第163話『林檎の赤か、柘榴の赤か』
同時刻。暁月大社では、セツカとイツメの戦いが苛烈さを増していた。
鋭く肉薄したイツメが刀を振るい、右から、左から、正面から、息をつく暇さえ与えない連続攻撃をセツカに叩き込む。さながら雨のように隙のないそれは、常人には目視することすら叶わない神速の剣技であった。
しかしセツカは薙刀を駆使し、全ての攻撃を捌いてみせる。
【ちっ……】
舌を打つイツメ。かすり傷さえ与えられないとは思わなかったようだ。憎々しげにセツカを睨んだ彼女は、空いた手を自身の喉元に突き入れた。
次の瞬間、セツカの体勢が横に崩れる。はっとして足元を見ると、セツカの影から出てきた艶かしい女の手が、セツカの片足を影に引きずり込もうとしていた。
その一瞬だった。セツカの意識がイツメから逸れたそのとき、再度接近したイツメがすれ違いざまにセツカの片腕を斬り飛ばした。斬られた腕は激しく回転しながら放物線を描き、着地と共に血肉をぶちまける。
セツカはわずかに目を見開いたが、痛みに声を上げることはなかった。ただ、無言で薙刀を自分の影に突き刺した。
【っ!】
直後、イツメの喉から血が噴き出す。イツメが影から手を引き抜くと、真っ赤な手の甲に刃物で貫いたような傷跡が出来ていた。指を動かすだけで激痛が走る。利き手でなかっただけ良かったが――これは、かなりの痛手だ。
【最悪じゃ】
悪態をついたイツメは振り向き、セツカの突進を刀で受け止めた。間髪をいれず回し蹴りをすると、セツカが真横に吹き飛ぶ。向かう先は花咲き乱れる森だった。
が、セツカもただでは転ばない。彼女は長い黒髪をばたばたとはためかせて吹き飛びながら、20本ある血の矢をイツメに向かって発射した。
それらを迎え撃つイツメ。彼女は自身の一部であるかのように刀を巧みに操り、矢のほとんどを叩き落とす。が、彼女は矢に紛れて飛んできていた、極細の血針に気づいていなかった。針はイツメの片目を貫き、小さな爆発を起こした。
【ッ……はは】
閉じた片目から血を流しながら、イツメは嘲笑する。
残った方の目に映すのは、薙刀を地面に突き立て着地を果たしたセツカの姿だ。彼女も衣装についた砂を払うと、腕から滴る血もそのままにイツメを見据えた。
――実力は拮抗しており、お互いがお互いにとってこれ以上ない脅威だった。下手をすれば命を取られる可能性もある相手であった。
しかしどちらも一向に、得物を手放し、降参しようとはしなかった。
片方は地獄の烈火のような激しい怒りを、片方は冬の海のように冷たい闘志を目に宿し、猟奇的な香りをまとってそこに存在していた。
【そろそろ降参したらどうじゃ? 腕がなくては辛かろう。いさぎよく諦めてこの国をわらわに明け渡せ。……不幸にも血の繋がったよしみじゃ。わらわに一生隷属するのであれば、息をして日を浴びるくらいは許してやってもよいぞ】
【その必要はありません。王とは代々、年長者がなるもの。歴史は貴方が王になることを認めない。ましてや今の貴方は、国を混乱に陥れる逆賊です。逆賊は慈悲もなく滅するまで。それがたとえ、血が繋がった実の妹であろうと】
【ふん。3年も経てばウヌの悪癖もマシになったじゃろうと思っておったが……阿保はいつまで経っても阿保じゃな。口を開けば歴史歴史とやかましいやつよ。ウヌのもとで生きるマツリも、国民も、さぞや辛い思いをしておるのじゃろうな】
【国を捨てた貴方が、わかったようなことを言うのですね。慎みなさい。貴方の前にいるのはもう、貴方の姉ではありません。貴方を葬る花都の王です】
【ならば花都の王よ。よいことを教えてやろう。物事は1歩引いて見るものじゃ。最も近くにいる者にこそ、真実が見えるというのは阿保の考えること。よいか? ウヌはウヌに見えておる赤が、林檎の赤か柘榴の赤かわかっておらんのじゃ】
――冷静にやりとりをしながら、それでも姉妹は相手を殺す準備を怠らない。
セツカは境内から血を集めると、腕の形に加工し、腕の傷口に接着した。即席の赤い義手は手そのもののように滑らかに動き、セツカの薙刀をしっかりと支える。
対するイツメは、再び喉元の影に手を突っ込んだ。
取り出したのは、半透明の液体が入ったフラスコだ。中の液体は薬液であり、服用した人間から知力を奪い、凶暴性とパワーを与える代物である。現在花都シグレミヤを騒がせている、怪物化現象の原因だ。
怪物化現象は前に1度、宝蘭組の屯所付近でも起こしているし、その被害内容は神薙城にも届いていることだろう。
現象の原因がなんらかの薬にあることにも気づかれているはずで、きっと、イツメが取り出したものがそれであることにも勘づくはず。
ならば、セツカとしては絶対にこのフラスコを避けたいはずだ。
そう読んで、フラスコを戦いに利用する。
イツメはセツカに向かって疾走すると、途中で跳躍し、大きく回転しながら弧を描くようにセツカの頭上を通過した。
最中、逆さまになりながらフラスコを放り投げると、セツカは落ちてきたフラスコを避けるように下がる。地面に落ちたフラスコは割れ、中の液体が飛び散った。
迅速な判断能力でセツカは薬を避けたが――同時に、気づいたようだ。
セツカの強みとは、回収した血を武器や身体の一部に加工できること。しかし、たった今フラスコが割れたことにより、境内の血には薬品が付着した。
薬品が付着した血に触れてしまうと、今度は自分が怪物になる可能性がある。そのため、これからは気軽に血を回収することが出来ないのだ。
【ウヌの能力は、ちと厄介じゃからな】
口の中でつぶやいたイツメは、ヒールを鳴らして華麗な着地を決める。
一方、イツメが割ったフラスコの中身が、境内の石畳の隙間をなぞっていくのを眺めていたセツカは、【やはり】と小さく声を発した。
【花都の民をあのような……異形に変えていたのは、貴方だったのですか?】
【そうじゃ。もっとも、これそのものを作ったのは別のやつじゃ。異形になった者を元に戻す方法なぞ、わらわは知らんからな。期待するなよ】
【期待はしておりませんが……一体、何のために】
見当もつかない、と言いたげに眉を下げるセツカ。
その反応は今までのイツメの発言を全て、間に受ける必要のない『戯言』と受け流していたことの証明であり、姉の無関心を悟ったイツメは乾いた声で笑った。
【察しの悪い女王様じゃ。ウヌのために、単刀直入に言うてやろう。花都の政権をわらわが支配するためじゃ。ただでさえ現女王の圧政に苦しめられておる国民を、自分が、周りが、醜い異形になるかもしれない恐怖が襲ったら?】
【……】
【まぁ……自分からは動かんじゃろう。女王に背けば殺されるからな。だから、第三者からの救いを求める。全ての恐怖を打ち砕く、強く優しい救世主を求めるじゃろう。そこにわらわは漬け込みたいのじゃ。救世主は支持を集めやすいからの】
そう言って、肩まで伸びた髪をはらうイツメに、セツカは沈黙する。
鉄仮面を被ったような彼女の顔には、どんな表情も表れない。が、沈黙するくらいには驚いていたのだろう。イツメが本気で玉座を狙っていると知って。
歴史に基づいて生きているセツカには、次女のイツメが玉座につくなど、考えたこともないくらいありえないことだから。
少し経って、セツカは何かに思い至ったように、口をうっすらと開けた。
【まさかとは思いますが。いま、花都シグレミヤで流行している『黒痣病』も、貴方とその仲間の方の仕込みなのですか?】
【そうじゃ、よく気づいたの。あれも国民の不安を煽り、この国への懐疑心を抱かせるために仕込んだもの。ウヌの『血霧』と暁月大社の大巫女の力を使っての】
【……私と、大巫女の力を?】
【わらわはよく知らんが……大巫女が気温を維持しておる山から、年中吹き下ろしている暖かい風と、ウヌの血を使った霧が揃った花都シグレミヤ近海は、黒痣病のウイルスが生息するのに大層適しておるそうじゃ。それで、温められた血霧を媒介に海風を利用して、ウイルスを海沿いの村に散布しておったらしい】
【――どうりで。本来、忌避感を煽る見た目以外に害はないはずの霧の海から、半年に1隻ほどの頻度で重度の黒痣病に罹患した海賊達が流れてくるので、不思議に思っていたのですが……納得しました。貴方達のせいだったのですね】
セツカは瞑目し、息をする。乱れた精神を統一するように、静かに、繊細に。
そして目を開けると、彼女は薙刀を構え直した。
【私が善とは申しません。が、やはり本当の悪は貴方でしょう、イツメ。貴方の命は、花都シグレミヤの王である私が終わらせます。貴方は、救世主にはなれない】
【その意気じゃ。そうして、無残にわらわの前で散るが良い】
イツメは赤い唇の端を吊り上げ、血を振り払って刀を構える。永遠とも思えるような緊迫した数秒の後、両者共に接近し、各々の武器を走らせた。
――その時だった。
【やめてくださいまし!!】
どこからか、不在だった三女の声がした。
今にも喉が裂けてしまいそうな、悲痛で、心の底から訴えるような声だった。朗らかな彼女のイメージからはかけ離れた声に、姉達は少なからず動揺した。
だが、動きを止めたのはセツカだけだった。
声がした次の瞬間、イツメの刀がセツカの胸に突き刺さった。
*
その場にいた誰もが、何が起こったのか理解できなかった。
胸を突き刺したイツメも、胸を突き刺されたセツカも、殺し合う長女と次女を止めようとした三女――マツリも、誰もが思考を停止させていた。
ただ、セツカの花嫁衣装を赤く染め、刀の切っ先からぽたりと滴り落ちた血が、何が起こったのかを残酷なまでにはっきりと証明していた。
ごふっ、と血を吐くセツカ。それを見たマツリは血相を変え、来た道からやってきたスーァンには目もくれずに、セツカのもとに駆け寄った。
【姉様っ!】
マツリが駆け寄ると同時、セツカが膝をつく。衣装が吐いた血を吸収して、ぬれぬれと光る赤色に染まっていた。が、マツリはそれも構わず、2メートルはあるセツカの身体を抱き、揺れる眼差しでイツメを見上げた。
【どうして、どうしてこんなことをしましたの!?】
【……教えたところで、ヌシに理解はできん。ヌシは些か清らかすぎるからな】
【ばっ……馬鹿にしないでくださいまし! わたしは……っ、わたしは、周りが思うほど綺麗な者ではありません! ……わたしは、どうしてイツメ姉様がこんなことをなさったのか、お聞きしているんです! お答えください!】
【……綺麗でない、か。主観でしか喋らんところは実に姉に似ているの。よいか。ヌシにわらわの考えを話す必要はないのじゃ。話すだけ手間じゃからな。そうして何も知らないまま、姉の腕の中で愛玩されていればよい】
【っ……】
歯噛みするマツリ。長女は腕の中で死の危険に瀕しており、次女には人未満の扱いをされ、寄る辺のない彼女の目にじわじわと涙が浮かぶ。
――と、その時だった。
マツリと、スーァンがやってきた方向から、立て続けに木が折れる音がした。
その音でマツリはハッと我に返り、怯えたように来た道を振り返った。
【……ッ、いけません! お逃げください姉様!】
【断る。……なんじゃ、この音。不快な音じゃな。ウヌ、一体何を連れてきた】
【……マオラオさんが】
【は? マオ……?】
聞き馴染みのない名前に、イツメが顔をしかめた次の瞬間。
音の聞こえた方向――暁月大社を囲む森の方から、木が1本吹っ飛んできた。
それに気づいたマツリは、動けないセツカを庇うように身体を広げる。同じく危険物を認識したイツメは、森の方へ進み出て、拳を振り払った。すると、殴られた木はあっけなく大破。粉々になった木の破片が、雨のように散らばった。
【……あぁ、思い出した】
手についた破片をはらいながら、木が飛んできた方向に目をやるイツメ。
そこには、紅玉のように輝く2本のツノをこめかみに生やし、上等な白い衣装を真っ赤に汚して、四足獣のように低く地面に這う少年――マオラオの姿があった。
その口からは荒い呼吸と血が漏れ出しており、目はぎらぎらと輝いていて、彼が正気をとどめていないことがうかがえる。
どうして彼がそのような状態になっているのか、イツメにはわからなかった。しかし、ただ1つ確かなことがあった。
今目の前にいるマオラオは、何者かに憑かれている。でなければ、己がちっぽけな存在であったと思い知らされるような、この圧倒感に納得がいかない。
【とんでもないものを連れてきてくれたのう、マツリ。……いや、これはそっちの大巫女か】
イツメが目を向けたのは、マオラオに見向きもされないまま、彼の横で涼しげな顔をして立っているスーァンである。
今のマオラオとあの距離にいながら、なおも平静を保っているのであれば、マオラオの何かを知っていることは確実だ。
とはいえ、スーァンを殺したところでマオラオのあれは治らないのだろう。
【汗をかくような真似はしたくないが……いかんせん、大人しく話を聞く知能は持ち合わせていないようじゃからの】
言いながら、イツメは自分の喉に手を入れる。
【――来るがよい。わらわの勝利に水を差した、罪の重さを味わわせてやろう】




