第107話『止まることより進むことを』
「――」
吹雪の止んだ世界で、フラムは氷像の表面を撫でた。
フラムも人並みの体温をしているはずなのに、どれだけ長く触れてもその表面に水滴が浮かぶことはない。どうやら普通の氷と違って、簡単には溶けないようになっているらしい。
赤くふやけた指先を抱え、感情の消えた眼をしたフラムは氷の中に閉じ込められたリリアを見つめた。
彼女は驚いたような、怯えたような表情のまま停止している。恐らくまだ生きてはいるのだろうが――それでも、フラムの心は楽観的にはなれなかった。
「フラム!」
突然、後ろから声をかけられて振り向く。すると、
「……あ、のーとん、さん」
息を切らして肩で呼吸をしている、ノートンの姿がそこにあった。
数時間前に着たばかりの迷彩服がもう血塗れになっている。恐らく、白装束との戦闘があったのだろう。そう察すると同時に、彼に同伴しているはずのミレーユが居ないことに気がついて嫌な想像が頭をよぎった。
不思議と、フラムの表情はぴくりとも動かなかったが。
「リリアは……氷使いにやられたんだな」
歩み寄ってきたノートンが氷像に触れ、フラムは力なく頷く。
「……はい。僕の、力不足のせいで」
「いいや、お前のせいなんかじゃない。生存しただけでお前は十分だよ。責任感が強いのは良いが……全て1人で気負おうとするな。とにかくリリアの身体は一旦、海岸に待機している船の方に運ぼう。動けるか、フラム」
相棒の凄惨な姿を見ても、あまり動じずにことを進めようとするノートン。冷静沈着とも言えるが、言い換えれば冷酷非道にも思えるその素振りに、フラムの中であってはならない苛立ちの感情が生まれ始める。
どうして、仲間がこんな姿になっても悲しもうとしないのか。
どうして、リリアをこんな目に合わせた自分を叱ってくれないのか。
処理班として前線に居るから、日常茶飯事なのか? だからと言って全く安否を気にかけないというのは、それは仲間の命を軽んじているのではないか?
戦わなかった、何も出来なかった立場の癖に、そんな意地の悪い疑問ばかりが湧き上がってきて、フラムは冷えた瞳のままノートンに問いかける。
「あの」
「なんだ?」
「どうして、怒らないんですか。リリアさんのこと、お嫌い、なんですか」
そう言っている間にも、胸中で感情が渦を巻く。激情のあまり喋り方が拙くなってしまったが、ノートンはフラムが何を言いたいのかを悟ったらしい。ノートンはふと真面目な顔つきになって、寒さで耳を染めて白い吐息をし、
「怒る時間は、残念ながらない。俺は一刻も早くリリアを助けたいんだ」
「――!」
「怒る気力も怒る体力も、ない。その力は全て、これ以上の被害を出さないために使いたい。それに、怒られずともお前は1人で反省できているだろう。なら、俺に怒られる必要はない。代わりに、これから出来ることを考えるんだ」
諭すような真っ直ぐな目に、フラムは何も言えなくなってしまう。
目を伏せ、口を結び、青年は静かに声を絞り出した。
「……はい」
「じゃあ、リリアを運ぼう。持ち運びづらいから……仕方ない、槍の部分だけは折っておく必要があるな。後でリリアに怒られないと良いが……はは」
苦笑しながらもリリアの持つ槍に手をかけ、鉄製の上に氷の塗装がされたそれを一瞬で曲げ折るノートン。パキ、と意外に呆気ない音がして矛と柄が落ち、流石にフラムも困惑してぴくりと彼の頬が動く。
だが――やはり、彼は完璧超人だ。強くて賢くて、いつも落ち着いている。フラムの何倍もリリアや仲間のことを考えていた。自分とは大違いだ。
自分じゃなくて彼がここに居たら、リリアは無傷でいられたし、バーシーも倒すことが出来たんじゃないだろうか――と、そう考えずには居られなかった。
*
凍りついたリリアを2人で担ぎながら、船の方へと進んでいく。
スプトーラ大森林の中は先程の戦いが嘘のように静まっていて、無言で歩くフラムとノートンの間には長いこと静寂が降りていた。
しかし道中、流石に気まずくなってフラムから声を上げる。
「ミレーユ、さんは、どうしたんですか?」
「それが、逸れてしまったんだ。俺が白装束と戦っている最中に見失って……マオラオには、船の方に戻ったらミレーユを『監視者』で探すように頼んでいるから、もうじき行方がわかるとは思うが」
「え、マオラオさんとレムさんが仮拠点から居なくなってたのって、」
「あぁ、退避させたんだ。ここで全滅するわけには行かなかったからな」
「なんだ、よかった……」
エラーに消し去られたわけではなかったのか、と安堵するフラム。しかしまだ安心できないことがあるのに気づき、
「あ、あのっ、そういえば」
フラムは次の会話の口火を切り、エラーのことについて話す。
人を消し去る力を持った少女が居ること、その少女はヘヴンズゲートの呪術師に作られたこと。その子にフラムの分身体が殺されてしまったこと、まだその子が周辺に居る可能性があることなど、自分の中の情報は全て打ち明けた。
すると、ノートンは振り返らずに足を動かし続け、
「拍手で、相手を殺す少女……。それが本当なら、対処のしようがないな。作った人間の命令に従って殺し回ろうとしてるなら、見つけ次第その子が手を叩くよりも先に殺すしかないわけだが……呪術、か。イヴに聞けばあるいは……」
と、フラムの知らない人間の名を挙げて深く考え込んでいた。
それから少しすると、2人はスプトーラ大森林を抜けて海岸に到着した。そこには変わらず船が浮かんでいて、マオラオとレムの姿が甲板にあった。やはり戦闘があったらしく、2人とも迷彩服が血塗れだ。
大した怪我はなかったようで、どちらもピンピンしている。が、
「あれ、なんかちょっと……雰囲気……暗い、ですね」
「……」
遠目に見える彼らは、俯いて何かを話しているようだった。
どんな表情をしているのかまではわからないが、傍目に見ている感じ、あまり良い雰囲気ではなさそうだ。
――少しして、マオラオが浜辺を歩くこちらに気づいた。氷のクリスタルの中にあるのがなんなのかに気づいたようで、暗かった表情を更に暗くしたが、彼はその後すぐにタラップをかける作業に取り掛かった。
彼らが気落ちしていた理由がわかったのは、それからすぐのことだった。
リリアを船の中に保管した2人はマオラオ達と共に甲板に戻り、何があったのか事情聴取をする。すると、レムが事のあらましをぽつぽつと語り始めた。
まとめると、まずノートンに退避命令を出されて船に戻った後、何故かミレーユの無線機がマオラオの無線機とずっと繋がっていたらしい。
それで彼女と誰かの会話が聞こえてきたので、船の中にあるレーダー探知機でミレーユの無線機の位置を割り出し、『監視者』でその方角を見ていたところ、
「こいつぁーあの兎のお嬢ちゃんが、イツメ=カンナギって女に頭を握り潰されるところを見ちまったんだとよ。トマトみてえにグシャアッと」
「それは、つまり……ミレーユが死んだのを、見たのか」
「……せや」
力のないマオラオの声が、声を震わせるノートンの問いを肯定。すると、空間を支配するのは痛いほどの沈黙だ。そこへ浜に打ち寄せる波の音が響くが、その心地よい響きも今は、心にできた空洞の大きさを自覚させるばかりであった。
「……ただ、代わりに得れた情報もあんねん」
「情報……ですか?」
フラムが恐る恐る尋ねると、マオラオは無言で頷いた。
「ミレーユさんが拠点の中で無線機を起動して、長いこと通信を繋いでくれはったおかげで、拠点の……スプトーラ学院の位置は知れたんや。やから、『監視者』が使える限界まで、学院の構造や白装束の人数も調べたんやけど……」
「――何か、めぼしい情報はあったか?」
「いいや、ノートン。端的に言うと、乗り込むことは出来ひんな」
「……どういうことだ?」
怪訝そうな顔をするノートン。レムは事前に理由を聞いているようで複雑な表情をしているが、何も知らないフラムは同様に困惑している。
乗り込めないとなると、当初からの予定が崩れてしまう。計画は途中から作り直しだ。そうせざるを得ない理由が、マオラオの見た世界にはあったというのか?
続きの言葉を期待する視線を受け、マオラオはとうとうと語り出した。
「学院の中は迷宮みたいに入り組んどって、人数もこっちの3倍はゆうにあった。それに……なんか、地下に無数の機械人形? が置いてあってん、よくわからんかったけど……兵器かもしらん。乗り込めば一網打尽にされることは確かや」
やから、とマオラオは言葉を継ぎ、
「地の利を使われへんよう、そして勢力を小分けに出来るよう、アイツらをまとめて外に出させる必要があると思うねんな――ってのを、オレは今から本部に連絡しよぉ思っとる。計画を、1から立て直すんや」
はっきりと告げた時、大森林の枝葉が波のように煽がれてざわめいた。
*
1時間後、オルレアス本部へ通信が入った。
「内容は以下の通りよ」
いつもの会議室にて1人起立するフィオネが、背後に置いたホワイトボードを全体に見せる。そこには乱れのない美しい字で、マオラオからの通信の内容が簡易にまとめられており、円卓の間は少しの間静寂が訪れた。
「……ふむ。外での戦争、とな」
一通り読み終えた国王ブルーノが、興味深そうにつぶやく。
「拠点である旧スプトーラ学院の中は入り組んでいて、かつその人数は推定3万。大体アタシたちの2倍ね。拠点に居た人数だけでそれだから、世界中に分布している人数を考えるとどれほどになるか……10万では済まないでしょうね」
「それでもし拠点内に突撃したとて、数万の応援を呼ばれて挟み撃ちにされる可能性がある。だから、外での戦争に切り替えようというわけですわね」
ノートンもリリアも不在の処理班の、代理リーダーとして呼ばれたシーアコットが、慎ましやかに扇子で口元を隠しながら納得の表情を浮かべた。
「ええ。旧スプトーラ学院は森で囲まれているけど、200メートルほど離れた地点に拓けた荒野がある。そこでなら伸び伸びとした戦争が出来るわ」
「しかし――屋外の戦闘には難点もあるかと思われます」
声を上げたのは凛々しい顔つきの老人だ。実年齢は60代後半だったはずだが、洗練された雰囲気により20歳は若く見える。
勇気ある彼の異議に、フィオネが微笑をたたえた。
「あら、マーコス軍事副大臣。どうして?」
「屋内なら下から攻めて上に追い詰めるだけですが、屋外だと敵に逃げ道を与えてしまうことになります。スプトン共和国は2つの国と繋がっていますし、海にも面していますから、逃走経路は十分にあるかと……」
「いいえ、奴らの逃げる場所は限られているわ。――この地図を見てもらえるかしら」
フィオネが大きな世界地図を広げ、磁石でホワイトボードに貼り付ける。
「スプトン共和国が海に面しているのは南と東。南はすぐ下に大南大陸があるわ。海賊が蔓延り、呪いの使用によって生まれる邪気を浴びたことで動物が変態した『呪獣』――更には『砂の民』も居る。逃げ場には不向きすぎるの」
「……呪獣、ですか?」
不思議そうな顔をするマーコス副大臣に、フィオネは『えぇ』と頷く。
元々『呪獣』というのは国家自体が機密的な『水都クァルターナ』を囲むクァル砂漠で発生した存在なので、そんなに有名なものではなく、彼――マーコス副大臣が知らないのも無理はなかった。
「巨大化したサソリ、毒を持ったネズミ、他にも色々あるらしいけれど……呪いの気を受けて、異様な生態変化をしてしまった動物たちをまとめてそう呼ぶわ」
そして、そういった呪獣は数十年前から確認されていたのだが、最近は特に大南大陸で呪術の使用が進み、ついに『海にも呪気が流れ出した』という報告があり、
「貿易船が体長約50メートルの巨大魚1匹に沈められた、なんて話もあるわ。まぁ、魚そのものは通常2メートル程度とされるダイナンマグロだったんだけど、呪力のせいで巨大化・凶暴化したらしくて」
「……なんと」
「まぁ、当然こんな危険な海に逃げるわけがないわよね」
驚く副大臣を前にフィオネは髪をさらりと払い、細長い指で地図を指す。
「となると逃走先は2つの国家か東の海というわけになるけれど、当然東の海からはアタシたちが攻め入ってくる。仮拠点も恐らく東に置くでしょうから、こちらに逃げ込むような真似はしないわね。自滅と同意義になるもの」
「……確かに、そうですな」
「そして2つの国家だけど……見ての通り、デルガ王国とスプトン共和国の国境は山岳地帯になっている。つまり、逃げ込むとしたらこっち」
フィオネはそう言って、スプトン共和国の北西を指差した。そこにはディエツ連合国という国との国境があり、その国境地帯は森林で占められている。
「だから、逃げられないようにこの森を焼き払う必要があるわ。とりあえず木を切り倒して、道を塞いでおくのはノートンとマオラオの役割ね。そうなると……兵士団から数人、火付け役として人員をお借りするわ。いいかしら?」
「は、はい」
「それじゃあ、詳しい内容をこれから決めていきましょう。――長く、なるわよ」
美丈夫の紫紺の双眸が、妖しげに輝いて細められた。




