔走した。怪物の残党探し、被害者の救出、不要な外出を禁止する旨の呼びかけ――セツカ亡き今、宝蘭組のトップであるハナマルが司令塔となって、花都シグレミヤを蘇らせようとしていた。
『天国の番人』の出現により、怪物化事件とは関係がないと判断された戦争屋はその間、宝蘭組の屯所にて身体を休めていた。フィオネの脱獄に関しては、彼の予定通り『怪物に連れ出された』ということになって、すっかり見逃されていた。
――本来の戦争屋の目的であった、『花都を囲む血霧の解除』は、セツカの死亡という思いもよらぬ形で成った。が、戦争屋はまだ2つの問題を抱えていた。
1つ目はもちろん、マオラオたちがシェイチェン家に捕らわれたことである。
ノートンの言ったことを信じるなら、マオラオたちが解放される条件は、第3王女マツリが彼らのどちらかと結婚し、シェイチェン家を再興すること。しかし、今のマツリにその余裕はないし、戦争屋としても望まない事態だ。
2つ目の問題は、ペレットの黒痣病が依然進行していることである。本来、黒痣病はセツカが引き起こしたものだと思われていたので、セツカへの謁見が叶えば治ったも同然、と思われていたのだが。
その実、黒痣病そのものには女王は関与しておらず、治療のためには真犯人に干渉しなければならなくなったので、状況は一進一退という具合だった。
【――そうなると、もう悪者になるしかないのよね】
結婚式の翌日、フィオネは月に照らされながら、峠の草を踏みしめた。後からやってくる巫女服の女性が、振り向くフィオネに顔をしかめる。
【……もう1回言っておくけどぉ、私は悪者になんてなりたくないんだからぁ。ただ、マツリちゃんに政略結婚なんて経験させたくないだけぇ。間違っても、私が貴方たちの片棒を担いだなんて言わないでよねぇ】
【もちろん。貴方はただアタシたちに脅迫されてここに来ただけ】
【怖いわぁ。助けて〜、ハナマル〜】
茶番を繰り広げながら、峠の先端までやってくるフィオネと女――スーァン。彼らはかつてメイユイが訓練をしていたそこから、シグレミヤ近海を見下ろした。真っ暗な海には、一隻の船が浮いている。ペレットたちのいる船だった。
【……そこそこ高いじゃなぁい。どうやって降りろって言うのよぉ】
【あら、鬼族はこれくらい平気なのかと思ってた】
【鬼だからってみんな耐久力が高いと思わないでよねぇ。死にはしないでしょうけど……骨折は免れないと思うわぁ。流石にそんなことさせないでしょぉ?】
【えぇ、当然。だから、こうさせてもらうわよ】
有無を言わさずスーァンを横抱きにし、峠から飛び降りるフィオネ。スーァンが声にならない悲鳴を上げた直後、フィオネは甲板に着地した。停滞していた船が僅かに沈み、水面に波紋を生みながら再び浮上する。
【ば……馬鹿なのぉ貴方ぁ……!】
【これくらい平気よ。さて、早く船内を案内したいところだけど、話を通さなきゃいけない子がいるのよね。もうちょっと待っててちょうだい】
そう言って、何かを待つフィオネ。それを怪訝に思いながらも、彼に倣ってスーァンがじっとしていると、船室のドアが乱暴に開き、少しやつれた顔の少女が現れた。セレーネだ。彼女は構えていた機関銃を下ろすと、大きめの吐息をした。
「……やっぱり貴方ね。悪いけど、気が立っているの。早めに要件を言ってちょうだい」
「ジュリオットを解放しに来たわ。物置部屋にある氷像、もう貴方も知ってるでしょう。あの中にいる男はうちの優秀な医者なの。彼が解凍できたらペレットは治ったも同然よ。だから、アタシたちを通してちょうだい」
「……別に、ペレットくんの邪魔にならないのなら、誰を解凍しようが構わないけれど……期待だけさせに来たんなら、殺すわよ、貴方」
「あら、愛の力って怖い。いいわ。期待外れの男だったら大人しく殺されましょう。まぁ、アタシたちを殺す貴方にペレットを救えるのか、それが気になるところだけど」
「……嫌な男」
セレーネは顔をしかめ、船内へと消えていった。元々この船は処理班の船であり、どちらかというとフィオネの所有物なのだが――とりあえず、番人には受け入れてもらえたようだ。フィオネはさぁ、とスーァンを促した。
【――これ、本当に生きてるのぉ?】
物置部屋についたスーァンは、氷像を見て訝しんだ。
粗く削ったような無骨な氷に閉じ込められたジュリオットは、作り物のように真っ白な肌をしていた。今から解凍したとて、そこに血が通うようになるとは思い難かったのだが――スーァンは物言いたげな顔をしながらも、氷像に手のひらを当てた。
40分後。スーァンは横たわったジュリオットから手を離すと、後ろから見ていたフィオネに目をやった。
【脈は戻ったようだけど、これでいいかしらぁ】
【上出来よ、ありがとう。お礼に紅茶を振る舞いたいところなのだけれど、もう少し待っててくれるかしら。この男に急いで状況を説明しなきゃならなくて】
【いいわぁ。今日はもう外には出られないし、ここで一晩休んでいくつもりだったからぁ。明日の朝にでも淹れてちょうだぁい】
スーァンは踵を返し、物置部屋を出ていく。パタン、と扉の閉じる音がすると、ジュリオットの骨張った指がぴく、と動いた。青い目が、開いた。
*
「こっっっのろくに設備もない船で、起き抜けに、未知の病原菌の特定なんてさせますかね」
三つ編みの男は乱暴に頭を掻き、注射器のような器具から針を引っこ抜いた。手の中に残った筒状の容器の中で揺れるのは、採取したばかりの血液である。ペレットのものだ。男はそれに小瓶の白い粉を落とすと、容器を閉じて軽く振った。
ここは医務室。男の周りには夜中の1時にもかかわらず叩き起こされた処理班員たちがおり、男の指示に従って機械を机にセットしたり、戸棚から薬を取り出したりしていた。
「ジュリオットさん、分解薬の用意終わりました。こちらに置いておきます」
「ジュリオットさん、ペレットさんにチアシトリン投与しました」
「ありがとうございます」
処理班員たちの報告に言葉少なに返事をし、血液の容器を仰々しいサイズの機械にかける男――ジュリオット。素早く機械を操作する彼の背中を、医務室の寝台に腰掛けながら楽しそうに見ているのはフィオネであった。
「……なんです? 貴方も体調不良ですか?」
「いえ、貴方がかっこいいから見ていただけよ。貴方、なんでモテないの?」
「急に喧嘩を売りますね。おおよそ貴方のせいですよ。貴方がいなかったら今頃……いえ、そんなことはいいんです。治療薬を作ること、治療薬を量産することが先決だ。見ている分には構いませんが、邪魔したら毒食わせますからね」
「わかったわ。ところで、今は何をしているの?」
「……血液からウイルスの情報を取り出そうとしています。今は、薬を使って血液を分解し、更に余分な情報を削ぎ落とそうとしているところです」
ジュリオットは説明しながら機械から筒状の容器を取り出し、処理班員が置いていった液体を血液に溶かして、混ぜたものをスポイトで抽出した。スポイトの中身はガラスの皿に移し、皿をこれまた仰々しい機械にセット。
備え付けのレンズを覗き込み、再び操作しながら何かをぶつぶつ呟いて、
「はぁ、大体わかりました。症状を7、8割軽減するくらいなら、ここにある薬で出来ると思います。私の研究所に帰れば完治も容易かと」
「本当? よかった、貴方ってやっぱり優秀ね」
「……貴方に褒められると、なんというか、恐怖で震えますね。さておき、花都にも黒痣病に罹患した人がいるなら、この薬は量産して分布しなければならない。国家、医療機関とのスムーズな連携が取れるように、貴方には口利きをお願いします」
「今すごく失礼な言葉が聞こえたような気がするけど、無論よ。調合、頑張ってちょうだいね」
フィオネは髪をはらって、寝台から立ち上がる。そのまま、医務室を出て行こうとして、メモ帳に何かを書き込むジュリオットが『あの』と引き止めた。
「私が眠っていた間のこと、これからのこと、説明してもらいましたが……シェイチェン家に乗り込むって言っていましたよね。ですが、相手は鬼の一族です。そんなのを相手に、どうやってマオラオくんたちを取り返すつもりなんです?」
「……知りたい? なら、耳を貸してちょうだい」
フィオネは正面から詰め寄ると、ジュリオットの肩をぐいと引き寄せ、耳元に口を寄せる。側から見れば抱き合っているような距離感。相変わらず趣向の悪いやつだ、とジュリオットが顔をしかめたのも束の間、耳心地のよい低音が鼓膜に触れた。
「――はぁ。貴方にしては、随分と薄汚いやり方ですね」
「そりゃあ相手が相手だもの。狡い手でも使わないと勝てないわ。それと、貴方にはまだ言ってなかったわね。マオラオには戦争屋を脱退されてしまったから、今回取り返すのはノートンだけよ」
「……は?」
受け入れ難い言葉を聞いたように、ジュリオットは眉根を寄せる。
「待ってください、マオラオくん、戦争屋脱退したんですか?」
「えぇ。つい先日、人を食べてしまったんですって。それ以来、アタシたちを見るとどうにもお腹が空いてしまうから、間違いを犯す前にって出て行ったの」
フィオネは言いながら、ジュリオットの痩躯から離れる。
ジュリオットは呆然とした様子で、メモ帳からゆっくりと紙をちぎった。それを机上に流すと、フィオネとジュリオットの距離感にドギマギした様子の処理班員が、そそくさと受け取ってどこかに消える。
「……そう、ですか。なら、仕方がありません。ですが……子供たち、特にシャロさんは納得しているんですか?」
「いいえ、していないわ。だから、きっとシェイチェン家に乗り込んだら、シャロはマオラオがうんと言うまで説得し続ける。けど、」
「人を食べずに済む方法が見つからない限り、マオラオくんは帰ってこない……ですか? 案外、豚の生肉でどうにかなるんじゃないです? それか、死体。死体なら1ヶ月に1回は必ず供給できますよ。バラして凍らせれば毎日……ん?」
ふと、何かが引っかかるジュリオット。彼は顎を摘みながら、凍結の後遺症かズキズキと痛む頭で思考を巡らせ、
「ノートンさんも鬼族なんですよね。彼は、今まで食人欲求をどうされていたんです?」
「――」
ジュリオットの問いに、フィオネは黙り込んだ。彼にしては珍しい。3年の付き合いから察するに、問いに対する答えを持っていないわけではないようだった。だが、それを口にしていいものか迷っている。
そこまで迷うくらいなら、とジュリオットが止めようとすると、同時にフィオネが口を開いた。
「ノートンは、鬼のツノを落とされたときに食人欲求を失ったと言っていたわ。そして、ツノを落とすという行為が鬼族にとって、これ以上ない屈辱であるとも」
フィオネが思い出すのは、メイユイと初めて出会った日。マオラオたちが鬼だと知ったシャロから、ツノのありかを聞かれたときのノートンのこと。
《あぁ、角を出すのは特別な時だけだ。出していると爆発的な力が入るが、代わりに物凄く疲れるからな。普段はしまってるんだよ》
そう説明する彼は、憂うような顔をしていた。
「だから、マオラオを連れ戻す方法は、ないわけではないの。実際、アタシも彼に提案したわ」
次に思い出すのは、宝蘭組の屯所が襲撃を受ける2、3時間前。ハナマルやシャロたちに黙ってマオラオと合流し、王権の譲渡について取引していた夕方のこと。
「けど、あの子はその場じゃ決断できなかった。……鬼族にとって等しく屈辱的な行為である上、相手はあのマオラオよ。変なプライドのある彼には、きっと明日シェイチェン家から解放されたとしても、ツノを落とす選択は出来ない。だから」
――マオラオ=シェイチェンはここに置いていく。
自分とジュリオット、2人にしか聞こえない声で、フィオネはそう呟いた。




