第161話『マニュアル通りの戦い方』
暁月大社から逃げ出したマオラオとマツリは、無事にマオラオの母校に辿り着くことができた。
山奥にぽつんと建つそれは、ただでさえ寂れた雰囲気を醸しているのに、祝日の今日は教師も生徒もいないため、余計に閑散として見えた。
入り口には鍵がかかっていたが、マオラオは知っていた。この学校には昔から、鍵が壊れて施錠できなくなった窓があるのだ。今も修理されていなければ、そこから中に入れるはず。マオラオはマツリを連れ、校舎の裏手に周った。
窓の鍵は壊れていた。マオラオは窓を開け、学校の廊下に入った。
【学校って、わたし初めて参りましたわ】
王女という立場でありながら窓枠に足をかけ、不法侵入を犯したことを自覚していないマツリは校舎内を興味深そうに見て回る。
普段はユンファが彼女の勉強を見ているし、その前もきっと専属の教師がいたはずなので、生まれてから今まで学校というものに縁がなかったのだろう。
神社での惨事も一瞬だけ忘れ、学校で過ごす架空の自分を思い描くマツリ。目を輝かせて適当な教室に入った彼女を追い、敵襲への対策を考えながら戸を開けたマオラオは、ふと見た黒板の絵に目を奪われた。
【これ……シグレミヤか?】
よくよく見ると記憶の中のどことも一致しておらず、誰かが考えた架空の風景だとわかるのだが、建物の特徴が一致していることや、神薙城のある湖が確認できることから、花都シグレミヤを模している絵のようだ、とわかった。
よく特徴を掴んでいるし、何より線の引き方や影のつけ方が上手い。
消そうと思えばすぐ消せてしまう黒板に描くには、あまりにももったいなさすぎる絵に、絵に関心のないマオラオもつい魅入っていた。
しかし、
【ッ! マツリ王女、しゃがんでください】
風の鳴る音が聞こえ、こちらへ接近するマルトリッドの姿を『監視者』で確認したマオラオは促す。マツリはすぐに夢から覚め、さっとその場にしゃがみ込んだ。
海を渡れるほど足の速い『鬼族』の全力で逃げてきたとはいえ、流石に風が味方についている彼女を撒くことはできなかったか。
マツリと同じようにしゃがみ込み、外の目から姿を消したマオラオは、『監視者』の発動を続けながら歯を噛んだ。と、その時だ。
ここ空き教室からもっとも離れた部屋――職員室がある方向から、建物がひしゃげたような凄まじい音がした。その音につられてマオラオは、『監視者』の視点を動かしてしまい、それがこちらの気を逸らすための罠であったと気づく。
【しまっ……】
間に合わない、と判断したマオラオは、マツリのもとに飛び込んだ。
直後、轟音を立てて天井が落ちてくる。上から圧をかけられた壁がいともたやすくしなり、折れて、校庭に向かって吹き飛んでいった。
【きゃあっ!?】
マツリの悲鳴を聞きながら、彼女を抱えて外に転がり出るマオラオ。地面に散らばった窓ガラスの破片がいくつも肌に突き刺さる。マオラオの大きい衣装で数は抑えられているが、きっとマツリにも刺さっていることだろう。
女王にバレたら極刑に処されそうだ。マルトリッドの攻撃に焦る中、うっすらとそんなことを考えながら、マオラオは体勢を立て直した。
「2度も逃げるな、手間がかかる。……だから子供は嫌いなんだ」
先程までいた方向から声が聞こえてくる。そちらを見ると、上からの圧で潰れた空き教室が砂と埃をあげる場所に、1人の女が立っていた。
尻まで伸びた赤い髪、深緑色を基調とした看守服。鉄のように冷たい顔で、威圧感を背負ってこちらにやってくる女――マルトリッドだ。
迷いのない彼女の歩みに、マオラオはマツリを背に隠し、後ろ手でここから離れるように合図しながら、『はっ、誰が子供や』と冷笑した。
「こっちも同じこと繰り返されて気ぃ悪いわ。本命の攻撃避けとっても、必ず怪我すんねんからそれ。ええ加減真っ向勝負で戦えや。馬鹿の1つ覚えみたいに高所ばっか取っとらんとさぁ。ええ年して恥ずかしくないん?」
「――プライド、美学、矜持。聞こえの良い言葉を使って馬鹿を見るのは、君たち若者の特権だな。命のかかった戦いは、小心者でなければ勝てない」
「そらそうや? けど、決まった手ェしか使わんようになると、相手に対処された時にどうにもならんくなるで! 小心者ならかえって、戦い方のバリエーションは増やした方がええんとちゃうかなぁ!」
及び腰の女看守を挑発し、マツリが離れたのを見計らって肉薄するマオラオ。迎え撃つマルトリッドが風の刃を投げてくるが、彼はそれらを難なく避けた。並外れた動体視力を持つ彼にとって、風を避けることはそう難しいことではない。
「っ……」
正面から突っ込んでくるマオラオは、暴走機関車も同然である。実際に少年の正面に立った彼女も、このままやり合えば死ぬ、と予感したのだろう。
跳躍でマオラオの拳を回避したマルトリッドは、走ってきた勢いを殺せないマオラオの脳天に手を添え、そこを支点に大きく前転をした。
逆さまになるマルトリッド。身体の位置がマオラオの軸を越えた辺りで、彼女が手から風を放出すると、マオラオの身体が吹き飛んだ。
【マオラオさっ……】
校庭から一部始終を見ていたマツリの顔が強張る。彼女の目に映ったのは、受け身をとり着地するマルトリッドと、校舎に突っ込んでいくマオラオの姿だ。
すなわち、マルトリッドに立ちはだかる者がいなくなった、という絶望である。
たとえマオラオがすぐに瓦礫から這い出てきたとしても、マルトリッドのもとへ走ってきたとしても、マツリの殺害は阻止できないだろう。それだけマルトリッドの能力の有利と、マオラオの距離の不利があった。
手の内に風を集めるマルトリッド。死への秒数を刻むように、淡々と歩いてくる彼女にマツリは後ずさる。
マツリは一介の少女であり鬼の王女でもある。単純なスタミナとパワーだけならマルトリッドを凌駕しており、完全に希望が絶たれていたわけではなかった。
しかし武術を極めた長女とは違い、人殺しに頓着しない次女とも違い、自衛のために相手を殺すという選択肢がない。故に、何も出来ずにいた。自分がこれから殺されるのを、ただ青い顔で眺めることしか、
「――ッ」
マルトリッドが顔をしかめた。その頬から、ついと赤い血が流れる。何か、小さくて鋭利なものが投げられたのだと気づいた。
飛んできた方向は――校舎か。マオラオの衝突で再び砂と埃が舞い上がった校舎から、何かが飛んできている。追撃を入れようとマルトリッドは指で銃を模した形を作り、人差し指の先端に回転する風の力を集めた。
「……む」
ふと、校舎の奥から何かが飛んできた。天高く、弧を描いて。結婚式用の白い羽織が被せられており、中に何が入っているかわからない。風を受ける羽織が時折角を見せるので、中に箱が入っていることだけは伺えた。
爆発物だろうか。マルトリッドは集めた風を羽織に向かって撃つ。狙いは上々、風は吸い込まれるように羽織を撃った。
結果。羽織と中の何かは破裂し、大量の粉を撒き散らした。
「なっ……」
その正体は木っ端微塵になったチョーク――石膏であるのだが、チョークもとい学校に縁のないマルトリッドにはそれが何なのかわからない。
その粉をすぐさま危険物と定め、マルトリッドは続けて風の弾を撃つ。油断のない彼女だからこそ生まれた判断だった。が、それが別の油断を呼んだ。
校舎から続けて何かが飛んでくる。今度はマルトリッドに向かって一直線に。マオラオへの注意は払っていたが、いかんせん石膏を撃墜するのに空を見上げていたため、彼女はそれに気づくことが出来なかった。
喉と足に鋭い痛みが走り、直後、かひゅ、と空気が漏れ出すような音がして、マルトリッドは自身の喉を押さえた。
どうやら、木か石の破片を投げつけられたようだ。ただの破片でも、ニンゲンとは投擲力が桁違いの鬼族が扱えば、立派な凶器になるらしい。
「っ……鬱陶しいやつだ」
憎々しげに呟いたマルトリッドは、空いた手のうちに風の力を込めると、砲弾ほどの大きさになった風の弾を校舎に向けて発射。
すると、辛うじて原型を残していた校舎は爆ぜるように散り、残りの教室も全て倒壊した。それでも風の勢いは死なず、校舎裏の木々まで薙ぎ倒していく。
もう、隠れられる場所はない。――が、マオラオの姿は見つからない。
「……どこだ」
マルトリッドは気を研ぎ澄ませながら、潰れた校舎に立ち風を手中に集める。これならマオラオが横からやってきても後ろからやってきても、たとえ上からやってきたとしてもすぐに反撃が出来る。決して隙は作らない。
――が、肝心のマオラオがどこにもいない。
視界に映る範囲にも、瓦礫の下にもいない。まさか校舎と一緒に風に撃たれて、指の1つも残らないほど綺麗に爆散したのか――とは思わない。
仮にそうだとしたら、霧吹きで吹いたような細かい血痕が残っているはずだ。しかしここに血痕は残っていない。つまり、爆散はしていない。
仲間のマツリ王女は校庭で1人へたり込んでいるし、彼女を連れて逃げたわけでもないようだ。一体この短時間でどこへ消えたというのだろう。そもそも命惜しさに逃亡したのか、機を狙うために身をひそめたのか、それすらわから――
と、次の瞬間。マルトリッドは何かに下顎を叩かれ、脳を揺さぶられるような感覚を味わうと共に、身体を空中へ打ち上げられた。
あまりに突然のことで身体が動かせず、目視することはなかったが、マルトリッドは本能的に理解した。マオラオに下から蹴り上げられたのだ。
一体、どこに隠れていたのだろう。朦朧とする意識の中考えるマルトリッドは、言うことを聞かない腕を動かし、風を集めて防御に回そうとする。が、
「――ッラァッ!!」
跳躍してきたマオラオが、彼女の腕を掴んで前転し、校庭へ振り落とす。
さながら打たれた鞠玉の如く、地面に吸い込まれていくマルトリッド。鮮血と肉塊が飛び散るかと思われたその時、彼女は下からの突風で自らを跳ね飛ばし、アクロバティックに大回転、着地を決めた。
まさか、あの状態で地面への直撃を回避するとは。脳にダメージを与えて思考能力を奪っておいたのに、しぶとい奴だとマオラオは思う。
とはいえ、校舎を完膚なきまでに破壊してくれたのはよかった。床が瓦礫で埋まったおかげで、地下室の存在に気づかれずに済んだ。
――あんまええ思い出はあらへんけど、今回はあの部屋に助けられたな。
「オレは、あんさんが女の人やからって手ぇは抜かんからな」
独白の後、マオラオは落下の勢いを利用してマルトリッドのもとに飛び込む。途中、連続する風の刃に身を割かれたが、身を捩って急所は外し、拳を叩き込んだ。
拳は風を放出するマルトリッドの手のひらに阻まれる。回転する風が彼の指の背を切り裂き、血を飛ばすが、マオラオは怯まずにもう片方の手を構えた。
マルトリッドは強い。確かに強い。人間で、女性なのに、半分鬼で、男の自分が負けそうになるくらいには。でも、致命的な欠点がある。
こちらが鬼だから及び腰になっているのか、完璧を意識しすぎているのか知らないが、彼女は攻撃に対して防御しか持ち出さないのである。
それはいい。問題は、相手もそういうものだと思っていることだ。攻撃をされたら防ぎ、隙を見つけて攻撃を叩き込む。それが戦う者の作法であると。
が、マオラオは違う。マオラオは大南大陸の言葉で言うところの、腕を切らせて首を抜く、という戦法が取れる男だ。片手を傷つけられれば、もう片方の手で殴る、そういう奴なのである。
「らぁぁぁぁッ!!」
叫び声を上げ、マオラオは拳を振り抜いた。
*
花婿用の白い衣装を血で染めたマオラオは、脱いだ羽織が破かれてしまった都合上、自分の惨状をどう隠すこともできず、そのままの身体でマツリの元に戻った。
マツリは、マオラオ達が本格的に殺し合いを始めた辺りから、血塗れの大惨事になることは読めていたようで、両耳を塞いでしゃがみ込んでいた。
そんな『普通』の反応を見せられると、こちらとしても血塗れの格好で話しかけるのがためらわれるのだが、ずっとこうしているわけにもいかないので、なるべく汚れていない指で彼女の肩をつつく。
【王女様、終わりましたよ】
【……ひっ!? あ、え、マオラオさん?】
【はい。こないな格好ですみません。でも、さっきの女の人は倒しました。追っ手はおらんくなりましたし、校舎も壊してしまいましたし、1度、神社の方に戻ってみようかと思ったんですけど……あ】
提案の最中、第3者の姿を見つけて声を上げるマオラオ。
先刻マオラオたちも通ってきた、花咲く森の中から校庭に抜け出てきたのは、小豆色のウェーブがかった髪の巫女――スーァンだった。
【こんにちはぁ。最後の方だけだけど、見させてもらっていたわぁ。貴方、かわいい顔してけっこう手荒なことするのねぇ。女の子にもそんな乱暴だとモテないわよぉ】
【モッ……しゃあないじゃないですか、こっちがやらなやられるところやったんですから】
【わかってるわぁ。冗談よぉ】
【なっ……】
未だ状況は緊迫しているにもかかわらず、やたらとこちらの調子を崩しに来るスーァンに、返す言葉をなくしてしまうマオラオ。が、まともに取り合っている場合ではないので、気を取り直して聞きたいことを聞いておく。
【ところで、神社の状況は……】
【女王様とその妹の子が戦っていて、怪物を他の人たちが相手取っていたわぁ。私も今どうなっているかわからないけどぉ、少なくとも私が神社を離れる時までは、貴方の仲間は全員ピンピンしていたわよぉ】
【そうですか。ほんならよかった……】
それにしても、とマオラオが言葉を継ごうとした時だった。
突然、酷い飢えが彼を襲った。
それは、彼の人生で2度目の感覚だった。喉が乾いて、腹が空いて仕方がない。そんな苦痛にも思える感覚。空腹を満たすことを第一に考えるあまり、いま自分が立っている世界の形すらわからなくなる病的な飢餓。
――しまった!
自分はこの飢餓のせいで、こんな国まで帰ってきたというのに。あろうことか、それを忘れていた。
激しい後悔の中、狂うほどの食欲がマオラオの意識を飲み込んでいく。
最後に見えたのは、怯えたようなマツリの顔。逃げてくれ。必死に絞り出したつもりの言葉は、はたして2人に届いたのだろうか。
それすら、わからない。




