第115話『嗅ぐ呪術師、無臭の暗殺者』
20分ほど前、スプトーラ大森林にて。
褐色肌の男は、すん、と形の良い鼻を鳴らした。
雨が降る匂いがする。しかも、土砂降りになる前の匂いだ。
空を見上げれば、まだ薄い雨雲から溢れた日の光が見えるが、きっと、あと1時間もしないうちに周囲は豪雨に晒されるのだろう。
体温を奪われると風邪を引くし、風邪を引くと研究にも支障が出る。なるべく、雨が酷くなる前に帰らなくては。そんなことを考えながら、男――アバシィナは、凸凹として不安定な森林の大地を歩く。
エラーを戦場に放したついでに、研究の材料にする死体を探しに来たのだ。
「戦争っちゅー死体が仰山出るイベントなんか、今ドキなかなかあらへんし。こないなチャンス逃せへんからな。なんか、おもろい能力持った奴の死体があるとええねんけどな〜、おらんかな〜」
森林の枝葉から漏れた日の光を受け、毛先の跳ねた金色の髪を煌めかせながら、地面を這う大木の根によいしょ、と乗り掛かるアバシィナ。彼は幹に手を添えて、体重を預け、バランスをとりながらぐるりと周囲を見回した。
死体が1つある。もしかしたら、こいつこそは『面白い匂い』がするのでは、とアバシィナは祈るような気持ちで鼻を鳴らした。が、
「……うーん、ハズレやな」
つまらない匂いしか感じ取れず、アバシィナは肩を落とした。これで5連続だ。
「なーんでここで死んどる奴はみ〜〜んなつまらんやつばっかなん? それとも、ワシの鼻が衰えてしまったんか? 確かにワシも歳やけど、身体はピッチピチの20代やぞ? ……ほんなら、ワシの鼻がおかしいわけないやろがぁ!!」
げしげし、と死体を蹴るアバシィナ。やはり、この森を探索場所に選んでしまったのが良くなかったのだろう、という結論に落ち着いた彼だったが、依然、今回の主戦場である荒野に行く、という考えには至らなかった。
もちろん、そちらに行けば死体の母数が増え、面白い能力者が居る確率がぐんと上がることはアバシィナもわかっている。だが、入念な準備を必要とする『呪術師』である彼は、いつ裏をとられるかわからない戦場の渦中とは相性が悪かった。
故にアバシィナ1人では、人の少ない場所を選び、ちまちまと死体を探すしか他に方法がないのだ。
「しまったなぁ、エラーの能力を死体集めに特化させるべきやったなぁ……待て、考えると、あれ? 相性悪ないか? あいつ全部消してしまうやん、うそォ!」
まさか自分の作った呪い人が、自分の妨げになろうとは。
仕方がない、後でエラーは殺して、新しく呪い人を作り直そう。そう考えつつ、戦いの影響か、激しい地震が起きた後のように大きく沈んだ地面に降り立った。
すると、
「……ん。なんやキミ、馬か」
アバシィナは、そこでぽつんと佇んでいた、毛並みの美しい馬に出会った。
戦争の混乱の中で失ってしまったのだろう、付近に乗り手らしい人物はいない。しかし、乗り手が帰ってくるのを待っているのだろうか。その馬は、アバシィナの存在には気づかないまま、じっとその場で静止していた。
その凛とした、気品すら感じる佇まいに、アバシィナは青の双眸を輝かせ、
「盛り上がったケツ、輝く毛並み……さてはええ馬やな! よっぽど大事に育てられたんやろなぁ……せや、そン身体を活かして、ちょっと暴れてみいひんか?」
語りかけ、幼児のような無邪気さで、馬に駆け寄るアバシィナ。
その足音と、伸ばされる褐色の腕でようやく青年に気づいた馬は、『なんだこの無礼なやつは』とでも言いたげな目でじとりと彼を見下ろした。
だが、不躾に触れたアバシィナの手が、淡い青色に輝いた瞬間――。
「――――ッ!」
「わっ、あぶ!」
突然、馬は我を忘れて暴れ回った。
身を捩り、脚を上げ、とにかくアバシィナを離そうと全身を動かす。更には大粒の汗をかき始め、とにかく自分から引き剥がそうと、全力で彼を拒絶した。
「お、おうおうおう、げ、元気のええこった! せやけど、いだっ、も、もうちょい、静かに、してくれん、か!? 馬、に、蹴られて、あの世、行き、なんてっ、ダサい、死に方、した、ないねん! ど、どーどー……ウワッ!?」
振り払われ、尻から地面に転がり込むアバシィナ。激痛が背筋を走り、あまりの痛みに叫び声を上げようとした瞬間、彼の身体に影がかかる。
その影はどんどんと大きくなり、最中、アバシィナの頭上を何かが掠めた。
――それは、巨大な蹄だった。大きく空振ったそれは、大木の1つにぶつかり、めりめり、と幹にヒビを入れる。そこへ巨大な馬の尻が衝突し、追い討ちをかけ、見事にへし折れた木は他の木々に衝突した。
大地が、枝葉が揺れ、砂埃が上がる。
直に砂を吸い込み、何度かむせたアバシィナは喉を押さえながら上を見上げ、
「おぉ……!!」
思わず溢れた感嘆の息。
そこにあったのは、体長20メートルはあろうかという――先程の馬がアバシィナに呪力を流し込まれ、生態を狂わされて巨大化した姿であった。
品性も理性も失ったそれは、巨大化した脚で大森林の大木を簡単に蹴り飛ばし、大地を踏みならして粉砕。そこへ、風を薙ぎながら振り回される規格外のサイズの尻尾はもはや、巨人のために作られた箒のようだった。
ここまで来ると、いっそ馬というより歩く自然災害である。アバシィナも、自身の想像を遥かに超える怪物ぶりに、ぷっと吹き出して絶倒し、
「ハーッ、とんでもないもん作ってしもたぁ! しかし、なるほどなぁ。馬に呪力を直接与えると、こないなことになんねんな……砂漠には馬なんかおらへんから、勉強になったわ! そんじゃあ、まぁ、元気に暴れてきぃや〜!」
うっかり踏み潰されたりしないよう、そそくさとその場を離れ、死体探しを再開するのであった。
*
白い装束の集団に囲まれ、少年は大鎌を振るう。
一振り、二振り、三振り。振れば振るほど、鮮血が宙へ迸る。
続き、華奢な身を軽快に踊らせ、敵の間を駆け抜け、腕の筋肉を唸らせた。
大鎌の柄に白い指が絡まり、ぐるんと頭上で鎌が回る。鉛色の残像がプロペラのように走った次の瞬間、少年の両脇に居た敵2人の頭が落ちた。
気づけば、周囲は真っ赤に染まっていた。
赤黒くなった荒野を踏みしめ、少年――シャロは手の甲で顔を拭う。血が拭い去られた口元は、悪戯好きの子供のような微笑を刻んでいた。
「えへっ、ウチ、前よりちょっと強くなってるじゃん……!」
どうやら、純粋に自身の成長を喜んでいるらしい。彼は新たな敵の姿を探して周囲を見回し、そして天使を蹂躙する熊のような大柄の男の姿を見つけた。
男は、これまた熊のような逞しい両手に、特大の斧を握っていた。それが彼の得物なのだろう。見た目からもかなりの重量を感じるそれを手に、天使に全方位から襲い掛かられた男はぐっと腰を落とす。
直後。男は正面から来た白装束を避け、すれ違いざまに振り返った。狙いは頭。
大木さえ両断しそうな巨大な斧が、熊男に攻撃を避けられた白装束の後頭部に叩き込まれる。ぬるりと、包丁に切られる果実のようにたやすく刃を受け入れた頭は割れ、その割れ目から噴水のように血を走らせて、天使が1人、地に崩れ落ちた。
その次、2人がかりで天使が熊男を殺しにかかるが、うち片方の人物の、熊男に蹴りかかった足は片手で受け止められ、斧を通されて切断。安物の人形のように簡単にとれた足からは血が噴き、骨と肉の綺麗な断面が覗いた。
とれた足の主も、一瞬何が起きたかわからなかったのだろう。静かに崩れ落ち、その後、膝から先のなくなった片足を見て絶叫した。
一方、その人物の相方らしき白装束は、仲間が狂ったように喚く様子を目にして血相を変え、一目散に逃げ出した。自分も同じ目に遭うと思ったのだろう。
が、幸い深追いをするような性格ではなかった熊男は、地面に崩れて哭き叫ぶ天使の喉を斧で叩き潰し、文字通り息の根を止めた。
「おぉーっ」
シャロが近づきながら拍手をすると、熊男は一瞬警戒したように気を尖らせる。が、
「あぁ、あんたかぃ」
近づく影が仲間のものだとわかると、男――レムは、ふっと気を緩めた。
それから、斧を空振りして軽く血を払い、
「嬢ちゃんとこも、上手くやったようだなぁ」
「まーね! シャロちゃんは天才だから……ってのもあるけど、やっぱりオジサン達が偵察に行ってる間、ずっと訓練してたのが大きいかな」
「オジサン……これから俺ぁそう呼ばれんのかぃ」
これでも30半ばなんだがねぃ、と頬を人差し指で掻くレム。
最近は忙殺されていたため、剃り忘れていた無性髭がちりちりと指の肉を刺す。思えば最近は、見た目に気を遣うことも減ってきたが――いや、そうか、この髭は順調におっさん化している証なのか、などと戦慄しつつ、
「まだ動けそうかぃ、嬢ちゃん」
「もちろん! まだ擦り傷1つ食らってないからね、まだまだ戦うつもり」
どん、と胸を張るシャロ。対して、先程の戦闘でしっかりと体力を削られていたレムは、若々しい少年を前に『若えっていいねぃ』と眩しげに目を細めた。
――しばらくすると、荒野に立つ白装束の姿はだいぶ少なくなっていた。
「ウチらが狩り尽くしちゃったってことかな? 強いから仕方ないね」
「いや、それもあるだろうが……多分、こっちの侵攻が向こうの想定よりも早かったから、オルレアス軍を手前の拠点に侵入させねえために、生きてる奴ぁ防衛側に回ったんだろぃ。だから、実際奴らの数はそれほど減ってねえな」
そう推理した2人は、オルレアス軍に加勢するため拠点側へ歩くことに。
その道中、地面に伏せる遺体の中に知り合いの班員の姿があったのを見て、シャロは1度『待って』とレムを引き止める。そして、しゃがみ込んで目を瞑り、生前その人物が信仰していたアクネ教風の簡易な祈りを捧げた。
なお、宗教には興味がないらしいレムは、シャロに倣って目を瞑ることもせず、
「……いって」
最中、後ろでずっと鼻毛を毟っていた。
*
拠点までの道のりは、赤黒く彩られていて、あちらこちらから血の匂いがした。そして、両軍大量の死体が等しく無残な状態で転がっていた。
全身が焼け爛れた者、四肢がもげている者、肉塊の塊に形を変えた者――中には『誰なのか』以前に、人なのかどうかすらわからない死体もあった。だが、彼らが身につけた白装束と黒いマントが、辛うじて生前の人物の陣営を示していた。
「……ぱっと見、どっちもおんなじくらいだね。人数」
哀しむでも、恨むでもなく、ただ事実を述べる事務的な声で呟くシャロ。
だが、人の命の交換レートが1対1でも良しとされるのは、こちらの勢力の方が敵方よりも大きかった場合のみだ。当然、母数は向こうが推定10万以上、戦争屋陣営が1万5千とこちらの方が断然少ないので、
「割合的に言やぁ、こちらの方が追い詰められてんだけどねえ……って、あ」
「ん?」
「あれ、剣の嬢ちゃんじゃねーかぃ?」
そう言って、一方を人差し指で指し示すレム。
彼の案内に従い、シャロがそちらに目を向けると、
「……あ」
そこには彼の言葉通り、剣を引っ提げた銀髪の少女――ノエルが立っていた。彼女はぼーっと空を見上げており、こちらには気づいていないようだったが、
「ノエル!」
シャロが喜びの滲む声で名前を呼び、駆け寄っていくと、ノエルは驚いたような顔をして漆黒の双眸を少年に向けた。
「シャ、ロさん。それから……レムさん」
「良かったぁ……ノエルは実戦初めてだし、もしかしたら死んじゃってるかもって思ってたから、すっごい安心したよ。でも、だめじゃん、こんな危ないとこで気ぃ抜いちゃあ。近づいたのがウチらだったから良かったケドさぁ!」
「……確かに、不注意でした。気をつけます」
ぺこり、と小さな頭を下げるノエル。
しかし、やはり何か気になるのか、彼女はちらちらと頭上に目を向ける。はて、そこに何かあるのか? と気になったシャロが一緒になって空を見上げると、
「ん、なんか今濡れた。……もしかして、雨、降ってる……?」
「はい。先程から少しずつ、降り始めたみたいです。……もし、このまま雨が降り続けて、大嵐になったらどうなるんでしょうか?」
「まぁ、一時的に撤退すんのが一般的でい。……先頭の、進むところまで進んじまってる馬鹿はどうなるかわかんねェが」
かつては弟子のように育ててきたアホのことを思いながら、1度意識すると剃りたくてたまらなくなってきた自身の髭をざらざら撫で回すレム。
今日はかつての戦友が隣に居るおかげでいつになく盛り上がっているようだし、元々の性格と併せて考えると、そろそろ拠点――もとい、大嵐どころでは引き下がれない領域に侵入していてもおかしくはないだろう。
「ん〜、とにかく、マオ達から指示が出されてない以上、ウチらも先に進んでもいいんじゃない? 危険そうだったら既になんか言ってきて――」
と、シャロが喋っていた、その時だった。
――何か、透明で鋭利なものが、空間を一直線に斬って飛んできた。
それを一瞬で視認できた者はいなかったが、ノエルが後頭部と、背中と、片足から血を上げて前方にひっくり返った瞬間、シャロもレムも『それ』に気づいた。
悲鳴すら上げずに、顔面から地にのめり込むノエル。その背面には、針のように長く尖った、氷が刺さっていた。
「……え?」
一瞬、何が起きたかわからず、目を見開くシャロ。
その横のレムは異変に気づくやいなや、双斧の柄を握り、ノエルの背中が向いていた方向――氷の針が飛んできた方向を振り返り、睨みつけた。彼が鋭い眼光を飛ばした先にあったのは、鬱蒼としげる木々の群れ、もといスプトーラ大森林だ。
そして、
「……あいつかぃ」
その木々の間から現れた敵を視認した獣は、目を細めて低く唸る。
遅れて、夢から覚めるようにゆっくりと我に返ったシャロも、たった今決定した抹殺対象を視界に入れ、
「――お前が」
近づいてきた『無臭』の男を、琥珀の瞳で睨みつけた。




