第132話『1枚きりの画用紙』
大きな揺れの原因は、約1時間にわたり戦い続ける2人の人物にあった。
2人のうち片方は、ダークスーツをビシッと決めた七三分けの男だ。元々切れ長のその目には細縁の眼鏡がかけられていたのだが、豪雨のためレンズがあまり役割を果たさなくなり、男によって放り捨てられた。
ぼやける視界の中、男は赤い瞳で必死に相手の姿を捉える。
対する人物は、白のブラウスと黒のパンツというシンプルな装いの女だった。
肩で切り揃えられた黒髪は大変質が良いようで、雨風を受けてもさらさらと流れるばかりで一切乱れがない。
併せて、伝う雨粒さえ装飾品の一部とするような女神の美貌を備えており、なるほど神は二物を与えることもあるのだなと、彼女を見た者にはこの世の残酷さがまざまざと見せつけられることが予想された。
雨に濡れながら荒野を駆けるこの男女の手には、実は名刀と呼ばれる2つの刀剣がそれぞれ握られている。
どちらも細長い得物であり、鋭さや軽さに特化したもののように思われるが――その実、寸前2人の立つ大地を叩き割り揺るがした『破壊』の体現物であった。
「諦めが悪いものよのう、トンツィ」
片方、髪を掻き上げた女――イツメが、距離を取って相対する青年へ嗜虐的に笑む。
当然、この豪雨の中では叫びでもしない限り、互いの声は聞こえない。だが、名を呼ばれた瞬間男――ノートンは、
「そろそろ、降参して欲しいんだがな」
と、声が聞こえたかのように苦笑。その後、イツメに向かって走り出した。
怒り狂うように叩きつける雨の中、彼は確かにあった約50メートルの対人距離をわずか3秒で埋め、無骨な手に握る愛刀を振り下ろす。
常人であれば、来ると覚悟していてもその圧に耐えられず腕を砕く一撃。しかしイツメは自分の得物をひらめかせ、悠々とした態度でそれを拒んだ。
交わった2つの刃が、震えるような金属音を立てる。
「――」
口角を引いて、2人は跳ねるように後退。
今度はイツメが攻勢に入った。
こちらはどうやら一撃のパワーではなく、数と速度で挑もうと考えたらしい。刀身を覆う雨の膜を振り切って、彼女は目が回るような速度でノートンに連撃。
雨のように細かな攻撃を叩きつけられるが、ノートンはものともしなかった。ただそれらを弾き切り、ノートンは回し蹴りをイツメの脇腹に打ち込んだ。
どむんと空気が歪む音がして、イツメが真横へ吹っ飛んでいく。
直後、その姿が消えた。
影の能力を使ったようだ。直感し、ノートンが振り向きざまに刀を払うと、きぃんと甲高い音が鳴った。2つの刀が双方からの圧に震える。
「残念だったな」
ノートンが笑うと、意味ありげに微笑み返したのは、いつのまにか青年の後ろに回っていたイツメだった。自分の影とノートンの影を繋いで、ワープしたらしい。
「どちらが、じゃろうな」
イツメの脚が振り上げられる。
その爪先に下から顎を突かれ、ノートンの身体は大きく宙へ弾かれた。
しまった、と思った時にはもう空中だ。
とれる行動を制御された中、地面を蹴る力だけで兎のように跳ね上がってきたイツメがノートンの頭上を取って、勢いよく踵をノートンの胸に叩きつける。
再び青年の身体が弾かれ、地面に突き刺さった。
その威力で、荒野の地面にヒビが入った。大小様々な形に地面が砕け、全方位に散らかって特大のクレーターが生まれる。そこへ飛び込むイツメ。彼女はノートンへとどめの一撃を入れようとするが、僅かにノートンの方が早かった。
彼は跳ね起きて、地面からえぐれ上がった土の塊を爪先に引っ掛けると、サッカーボールを扱うように足で放った。
それはまさに、超質量の弾丸だった。
身の丈よりも大きな土の塊が眼前に迫り、イツメは一瞬怯む。が、
「ッ!」
眉間にしわを浮かべるノートン。
その目線の先で、土の塊が呆気なく弾き砕かれた。
土塊の陰に隠れていた、イツメの姿が露わになる。
現れた彼女は健脚を片方、胸ほどの位置で構えて、変わらぬ姿で立っていた。
こんな、終わりのない応酬が、かれこれ1時間以上続いていた。
信じ難いことだが、お互い鬼の生まれなのでどちらも体力は保っている。
互いの得物も鬼用に設計され、打たれたものなので、これだけ長いこと振り回しても綻びの1つ存在しない。まだまだ、戦う余裕はあった。
しかも驚いたことにイツメの方は、精神的にもまだ疲れが来ていないらしい。
本人は気づいているかはわからないが、あの雨のような絶え間ない攻撃をノートンに浴びせかける時――彼女は、整ったその顔に歓喜の笑みをたたえていた。
疲労など微塵も見せない、残酷なまでに無邪気な、童女のような顔をしていた。
「……ははっ」
元々、血の気の盛んな鬼という種族。それをありありと体現してみせる、純粋な『戦闘狂』を前に自然、ノートンは笑みを溢す。楽しいわけではない。今の心境を言葉にするなら、マジか、という3文字が最もふさわしいだろう。
一方、イツメは苦笑するノートンに『嘲笑われている』と勘違いしたのか、一瞬にして不機嫌そうな顔つきになった。そして、大振りの一撃をぶつける。
ノートンは即座に構え、慣れたように受け止めた。が、怒りがこもっているぶん威力が強く、青年の頑丈な身体は足を地につけたまま吹き飛ばされた。
「――何が可笑しい」
イツメは目を細めた。濡れた長い睫毛の影が、白い目元に落ちる。
どうやら、意図せず彼女の不興を買ってしまったらしい。咎めるような視線に、根っこの部分は変わっていなかったか、とノートンはぼんやり思って、
「……いや、悪い。お前も笑うようになったんだなって、そう思っただけだよ。昔はすごく無愛想で、笑ったところなんて見たことがなかったからな。驚いて、つい笑ってしまった。すまない、楽しそうなお前を馬鹿にしたわけじゃないんだ」
と、ありのままを伝えて謝罪。するとイツメは、ふいと顔を背けた。
「別に、わらわは無愛想なわけではない。元々、わらわはよく笑う方じゃ。昔はかか様やとと様が居たから笑わなかっただけで」
「……そうか。まぁ、あの2人の前だと息が詰まる気持ちはわかるよ。何がきっかけで怒られるかわからないもんな」
言いながら、追憶するノートン。脳裏に浮かぶのは、およそ10年前のことだ。その頃のあれやこれを思い出し、その記憶に時折幼いイツメの姿が混じって、もうイツメとも長い付き合いになるのか、と彼は気づく。
そうして、記憶を展開し続けて――ふと、青年はある疑問に辿り着いた。
「けど、あの2人と言えばお前……花都の、鬼の里の第二王女であるお前が、どうしてこんなところに居るんだ?」
そう問うた時、イツメの表情が痛烈に歪んだ。
*
問いの答えが口にされたのは、少しの沈黙を挟んでからのことだった。
「……捨てた」
イツメはそう溢した。
まるで何かを、自分から遠ざけようとするかのように。自分とは関係がないのだと割り切るように、冷えきった声で。
けれどその顔には、恐怖にも苦痛にも似た色が滲んでいた。
「わらわは数年前、あの花の都を出てきたんじゃ。国も、権力も、血の繋がりも、全てを捨てて。故に、わらわはもう第二王女ではない。ただの、鬼じゃ」
「――」
イツメの告白に、ノートンは黙り込む。
彼は、イツメから事の顛末を聞き出したかった。
花の都は自分の故郷だし、家族も居る。王女であるイツメの行いは、少なからず彼らに影響を与えるだろう。一体彼女が何を思ってそんな行いに身を投じたのか、その後国がどうなったのか。イツメの幼馴染としても、興味があった。
しかし、流石のノートンにもわかっていた。
これは、イツメの人格に関わる繊細で大きな問題だ。考えずに問いを投げても、イツメは口を開かないだろうし、最悪彼女の心に傷を負わせるだけだろう。
とはいえ――。
「……ハッ。何やら余計なことを考えておるようじゃが、わらわはこれ以上の説明はせんぞ。花都のことを知りたくば、自分の目で見に行くことじゃな」
「……バレたか」
「それだけ顔に出ていればな。相変わらず、よく顔に出る男じゃ」
ふん、と形の良い鼻を鳴らすイツメ。彼女は得物を指に絡めて回し、自身に刃の先端を向けるように柄を握ると、ゆっくりと刃を喉元に差し込んだ。
一瞬、焦りそうになる光景。だが、刀身は主人を傷つけることなく、とぷんと喉の影の中に消えて行った。ここではないどこかへ、得物をしまったらしい。
勘違いをして、声を上げかけたノートンは、影の能力の発動に気づいて安堵。その様子を見たイツメが、くつくつと愉快そうに笑った。
「どうした? トンツィ」
「わかっててやっただろう……というか、もういいのか? 戦いは」
「あぁ、飽きた。それに、もう時間もないからのう。最後の最後にウヌの顔を見ているというのも、気分の良いものではないじゃろうからな。わらわは帰る」
「……どういうことだ?」
後半、自分への悪口が遠回しに混じっていたような気もしたが、そこに直接触れることはせず、ノートンはイツメの言葉の真意を問う。対してイツメは、少しの間無を口に含むと、濡れた髪を掻き上げて『腐れ縁のよしみじゃ』と一言。
「ウヌに、良いことを教えてやろう」
「良いこと?」
「あぁ。もっとも、これを知ったところでどうしようもないが――この世界は、何度も繰り返しておる。何度も、何度もな」
「うん?」
ノートンは首を捻った。
あまりにも話が唐突すぎて、ついていくことが出来なかった。
この豪雨の中だ。音がよく伝わらなくて、自分が聞き間違えた可能性もある。そう思ったノートンは1度息を吸って、聞き直した。
「世界が……なんて言った?」
「繰り返しておるのじゃ。0に戻るのではなく、0に進んで何回も」
「……0に進んで? 世界が、繰り返している?」
「ふむ、相変わらず物分かりの悪い頭じゃな。例えるなら画用紙じゃ。一面に描いた画用紙を白で塗り潰し、上から描き直す。それと同じことが、この世界にも起きておるのじゃ――『1枚きりの画用紙』という名の能力によって」
イツメは、空を見上げた。
いつのまにか、雨空というにはあまりにも暗く、黒く曇り始めていた空。それが一瞬眩く光って――数秒後、激しい雷鳴が空間を揺るがす。
その音が、その光景が何故か、ひどく、ノートンの胸を騒がせた。
「……世界を終わらせて、新しく始める能力……か。にわかには信じられないが、それは一体誰が……何のために使った能力なんだ?」
「――さぁな」
「さ……さぁな……!?」
投げやりな言いように、珍しく動揺するノートン。
彼はイツメの真意が掴めず困惑するが、向こうはこちらのことなど気に留めず、ただ目を閉じて一身に雨を浴び、諦めの混じった吐息を1つ。
「誰が使っているかなど知ったところで、わらわ達ではどうにもならんからな。あとはどう死ぬかだけ考えておれ。――また、次の世界で会おう。トンツィ」
唖然とするノートンの前、微笑を刻むイツメ。
彼女が何かを呟いた次の瞬間、彼女の姿は消えてなくなっていた。




